今週の礼拝メッセージ

2022918日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編1197380節、マルコによる福音書123544節、ガラテヤの信徒への手紙1110

キリストの福音

 

 

大型台風の接近、パキスタンでの洪水被害

 

三連休の2日目ではありますが、現在、大型の台風14号が九州地方南部に接近しています。気象庁は「前例のない暴風・豪雨の可能性」「最大級の警戒が必要」と発表、土砂災害や河川の増水などへの厳重な警戒を呼びかけています。東北地方は20日(火)に暴風と豪雨となる可能性があります。私たちもハザードマップや避難場所、備蓄品の確認しておきたいと思います。どうぞ一人ひとりの生命と安全が守られますよう、被害が最小限に食い止められますよう、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。皆さんもくれぐれも安全にお気を付けください。

 

国内では現在台風による被害が懸念されますが、国外でも様々な自然災害生じています。パキスタンでは2か月以上にわたる大雨によって洪水が発生し、国土の3分の1が浸水するという甚大なる被害が生じています。ニュースを見て、皆さんも心を痛めていらっしゃることと思います。いま困難の中にいる方々の命と安全が守られますよう、国際社会から必要な支援がなされますよう祈ります。

パキスタン政府は、この度の洪水被害は気候変動が原因であるとしています。私たち人間の活動――特に先進国による経済活動――を要因とする気候変動が甚大なる自然災害を引き起こしている現実が、この度改めて浮き彫りになっています。

それは私たちが住む日本においても、同様です。毎年この時期に発生する大型台風も海水温度の上昇が関係していることが指摘されています。

 

私たち人間の経済活動によって、地球全体が悲鳴を上げている現状があります。私たちにいまできることは何か、いま何をすべきか。私自身、いったい自分に何ができているのかとの忸怩たる思いがありますが、私たちがなすべきことをご一緒に神さまに祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

キリストの福音

 

本日の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙1110節には、何度も「福音」という言葉が使われています。福音とは、「良い知らせ」という意味の言葉です。イエス・キリストがもたらしてくださった良い知らせについて語る書が、新約聖書です。

福音は原語のギリシア語ではエウアンゲリオンと言います。ここから転じてエヴァンゲリオンという言葉ができました。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のタイトルともなっていますね。

 

新約聖書が語る福音の特質の一つ、それは、イエス・キリストによって告げ知らされた福音であることです。福音が「キリストの福音」であることが重要なのですね。

二つ目の特質は、その福音が、神さまの愛と恵みを現すものであることです。福音とは、言い換えますと、イエス・キリストによって現わされた神さまの大いなる愛と恵みを指すものだと受け止めることができるでしょう。

そしてもう一つの特質は、それが無条件であることです。キリストの福音は無条件に、無償で与えられるもの。私たちはキリストの福音をただ受け止めればよい。そこには何の資格も、実績も、必要はありません。

 

 

 

四つの福音書

 

「福音」と聞いたとき、多くの方が真っ先に思い浮かべるのは福音書でありましょう。ご存じのように、新約聖書には四つの福音書が収められています。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つです。日本語では福音書と訳されていますが、原語のギリシア語では福音も福音書も同じ語、エウアンゲリオンです。イエス・キリストによって、イエス・キリストにおいて告げ知らされた福音(エウアンゲリオン)について書き記した書が、福音書であるのです。

 

では具体的に、何が福音(良い知らせ)なのでしょうか。イエス・キリストが「十字架‐復活‐昇天‐再臨」の出来事によって、私たちのために救いを成し遂げて下さったというのが四福音書の理解です。神の子イエス・キリストの十字架‐復活‐昇天‐再臨の出来事の内に、福音がある。言いかえますと、そこに、神さまの大いなる愛と恵みが現わされている。福音書はそのように受け止めています。

 

この理解は、伝統的なキリスト教における福音理解の礎となってきたものです。それと共に、近現代以降は、福音に関する新しい理解も生じてきています。それは、一人の人間として生きたナザレのイエスの生(言葉と振る舞い)の内に、福音があるとする理解です。そこにも、神さまの大いなる愛と恵みが現わされている。この新しい理解も、現在は多くの人々にとって大切な福音理解となっています。

