今週の礼拝メッセージ
2026年7月5日 花巻教会 主日礼拝説教
「愛の実践を伴う信仰」
創立記念礼拝
本日は花巻教会の創立を記念して礼拝をおささげしています。花巻教会が設立されたのは1908年7月21日です。今年で創立118年になります。内丸教会で開かれたバプテスト東北部会において、正式に伝道所として認められました。
いま当教会の創立は1908年7月21日と申しましたが、その前身となった花巻浸礼教会が創立されたのは1880年です。トーマス・ポート宣教師と有志の方々によって設立されたこの教会は、5年間の活動の後、1885年に解散。盛岡浸礼教会(現在の内丸教会)に合流することとなりました。
教会が解散となったその後も、花巻での集会は定期的に続けられ、1904年に、現在の花巻教会の母体となる第一回目の集会が開かれました。出席者は4名だけの小さな集会であったとのことです。以降、この集会は場所をいくつか変えながらも、継続して開かれるようになり、教会を生み出してゆくこととなります。そしてその後、冒頭で述べましたように、1908年7月21日に、花巻教会は正式に伝道所となりました。
これまでの教会の歩みが、神さまと多くの方々によって支えられましたことを感謝するとともに、これからの歩みのために、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。この花巻の地にあって、神さまと隣人に仕えるための働きをご一緒に祈り求めてゆきたいと願います。
愛の実践を伴う信仰
本日は説教のタイトルを「愛の実践を伴う信仰」としています。この言葉は、先ほどお読みしたガラテヤの信徒への手紙5章2-11節の中に記されているものです。《キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です》(6節)。「愛を通して働く信仰」とも訳すことができる言葉です。聖書協会共同訳(2018年)は《愛によって働く信仰こそが大事です》と訳しています。手紙の著者パウロは、信仰は愛に基づいていることが重要であることを語っています。
パウロは良く知られた「愛の賛歌」(コリントの信徒への手紙一13章)ではこのようにも述べています。《たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。/たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。…》(同1、2節)。
たとえ人知を超えた言葉を語る能力をもっていようとも、完全な信仰を持っていても、そこに愛がなければ、無に等しい。私たちの言葉、私たちの行動の根本に愛があることこそが大切なのであり、その愛がなければ、私たちの言葉も行動もすべて虚しいものだとパウロは語ります。
聖書が語る愛
改めて、聖書が語る愛はどのようなものでしょうか。聖書における愛は、原文のギリシア語ではアガペーと言います(動詞形だとアガパオーです)。
このアガペーという言葉にはもちろん「好き」「大好き」という感情も含まれていますが、それだけを表す言葉ではありません。たとえば、聖書におけるアガペーは、好きではない相手に対しても使うことができる言葉です。感情的には嫌い・苦手な相手であっても、その相手を、「愛する」ことがアガペーにおいては可能なのですね。なぜなら、聖書の「愛する(アガパオー)」という言葉には、相手を「大切にする」「尊重する」意味が含まれているからです。
キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、愛という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳したそうです。とても素晴らしい訳ですね。愛するとは、言い換えると、大切にすること。「好き」という感情だけではなく、相手を大切にする具体的な行動を表しているのが、聖書における愛です。
私なりに表現すると、アガペーなる愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。このアガペーなる愛は、相手の存在を重んじ、大切にするように働くものです。
割礼の有無ではなく、愛の有無が重要
ガラテヤの信徒への手紙5章6節に戻ります。《キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です》。
《割礼の有無》という言葉がありました。割礼とは、男児が誕生した8日目に包皮の一部の切り取る儀礼のことを言います。この外科的手術は宗教的な意味を併せ持つもので、神とイスラエルの民との契約の「しるし」であるとみなされました(創世記17章9-14節)。ユダヤ教徒の方々はこの儀礼をいまも大切に継承し続けています。
パウロが生きていた時代も、やはり割礼はユダヤ人共同体において重要な儀式であるとされていました。そのような中にあって、パウロは、キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無はもはや問題ではないという新しい考え方を打ち出しました。
