今週の礼拝メッセージ
2025年2月9日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書6章8-12節、ローマの信徒への手紙1章18-25節、マタイによる福音書13章10-17節
イエス・キリストのたとえ
新約聖書の福音書の中には、イエス・キリストのたとえ話がたくさん収録されています。皆さんはどのたとえ話がパッと頭に思い浮かぶでしょうか。たとえば、「迷い出た羊」のたとえ」(マタイによる福音書18章10-14節)や「放蕩息子」のたとえ(ルカによる福音書15章11-32節)を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。「種を蒔く人」のたとえも有名ですね。本日の聖書箇所マタイによる福音書13章10-17節の前後には、「種の蒔く人」のたとえとその解説が記されています(13章1-9節、18-23節)。イエスさまは人々に教えを伝えるにあたり、積極的にたとえを用いられていたことが分かります。
イエスさまのたとえに関して、ある方がおっしゃったことで「なるほど」と思ったことがありました。その方いわく、イエス・キリストがたとえ話を用いるのは、「答えを与えるのではなく、聞いた人が主体性をもって決断することができるようにする」意義があるとのことでした。確かに、たとえ話はそれを聞いた私たちに、自ら考えることを促します。たとえ話は、必ずしも、すぐに「答え」を教えようとするものではありません。聞く人が自ら、様々に思い巡らし、主体的に考えることができる伝達手段、それがたとえ話であると受け止めることができるかもしれません。
本日の聖書箇所の前後には「種を蒔く人」のたとえとイエスさまご自身の解説が記されていますが、これはむしろ例外的なことで、イエスさまのたとえ話には基本的に解説が付されることはありません。ですので私たちは、様々な解釈を試みたり、その日その時にふさわしいメッセージを汲み取ることができます。
私たちの日々の心の在りよう
イエス・キリストのたとえにおいては、私たちの主体的な在り方が大切なものとされている。それは言い換えますと、私たちの日々の心の在りようが問われているということでもあります。私たちの心の状態によっては、イエスさまのたとえ話を聞いても、まったく理解できないということもあるでしょう。そのことを、本日の聖書箇所でイエスさまはイザヤ書(6章9節)の預言の言葉の引用によって、こうお語りになっています。《あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。/この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。…》(13章14、15節)。
確かに私たちは耳では聞いているけど、聞けていない、心の耳では聞くことができていないということがよくありますね。目では見ているけど、実際には見ていない、心の目では見ることができていないことがよくあります。イエスさまのたとえ話には《天の国の秘密》(11節)が隠されているのに、それを理解することが出来ない。
神の国の秘密
「天の国」とは、「神の国」と同じ意味の言葉です。マタイによる福音書は「神」という言葉を直接的に用いるのを控えて「天」という言葉を使っています。
「天の国」または「神の国」とは、どのような場所のことを指しているのでしょうか。神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」とか「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、また神の願いが満ち満ちている場所というニュアンスです。神の国とは、神さまの願いが実現されている場であると言えます。
では、神さまの願いとは、何でしょうか。それは、「一人ひとりが、かけがえのない存在として重んじられ、大切にされること」であるとご一緒に受け止めたいと思います。神さまの目に価高く貴い(イザヤ書43章4節)私たち一人ひとりの生命と尊厳が、この世界において現実に大切にされること、これが神さまの願いです。その神さまの願いが、イエス・キリストを通して実現されている場、それが神の国であるのだと受け止めることができます。イエスさまは様々なたとえ話を通して、多面的に、この「神の国の秘密(奥義)」を私たちに解き明かしてくださっているのです。
イエスさまが生きておられた当時、イエスさまが語るたとえ話を理解することができた人は必ずしも多くはなかったかもしれません。しかし、イエスさまは弟子たちに対しては、このようにおっしゃいました。《しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。/はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである》(16、17節)。
あなたがたの心の目は確かに神の国を見、あなたがたの心の耳は確かにその言葉を聞いている。そうイエスさまは弟子たちを励ましてくださっています。なぜなら、イエスさまご自身がここにおられるからです。たとえ話を通して、そして何よりイエスさまご自身を通して、神の国はこの地に到来しようとしています。
「種を蒔く人」のたとえ
《だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい》とイエスさまは続けておっしゃって、「種を蒔く人」のたとえの説明をしてくださっています。イエスさまご自身の解説によりますと、このたとえ話において、蒔かれた種は「神の言葉(神の国の言葉)」を表しています。蒔かれた場所が表しているのは、「私たちの心」です。
《だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。/だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。…》(18、19節)。
このたとえ話では、道端に落ちた種はすぐに鳥に食べられてしまいます。「道端」とは、神さまの言葉が蒔かれても、それを受けとめない私たちの心の在りようを示しています。道端に落ちた種がすぐに鳥に食べられてしまうように、私たちの心が御言葉を拒否したままでいるので、外から悪い存在が来て、簡単に奪い取られてしまうというのですね。
次に、石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根がないために枯れてしまいます。「石だらけの所」もやはり、私たちの心の在りようを示しています。石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根を張ることができず、枯れてしまいます。それと同様に、私たちも神さまの言葉を喜んで受け入れたとしても、その言葉が心の中に根付いていないなら、困難が起こったときにその言葉を見失ってしまう、ということが語られています。
茨の間に落ちた種は、芽を出して成長はしますが、茨に妨げられ実を結ぶことができません。茨の中に落ちた種は芽を出し成長はしますが、茨にさえぎられて、身を結ぶまでには至らない。それと同様に、御言葉を受け入れても、私たちの心が思い煩いや誘惑に覆いふさがれているとしたら、その御言葉は実を結ぶに至らないとイエスさまはお語りになります。
最後に、「良い土地」に落ちた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍にもなります。《良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである》(23節)。
最後の良い土地もやはり、私たちの心の在りようを表しているわけですが、それは、《御言葉を聞いて悟る》心であるとイエスさまはお語りになっています。私たちの心が御言葉を聞いて悟るのならば、百倍、六十倍、三十倍もの実を結ぶのだ、と。「実を結ぶ」というのは、神さまの言葉が実際に私たちの行動として、生き方として、現実に実を結んでゆくことを意味しています。
良い土地 ~御言葉を「聞いて行おうとする」心
豊かに実を結ばせる「良い土地」とは、どのような私たちの心の在りようを指し示しているのでしょうか。神さまの言葉を受け入れ、それを根付かせ、実を結ばせる心とは、どのようなものなのでしょうか。
様々な解釈ができるかと思いますが、本日は、この良い土地を、御言葉を「聞いて行おうとする」心と受け止めてみたいと思います。神の国の言葉を「聞く」だけにとどめておくのではなく、それらを実際に「実行しようとする」心の在りようです。
先ほど、「一人ひとりが、かけがえのない存在として重んじられ、大切にされること」が神さまの願いであると述べました。これが神さまの願いであるのだとすると、それを聞くだけではなく、実行することが大切です。神さまが私たちをかけがえのない存在として重んじ、大切にしてくださっているように、私たちも互いを重んじ、大切にしあってゆくこと。この姿勢を私たちの日々の心の在りようの基本(=土壌)とすることができたとき、神の国の言葉はこの世界に現実に、豊かに実を結んでゆくことでしょう。
イエスさまは私たちに新しい掟を与えてくださいました。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》(ヨハネによる福音書13章34節)。
「家と土台」のたとえ
「聞いて行う」ことの大切さについて、イエスさまは「家と土台」のたとえでも伝えてくださっています。《そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。/わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった》(マタイによる福音書7章24‐27節)。
イエスさまはここで、ご自分の教えを「聞いて行う」人のことを、固い岩の上に家を建てた人にたとえておられます。たとえ川があふれ風が吹いても、その家は倒れることはない。確固とした土台があるからです。対して、イエスさまの言葉を聞くだけで行わない人は、砂の上に家を建てた人に似ている。雨が降り川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かると、ひどい倒れ方をしてしまう、とイエスさまはお語りになります。確固とした土台がなかったからです。
御言葉を「聞いて行おうとする」心を土壌とするということは、生きることの土台を得ることでもあります。「聞く」だけでなかなか実行することができないのが私たちの率直な姿でありますが、少しずつでも、御言葉を「聞いて行ってゆく」ことができますよう、その姿勢を私たちの日々の生活の土台に据えることができますよう願うものです。
またそしてその土台は、自身を支えるものとなるのみならず、周囲の人々を支えるものともなってゆくでしょう。神の国の言葉を聞いて行うことによって形づくられるその土台は、安息を必要としている人の支えとなり、また、助けや支援を必要としている人の支えとなってゆくことでしょう。
どうぞ私たちが御言葉を聞いて行ってゆくことができますように、神さまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にしあってゆくことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。