 

 

 

福音の理解の相違

 

このように、福音の理解には相違があり、多様性があります。イエス・キリストの福音は一つですが、それをどう表現するか、あるいはどこに強調点を置くかは、時代によって、また教派によって、個々人によって違いがあるのです。

 

それはそもそも、四福音書において、そうでした。先ほど、イエス・キリストの十字架‐復活‐昇天‐再臨の出来事の内に福音がある、というのが四福音書の理解であると述べました。四福音書を一つにまとめて見ればそうであると同時に、個々の福音書で見てみると、そこには相違(固有性)が存在しています。十字架‐復活‐昇天‐再臨の出来事のどこに特に「良き知らせ」を見出すかは、福音書によって異なっているのです。

マタイにはマタイ固有の、マタイによるエウアンゲリオンがあり、マルコにはマルコ固有の、マルコによるエウアンゲリオンがあり、ルカにはルカのエウアンゲリオンがあり、ヨハネにはヨハネのエウアンゲリオンがあります。

そのように違いがありつつ、同じ一つの福音を指し示している。それが、四つの福音書であると私は受け止めています。詳しいことは、また改めてお話しできればと思います。

 

 

 

《ほかの福音》!? 

 

 改めて、本日の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙1110節を見てみたいと思います。本日の聖書箇所を読むと、著者であるパウロは、福音の理解を巡って、一部の人々と対立関係にあったことが分かります。

 

 67節《キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。/ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです》。

 

《ほかの福音》6節)という言葉が出てきました。ガラテヤの教会の一部の信徒たちが《ほかの福音》に乗り換えようとしている、とパウロは嘆いています。と言っても、もう一つ別の福音があるわけではない。ある人々がガラテヤの教会の人々を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのだとパウロは語ります。

 

先ほど、新約聖書が語る福音は、キリストの福音であることが重要なこと、そして神さまの大いなる愛と恵みを現すものであることを述べました。パウロと敵対していた人々も、おそらくこの福音理解は共有していたと考えられます。

では、何が異なっていたのでしょうか。それは、福音が無条件であることについての理解です。両者の間では、この点についての理解が異なっていたと考えられます。

パウロは、福音は無条件にもたらされるものと信じていました。そこには何の資格も、実績も、必要はありません。対して、一部の人々は、そこに、或る条件を付していました。その条件とは、「律法を守る」という条件です。

 

律法とは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記されている神の掟のことを言います。パウロと論争していた人々は新しい福音理解を共有していた一方で、伝統的な価値観も重んじていました。伝統的な信仰理解に基づいて、律法の実行は必須の事柄として受け止めていたのです。その福音理解とは、いわば、条件付きの福音理解であったと言えます。

パウロにとって、この違いは見過すことのできない、極めて重大な違いとして認識されていました。福音に条件を課してしまうことは、福音の内実を骨抜きにしてしまうことであり、別のものに変質させてしまうことだと受け止めていたからです。

 

 

 

割礼の問題

 

特に当時問題として浮上していたのは、割礼の問題でした。割礼とは、男児が誕生して8日目に包皮の一部を切り取る儀礼のことを指します。ユダヤ教において割礼は古来より神とイスラエルの民との契約の「しるし」とみなされ(創世記17914節)、最も大切な神の掟の一つとして大切に受け継がれてきたものでした。

 

しかしパウロは、イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無はもはや問題ではないという新しい考え方を打ち出しました。パウロ自身はユダヤ教徒の家庭に生まれ育ったので割礼は受けていましたが、当時の教会の中には割礼の習慣がないユダヤ人以外のメンバー(異邦人キリスト者たち)もいました。その人々はもはや新たに割礼を受ける必要はないとパウロは確信していました。福音はイエス・キリストを通して、無条件に、無償で与えられるものだと信じていたからです。

 

一方、教会の一員になるにあたって、割礼は必須の条件であると考える人々もいました。本日の聖書箇所でパウロが批判している人々です。パウロは呪いの言葉さえ口にしながら、論敵たちを厳しく批判しています89節)

