今週の礼拝メッセージ

2024218日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記1737節、ヘブライ人への手紙41216節、マタイによる福音書4111

荒れ野の誘惑

 

 

受難節

 

214日の水曜日より、教会の暦で受難節に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。受難節はイースター前日の330日(土)まで続きます。本日は受難節第1主日礼拝をおささげしています。

 

受難節は「四旬節」とも呼ばれます。四旬節は「40日の期間」を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。

40」は、聖書において度々出て来る数字です。旧約聖書(ヘブライ語聖書)には、モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後、40年間荒れ野の旅を続けたことが記されています。また、本日の聖書箇所である「荒れ野の誘惑」の場面(マタイによる福音書4111節)ではイエス・キリストが40日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けられたことが記されていました。

礼拝が始まる際、講壇の前に並べている7本のロウソクの内、1本のロウソクの火を消したことにお気づきになった方もいらっしゃると思います。受難節の礼拝では伝統的に、ロウソクの火を毎週一本ずつ消してゆくことがなされることがあります。

 

ロウソクの明かりが消えることによって生じる暗さは、イエス・キリストが十字架への道行きにおいて経験された暗闇を指し示しています。受難節のこの時、イエスさまのお苦しみを心に留めつつ、また、暗闇の向こうから差し込むイースターの光を希望としつつ、ご一緒に歩んでゆきたいと思います。

 

 

 

研究発表①『キリスト教と悪魔祓い』

 

 先週の212日(月)、大森めぐみ教会を会場として、日本神学研究センター主催の研究会が開催されました。私も主題をめぐる発表を担当しました。今回の主題は「悪とキリスト教」。悪という、私たちにとって難しくも切実なる主題について、共に学び、意見を交わし合う時間を持ちました。

 

 主題をめぐる研究発表は、私を含めて3名が担当しました。一人目の発表者である静岡英和学院大学の佐々木謙一先生は『キリスト教と悪魔祓い』についてお話しをしてくださいました。佐々木先生はキリスト教における悪魔祓いについても専門的に研究をなさっている方で、悪魔に関わる事象を考察研究した博士論文も書いておられます。

 

悪魔祓いと言うと、映画の『エクソシスト』を思い起こす方も多いかもしれません。本日の聖書箇所にも悪魔が登場していますね。カトリック教会においては、悪魔祓いは正式な教義の中に位置づけられています。ただし、悪魔祓いを行うことができるのは専門的な教育を受けた聖職者のみに限られており、さらにそれを実際に行うには司教の許可を得る必要があります。悪魔祓いは、たとえば現代においてもイタリアなどでは盛んですが、佐々木先生の調査によると日本のカトリック教会においてはこれまで悪魔祓いが行われた事例はないようです。また、日本のプロテスタント教会でも、ごく少数の教会を除いては行われていないそうです(私も牧師になってから、悪魔祓いを行ったことも、立ち会ったこともありません)。一部の教派において、独自の仕方で悪魔祓いが行われているとのことです(『悪霊追い出し』と呼ばれるそうです)。

 

キリスト教の悪魔祓いにおいて重要なことは、追い出す側(聖職者)はもちろん、それを受ける側もキリスト教徒であること、イエス・キリストへの信仰を持っている点です。イエス・キリストへの信仰に基づいて儀式が行われること、イエス・キリストの名によって行われることが重要であるのですね。《キリスト教の悪魔祓いは信仰が中心となり、信仰があってこそ成り立つものである》(ご講演のレジュメより)という佐々木先生の言葉が印象に残りました。玄関にご講演のレジュメを置いていますので、どうぞご覧ください。

 

 

 

研究発表②『カルヴァンにおける悪の問題――悪とキリスト教の考察の一視点』

 

 続いて、日本神学研究センターの会長であり大森めぐみ教会牧師の関川泰寛先生が、『カルヴァンにおける悪の問題――悪とキリスト教の考察の一視点』と題して、発表をしてくださいました。カルヴァン15091564年)は、マルティン・ルターと共に、代表的な宗教改革者の一人です。カルヴァンの活動も当初はローマ・カトリック教会の悪の問題と向かい合い、それを改革刷新しようとすることから始まりましたが、次第に、同じ共同体内(自身が関係するスイスのジュネーブ教会)に生じた悪の問題にも向かい合うようになったことをお話しくださいました。カルヴァンは「身内の悪」を問題にし、それと対峙したというのです。いまの時代に悪の問題と向かい合う上で大切なことは、カルヴァンが行ったように《最も身近な共同体における悪の問題と取り組み、自身が属する共同体内の悪と戦う》(ご講演のレジュメより)ことではないか、とお話しくださいました。

