今週の礼拝メッセージ

2022124日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書41421節、ローマの信徒への手紙15413節、イザヤ書55111

「神の口から出る言葉」

 

 

アドベント第2主日礼拝

 

 12月に入りました。この数日は気温も下がり、朝晩と真冬を思わせる寒さとなっています。皆さんもくれぐれもお体ご自愛ください。また道路の凍結、車の運転にもどうぞお気を付けください。

 

 先週の1127日(日)から、教会の暦でアドベント(待降節)に入っています。アドベントはイエス・キリストの誕生を待ち望み、そのための準備をする期間です。アドベントは1224日(土)まで続きます。本日はアドベント第2主日礼拝をおささげしています。

 

 講壇の前に飾っているリースは、アドベントクランツと言います。「クランツ」はドイツ語で「輪」を意味する言葉です。教会ではアドベントの時期に、クランツに立てられたろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆく風習があります。本日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火がともされています。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。毎週1本ずつろうそくに火がともってゆく様子を見ることを通して、クリスマスがだんだん近づいてきていることを実感することができます。

 

先ほどご一緒に、讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』を歌いました。歌詞の中で、ろうそくに1本ずつ火をともしてゆく様子が謳われていましたね。今日は2番まで歌いました。2番《主を待ち望むアドヴェント、第二のろうそく ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう。/主の民よ、喜べ。主は近い》。

 アドベントはイエス・キリストのご降誕を待ち望む時期です。と同時に、静かに待っているだけではなく、イエスさまがなされたように互いに助け合う姿勢を持つべきことが謳われています。アドベントのこの時、心の目を覚まし、神さまと隣人のために自分にできることを果たしてゆきたいと思います。

 

 

 

預言者 ~神の言葉を預かる人

 

 冒頭でご一緒にイザヤ書55111節を読みました。イザヤ書は旧約聖書(ヘブライ語聖書)に収録された代表的な預言書の一つです。

 

「よげん」と聞くと、私たちは二つの漢字の表記を思い浮かべますね。「預言」と「予言」です。普段私たちが見ることが多いのは後者の「予め(あらかじめ)」という字が付く「予言」でしょう。未来を予知するものとしての予言です。ノストラダムスの大予言が有名ですね。

 この予言とは区別されるものとして、私たちの用いている聖書では前者の「預言」という表記を用いています。「言葉を預かる」と書く預言です。この表記において示されている通り、預言が意味する第一のことは、「言葉を預かる」ことです。誰の言葉を預かるのかと言いますと、神さまの言葉です。「神の言葉を預かる人」、それが聖書における預言者なのですね。預言者の働きの中心にあるのは、「神の言葉を預かり、それを人々に伝える」ことです。その預言者たちの言葉を集め、後の人々が編集したものを預言書と言います。

 

 もちろん、預言者たちが未来に関する事柄を語ることもあります。預言者たちは時に、自分たちを待ち受ける破滅的な未来についても語ることがありました。ただしそれらの言葉は未来を直感的に予知した言葉というよりは、目の前の腐敗した現実の帰結として、この先このようになる、との神からの警告として語られたものです(参照:『新共同訳 聖書辞典』「預言者」、キリスト新聞社、1995590頁)。そのような破局的な未来を自ら招かぬよう、神さまにいま立ち帰るべきことを預言者たちは訴え続けました。

 

 

 

神さまの御心

 

 改めて、イザヤ書55111節をご一緒に読みしたいと思います。これらの言葉もやはり、イザヤが神から預かった言葉――預言の言葉の一つとして収録されているものです。

 この短い11節の中に様々な大切なメッセージが込められていますが、本日は特に811節に注目してみたいと思います。

 

 まず前半の89節をお読みいたします。《わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。/天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている》。

 

 ここでの「わたし」はイザヤではなく、神さまご自身です。《わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なる》――と《主は言われる》、とイザヤが取り次いでいるのですね。続けてイザヤは神の言葉を取り次ぎます。《天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている》。

 

《わたしの思い》(神さまの思い)とは、言い換えますと、神の御心のことです。主の祈りの第3番目の祈りでも《みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ》と祈っていますね。私たち教会は、天の神さまの御心がこの地上に実現しますように、と祈りを合わせ続けています。

 

と同時に、このイザヤ書55章では、あくまで、神さまの御心は私たちの思いとは異なるのだと語られています。神さまの思いは、私たちの思いを高く超えている、と。天と地のように、そこにははるかな距離があるものなのです。私たちは神さまの御心を理解し尽くすことは本来的にできないものです。また、《わたしの道はあなたたちの道と異なる》とも語られています。神さまのご計画は、私たちの計画とは異なるのだ、と。

 

 このことは、預言の言葉を考える上で、とても重要なことではないでしょうか。それは私たちの日々の生活においてもそうです。自分が神さまの思いを理解していると過信するとき、私たちは神さまの御心と自分の思いをすり替えてしまうことが容易に起こり得るのではないかと思います。