パウロがそこまで厳しく非難したのは、その教えが、イエス・キリストの救いの業――特に十字架の出来事をなかったことにすることにつながるものと受け止めていたからです。割礼をはじめとする律法の実行が条件とされるのであれば、キリストの死が無意味になってしまう221節)。キリストの福音の内実が骨抜きにされてしまう。そう考えたからこそパウロは、厳しい言葉をもって論敵たちを批判したのでありましょう。

 

 

 

パウロの厳しさ ~「生まれ出ようとするものを守ろうとする」厳しさ

 

 パウロと対立していた人々は、新しい価値観や信仰理解を受け入れつつ、それまでのユダヤ教の伝統的な価値観や信仰理解も重んじる姿勢を持っていた人々でした。新しいキリスト教の価値観と、それまでの伝統的なユダヤ教の価値観の、間を取ろうとする立場。いわば、中道派・穏健派の立場に身を置く人々であったと言えるでしょう。当時の人々からすると、むしろパウロの方が極端であり、急進的であるように思えたかもしれません。パウロは新しい信仰理解の方に「かたより過ぎ」だと思えたかもしれません。

 

けれども、そのように「かたよっていた」からこそ、新しい信仰理解の方へ完全に重心を移したからこそ、キリスト教という新しい宗教が生まれ出ることができたのだと言えます。伝統的な価値観と新しい価値観との間で何とかバランスを取ろうとしていれば、原始キリスト教会はユダヤ教の一分派の位置にとどまって終わっていたかもしれません。パウロをはじめとする先人たちの決然とした姿勢――それまでの伝統的な信仰理解とはっきりと決別する姿勢があったからこそ、キリスト教はユダヤ教という母体の中からはっきりと生まれ出ることができたのであり、今日までその固有性(かけがえのなさ)を保ち続けることができたのです。何かが新しく誕生するためには、それまでの在り方と一度決別することが求められる瞬間があります。パウロたちが生きていた時代は、まさにその「時」であったのでありましょう。パウロの厳しさとは、「生まれ出ようとするものを守ろうとする」厳しさであったのだと私は受け止めています。

 

 

 

キリストの福音は、すべての人に

 

パウロをはじめとする先人の働きを最大限の敬意と感謝をもって受け止めると共に、いまを生きる私たちはさらに新しい視点・価値観を育んでゆく必要があるでしょう。それは、「互いの違いを受け止め合う」視点です。

 

メッセージの前半で、福音の理解には相違があり、多様性があることを述べました。福音は一つですが、どこに強調点を置くかで違いが生じます。あるいは、福音をどのような言葉で表現するかでも違いが生じるでしょう。私たちはもはや、自分(たち)の信仰だけが唯一、絶対的に「正しい」とみなす段階からは脱して、前へ進んでゆく必要があります。

 

私たちにはそれぞれ、違いがあります。福音理解にも相違があります。と同時に、私たちはキリストにおいて一つに結ばれています。同じ一つの福音を喜びとし、希望としています。その「違いがありつつ、一つ」である在り方をこれから私たちは学び、私たちの間に少しずつ実現してゆくことが求められています。

 

かつてパウロが「異端」のレッテルを貼った人々も、同じキリストを信じる同志であったことに変わりはありません。またそして、神から愛されている存在であったことに変わりはありません。私たちはそのことを改めて思い起こす必要があります。自分とは信仰が異なる相手も、考えが異なる相手も、神さまの目から見ると価高く、尊厳ある存在であるのだ、と。

 

 

キリストの福音は、すべての人に、無条件に与えられています。神さまの愛と恵みは私たち一人ひとりに、無償で注がれています。神さまの目から見て、私たち一人ひとりが価高く、貴い存在である(イザヤ書434節)こと。神さまは私たちそれぞれを、かけがえのない存在として、あるがままに愛してくださっていること。このキリストの福音(良い知らせ)に共に立ち帰り、その喜びの中で、また新たな一歩を踏み出してゆきたいと願います。