パウロ自身はユダヤ教徒の家庭に生まれ育ったので、割礼を受けていました。一方、パウロたちの教会には、もともと割礼の習慣がないユダヤ人以外のメンバー(異邦人キリスト者たち)もいました。教会のメンバーになるに際して、その人々はもはや新たに割礼を受ける必要はないというのがパウロの考えでした。対して、教会のメンバーであるためには、やはり古来より受け継いできた割礼の儀礼が必要であると考える人もいました。割礼の有無に対する意見の相違によって、教会の内部に分断が生じていたことが伺われます。
イエス・キリストへの信仰において、割礼の有無は問題ではない。では、何が重要であるのか。それは、愛の有無であるとパウロは語ります。愛に基づいている信仰であることが何より重要なのだ、というのがパウロの考えでした。
神の愛
聖書が語る愛について、もう一つ、お話ししたいことがあります。それは、聖書における愛(アガペー)とは、第一に、「神の愛」を意味するということです。愛は、神さまから生じているものだと聖書は受け止めているのですね。愛は神さまから生じ、私たち一人ひとりに分け与えられているものです。
愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」だと述べました。この表現を踏まえますと、他ならぬ神さまが、私たち一人ひとりの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっている、聖書はその神さまの愛を伝える書です。
かけがえがないとは、替わりがいないということ。私たちは一人ひとり、神さまから見て、かけがえがない、替わりがきかない存在であり、だからこそ、大切であるのです。
新約聖書のヨハネによる福音書には《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(3章16節)という言葉があります。神さまは私たちを愛するゆえ、極みまで重んじてくださるゆえ、独り子なるイエス・キリストをお与えになりました。またそしてイエス・キリストご自身も、私たち一人ひとりを極みまで愛するゆえ、十字架の上でその命をもささげてくださいました。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(同15章13節)。
聖書はこの神の愛を私たちに伝えてくれています。イエス・キリストへの信仰において、この愛に心を向けることが重要であることをご一緒に心に留めたいと思います。
たとえ感情的には好きになれない人であっても、その人も神さまの目から見ると大切な一人、かけがえのない一人です。イエスさまが私たちを大切にしてくださったように、私たちも互いを大切にするようにと招かれています。《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》(同13章34節)。
「互いを軽んじる」ことの連鎖を断ち切って
互いを大切にすることは、必ずしも誰とでも仲良くすることを意味するものではないでしょう。重要なのは、目の前にいる人が誰であっても(たとえ個人的には苦手な人だったり、好きになれない人であったとしても)、その人格を尊重しようとする心であり、その姿勢です。少なくとも、自分から相手のことを軽んじるようなことはしない。意地悪をしたり、相手を意図的に傷つけるような行為はしない。そう心に決めている姿勢が重要であるのだと思います。そしてその決意と姿勢が、相手の存在を実際に「重んじる」ことへつながってゆくのではないでしょうか。
愛が相手を「重んじる」ことであるのだとすれば、その反対は相手を「軽んじる」ことでありましょう。愛することと正反対の姿勢は、相手の存在を軽んじることであると言えます。いまの私たちの社会を見てみすと、自分の好き嫌いや主観的な感情によって他者を軽んじるという事態が多々生じてしまっています。私たち自身が日々の生活の中で他者から軽んじられることもあれば、他者を軽んじてしまうこともあるでしょう。「互いを軽んじる」ことの連鎖をいかに断ち切ってゆくことができるか。これは、いまを生きる私たちの喫緊の課題の一つです。
本日は創立記念礼拝をご一緒におささげしています。創立記念礼拝をささげる今朝、アガペーなる神さまの愛にご一緒に私たちの心を向けたいと思います。神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いということをいつも心に刻み、愛によって働く信仰を大切にしてゆくことができますように。そして、私たちが互いに愛し合うことを通して、この花巻の地における役割をこれからも果たしてゆくことができますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
日本キリスト教団
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