また、神さまの御心は私たちの思いを高く超えているとの認識と謙遜さを見失ってしまったとき、自分の思いを他者に「神の御心」「神のご計画」として押し付けてしまうことも起こり得るでしょう。これは教会の中で絶えず起こり得ることであり、場合によっては人権侵害、ハラスメントにつながってしまう危険性もあります。「神の御心」「神のご計画」という言葉を他者に強要することがないよう、私たちはよくよく気を付ける必要があります。

 

何が御心であるのか、私たちには完全には分かりません。神さまのご計画がどのようなものであるのか、私たちには知り得ません。神さまの御心を完全に理解しておられるのは、イエス・キリストお一人です。私たちは少しでも、神さまの御心に近づくことができますように、と祈り求めることはできるでしょう。私たちの意志が、神さまの意志に少しでも近づいてゆくように、祈り求めてゆくことが大切であるのだと受け止めています。

 

 

 

神さまの口から出た言葉

 

 続けて、イザヤは次の神さまの言葉を取り次ぎます。1011節《雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。/そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす》。

 

 ここでは、神さまの口から出た言葉はむなしくは神さまのもとに戻らないことが語られています。《それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす11節)。神さまの言葉は、途中で放棄されることはなく、必ずその使命を果たすのです。

ここでは、その神さまの言葉が、天から降る雨や雪で表現されています。雨も雪も天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、植物に芽を出させ、成長させ、私たちに人間に種を与え、糧を与える。いつどのように植物が芽を出し、成長するのかは私たちには正確には理解し尽くせません。けれども必ずそれは実を結び、私たち人間にも種を与え、糧を与えてくれます。同じように、天から降った神さまの言葉も、この地上において、必ず神さまが望まれることを成し遂げるのだと語られています。

 

 神さまの言葉が天から降る雨や雪で表現されていることは、心打たれることです。天の神さまの思いは私たちの思いを高く超えており、私たちはそのご計画を理解し尽くすことはできませんが、地上にいる私たちのために、神さまの言葉が雨や雪のように天から降ってくることが語られています。神さまの方から、私たちに近づこうとしてさっているのだと受け止めることができるでしょう。

 

 

 

神さまの言葉はかたちを変え

 

神さまの言葉が雨や雪でたとえられていることで、もう一つ、心打たれるところがあります。それは、様々な紆余曲折(旅路)があることが前提とされているところです。雨や雪が大地に沁み込み、潤し、植物を育み、そうしてやっと種となり糧となり……。神さまの言葉がその使命を果たすまでには、長い月日が必要であることが前提とされていると受け止めることもできるでしょう。

この表現から、神さまの言葉は、私たちに無理矢理押し付けられるものではないことが汲み取れるのではないでしょうか。神さまは私たち一人ひとりの自由を尊重し、その主体的な決断を尊重してくださる方です。神さまは私たちの救いのために言葉を発しつつ、同時に、それを私たちに強要することはなさいません。

神さまの願い、神さまの御心はとこしえに変わることはなく、しかしその願いの実現のため、むしろ神さまの言葉の方がそのかたちを変え、私たちの歩みにとことん寄り添い続けてくださっているのです。イスラエルの歴史において預言者たちが預かり続けた神の言葉は、そのような神さまのお姿を証しています。

 

 

 

イエス・キリスト ~人となられた神の言葉

 

この神さまのお姿は、何より、御子イエス・キリストのお姿を通して、私たちにはっきりと示されています。

 

新約聖書はイエス・キリストを、「人となられた神の言葉」として捉えています。神さまの言葉は私たちのためにかたちを変え続け、ついには、神さまご自身が人間となられた。天から降り、この地上の、粗末な家畜小屋で、赤ん坊としてお生まれになってくださった。私たちと同じ人間として成長し、私たちと共に生きることをしてくださった。ご生涯の最後には、十字架上でご自身の命をささげ、そして3日目に死より復活してくださった。そうまでして、ご自分の願いを、御自身の言葉に与えた使命を完全に果たそうとして下さったのです。

 

 神さまの思いは私たちの思いを高く超えており、神さまの道は私たちの道を高く超えています。と同時に、神さまは天から私たちのために独り子をお送りになり、その御子イエス・キリストを通して、私たちに命の道を示して下さいました。いまも示し続けて下さっています。この御子キリストと共に生きることを通して、私たちは神さまが示してくださる道を一歩一歩、歩んでゆくことができます。

 

 最後に、先ほどご一緒に歌った讃美歌55番『人となりたる神のことば』の歌詞を引用いたします。

 

《人となりたる 神の言葉、/まことと知恵と 光の主よ、/見よ、聖書より 輝き出で、/われらの道を 照らしたもう》1番)