 

また、カルヴァンにとっての悪とは、《形而上学的な思索の対象ではなくて、改革運動の中で、すなわち神の言による改革と刷新を実行する中ではじめて見えてくる現実なのである》(レジュメより)との言葉も印象的でした。関川先生がお話しくださったことは、いずれも、悪の問題を受け止める上で非常に大切な視点であると感じました。ご講演のレジュメを玄関においていますので、どうぞご覧ください。

 

 

 

研究発表③『存在を「ない」ことにする力にいかに抗うか ~悪とキリスト教』

 

 3人目の登壇者として、私が発表を担当しました。タイトルは『存在を「ない」ことにする力にいかに抗うか ~悪とキリスト教』としました。「悪とキリスト教」という主題を受けて、この2か月ほど、私も悪の問題について改めて考えました。悪について多様な定義が可能ですが、この度の発題では「存在を『ない』ことにする力」を悪の力の一形態として定義しました。言い換えますと、「存在を非存在へと引き込もうとする『虚無的な力』としての悪」です。

 

 悪の問題を考える上で、思い起こさざるを得ないのは、いま世界の各地で起っている戦争・紛争でした。ロシアとウクライナの戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争。人々の生命と尊厳を奪い、傷つける戦争こそ、人間の悪のなせる業だと受け止めざるを得ません。ウクライナでの戦争、ガザ地区での戦争が一刻も早く停戦へと至りますよう、イスラエル軍がパレスチナの人々に行っている虐殺を中止するよう、強く求めます。

発題では、イスラエルの一部の指導者たちの根底に、「パレスチナ人ははじめから存在しない」との考えがあることを指摘し、その異なる他者の存在そのものを「ない」ことにしようとする悪しき力(破壊的な悪)は、かつてナチス・ドイツにも見られたことをお話ししました(ナチス・ドイツ:『ユダヤ人ははじめから存在しない』)。詳細は、同じく玄関に置いているレジュメをご覧いただければと思います。

 

 

 

荒れ野の誘惑

 

 悪の問題は、私たちにとって難しくも、切実な問題です。皆さんも日々の生活の中で、時に、悪の力を感じることがあるのではないでしょうか。私たちに働きかけ、私たちの生を脅かす悪の力を感じる瞬間があることと思います。この度の発題において私は悪を「虚無的な力」とも形容しましたが、それは力を持たないことを意味するのではありません。むしろ、虚無的でありつつ、私たちに強い影響を及ぼし得るものが、悪の力です。

 

 本日の聖書箇所でも、イエス・キリストを誘惑する者として、悪魔が登場します。荒れ野での40日間の断食を終え、疲労と空腹の極みにあったイエスさまに対して、悪魔は三つの提案をしました。一つ目は、「神の子なら、石をパンに変えてみたらどうか」との提案です(マタイによる福音書43節)。二つ目の提案は「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみせたらどうか」6節)。三つ目の提案は、「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄とを与えよう」9節)。これらの言葉は、提案というかたちをとっていますが、誘惑でした。悪魔は、悪しき方向へとイエスさまを引き寄せ、その虚無的な力の中へ陥れようとしているのです。しかし、イエスさまはこれらの誘惑をすべて、聖書の言葉をもってはっきりと斥けられました。《『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある4節)――。

 

悪魔の存在については、どこかファンタジーのように感じられる方もいらっしゃるかもしれません。悪の原理が「人格化した」存在が、悪魔です(悪魔研究の第一人者JB・ラッセルの説明。佐々木謙一先生のレジュメより)。本日の聖書箇所の悪魔のように、人格化した悪の力については非現実的に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、しかし、悪の力というものが現実に働いていることは、それぞれに経験的に感じておられることと思います。私たちもまた、日々の生活の中で、悪しき力による誘惑を受けています。

 

悪魔の第一の誘惑と第二の誘惑には共通している点があります。それは、石をパンに変える、神殿の屋根から飛び降りても天使が支えるなどの、「奇跡的な出来事」に価値を置いている点です。これらの奇跡を見せつければ、人々は否応もなくあなたに従うだろう。神の子なら、奇跡をどんどんと見せつけてゆけばよい、と悪魔はイエスさまを誘惑したのです。信者が増え、自分を熱烈に支持してくれる人たちが増えることは、一見、良いことのようにも思えます。しかし、イエスさまはその悪魔の誘惑を斥けられました。

 

なぜ悪魔はこのようなことを提案したのでしょうか。その悪魔の隠された意図は、最後の第三の誘惑において明らかにされます。「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄を与えよう」。悪魔は神の子キリストを誘惑し、自分の支配下に置くことを企んでいたのですね。悪魔のこの本来の意図は、イエスさまが神の言葉をもって対決したことによって明らかにされることとなりました。イエスさまはおっしゃいました、《退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある10節)。サタンはイエスさまのもとから離れ去りました。代わりに天使たちが来て、イエスさまに仕えました。

 

 

 

悪魔の言葉の根っこにある「自分の利益のみを第一とする」姿勢

 

 本日の荒れ野の誘惑の場面では、イエス・キリストと悪魔との間で、異なる価値観がぶつかりあっています。悪魔の言葉の根っこにあるもの、それは、「自分の利益のみを第一とする」姿勢と言えるのではないでしょうか。すべては自分のため、自分が利益を得るため。そのためには、大勢の人を服従させ、大勢の人を自身の支配下に置いて利用することが必要。そしてそのために、神の子による「奇跡」をぜひ利用したいと悪魔は考えていたのです。決して相手のことを思っての言葉ではないのですね。

表向きは「神のため」「隣人のため」と言いながら、実際は「自分の利益のため」にのみ言葉を発し行動しているのだとしたら、私たちは悪魔の術中にはまってしまっていることになります。悪魔の誘惑は、私たちの内に、外に、身近なところにあることを思わされます。

 

悪魔の誘惑の本質は、自分の利益のためにあらゆるものを利用し尽くそうとする、この徹底した自己中心性にあると言えるかもしれません。自分の利益のために、他者をまるで「道具」のように利用しようとする。人間性を喪失した、このような自己中心的な価値判断が根っこにある限り、自分の損得のために他者を犠牲にすることも容易になされてしまうことでしょう。自分の利益のために他者を犠牲にするその時、私たちは神ではなく、悪魔に仕えていることになるかもしれません。

 

 

 

イエス・キリストの言葉の根本にある「神の国とその正義を第一とする」姿勢

 

悪魔の言葉の根っこにある「自分の利益のみを第一とする」姿勢。対して、イエスのさまの言葉の根本にあるのは、「神の国とその正義を第一とする」633節)姿勢です。自分の利益のみを求めるのではなく、神の目に大切な一人ひとりが尊ばれるあり方を求めてゆくこと。そのためには、自身の執着からいったん離れ、まず神の言葉に聴こうとする姿勢が重要となります。

 

私は、このイエスさまの姿勢に、神さまの目から見た「個人の尊厳」を大切にする姿勢を見出します。私たち一人ひとりには、神さまからの個人の尊厳が与えられている。神の目から見て、私たち一人ひとりが、かけがえのない=替わりがきかない存在である。イエスさまはこの認識を根本に据えていらっしゃったのだと受け止めています。

 

この個人の尊厳を重んじることに必然的に伴うのが、他者の自由と主体性を尊重する姿勢です。「奇跡的な出来事」によって、圧倒的な権威によって、有無を言わさず服従させるのではなく、相手の自由と主体性を尊重することが姿勢です。イエスさまにとって、奇跡的な出来事は必ずしも不可欠のものではなく、むしろ、いま苦しんでいる人に寄り添い、共に生きようとすることが大切なのだと考えていらっしゃったのではないでしょうか。

 

荒れ野での悪魔との対決によって、イエスさまはご自分が大切にしてゆきたいことを、改めて確認することができたのかもしれません。荒れ野での誘惑の後、イエスさまはガリラヤにて公の活動を始められることとなります(41217節)

 

 

本日は、悪の問題について改めてご一緒に考えました。また、荒れ野で悪魔の誘惑をはっきりと斥けられたイエスさまのお姿に学びました。受難節のこの時、イエスさまのお姿に学びつつ、神の国とその正義を第一とする在り方を祈り求めてゆきたいと思います。