2019年7月7日「キリストは、あなたのために」
2019年7月7日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:使徒言行録8章26‐38節
「キリストは、あなたのために」
西日本豪雨から1年
昨日7月6日、西日本豪雨から1年を迎えました。仮設住宅にはいまも広島、岡山、愛媛の3県で約3900世帯が暮らしています。亡くなった方は275名、行方不明者8名。この1年で53名の方が災害関連死と認められたそうです。全半壊した住宅は1万8122棟(参照:朝日新聞、2019年7月6日)。
現在も復興に向けての作業が続けられています。いまも困難の中にいる方々、悲しみの中にいる方々を覚え、祈りを合わせてゆきたいと思います。
先週は九州の南部を中心に、大きな災害につながる恐れのある豪雨が発生しました。昨年の西日本豪雨を思い起こし、たくさんの方々が不安の中、過ごしたことでしょう。鹿児島県の鹿児島市等では避難指示も出されました。
今後、日本全国のどの地域でも、異常気象による災害が発生する恐れがあります。すでに皆さんそれぞれ確認しておられることと思いますが、常日頃からハザードマップを確認しておくことが重要ですね。自宅や近隣に危険につながる場所がないか――家の付近に大雨で土砂崩れする可能性のある場所はないか。河川が氾濫した場合、どれくらい浸水する可能性があるのか――等、あらかじめ確かめておくことが重要です。この花巻教会からは少し離れたところには北上川が流れています。ハザードマップによると、もしも北上川が氾濫した場合、その付近は最大5~10メートルの浸水の恐れ、この教会の付近でも最大50センチくらい浸水する可能性があるとのことです。
いま困難の中、不安の中にいる方々のために祈りを合わせると共に、私たち自身も改めて防災の意識を高めてゆきたいと思います。
「見失った羊」のたとえ
先ほどルカによる福音書15章1‐10節を読んでいただきました。その中で、「見失った羊」のたとえが記されていました。100匹の羊のうち、迷子になった1匹の羊を探しにいくという、よく知られたイエス・キリストのたとえ話の一つですね。
《そこで、イエスは次のたとえを話された。/「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。/そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、/家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。/言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」》(1-7節)。
99匹の羊を野原に残しておいて、見失った1匹を見つけ出すまで探し回るというこのたとえ話。このたとえ話で語られていることは、私たちの日常生活の感覚からすると、必ずしも当たり前のものではないかもしれません。迷子になった1匹のことは確かに気になるけれども、残された99匹の方を優先して考えるべきではないか、そのような意見もあることでしょう。有名なたとえ話ではあるけれど、読む人に戸惑いを与えるたとえ話でもあるかもしれません。
「多数の都合を重んじる」考え方
私たちが生きている社会は、「数」で物事が捉えられてしまうことが多いように思います。このたとえ話でも、99匹と1匹と言う風に、つい数で捉えてしまう。この数の論理で前提とされていることが多いのは、数が多い方が価値があるという考え方です。私たちは普段、この考え方の影響を受けています。私たち自身、気が付くとそのような考え方をしてしまっている時もあるでしょう。
しかし、この「多数の都合を重んじる」考え方は危うさも含んでいます。それは、多数の利益のためには、少数の利益が損なわれても仕方がない、と判断してしまう危うさです。このたとえ話でいうと、99匹のためには、1匹がいなくなったままでも仕方がないとみなしてしまうのです。
「生産性や効率を最優先する」考え方
また、このたとえ話にとまどいを覚えることの要因に、私たちが生きている社会が生産性や効率を優先してしまっている社会であるということがあるでしょう。いかに多くの人たちのために有用な働きができるか。いかに効率を上げ、利益を上げることができるか。私たちの社会では、そのことが第一とされていることが多いものです。
このたとえ話のように、99匹を残してたった1匹を捜しに行くという行動は、いまの社会の常識からすると非生産的であり、非効率であるように感じてしまいます。「生産性や効率を最優先する」考え方もまた、私たちの社会にすっかり浸透しています。
「多数の都合を重んじる」考え方、また「生産性や効率を最優先する」考え方――。これらの考え方は、生産活動に従事できない人々や、効率よく働くことができない人々を価値の劣る存在とみなす考え方につながってしまう危険性をもっています。事実、そのような考え方というのが、はっきりと文言化はされなくても、私たちの社会に傾向として存在しているのではないでしょうか。
本日のたとえ話は、そのような私たちに対する「問い」となっているものなのかもしれません。私たちが立ち止まって、自分自身の普段の物の考え方や判断基準を振り返ってみるための、大切な問いかけです。
視点の転換 ~ただ一人の大切さ
改めて、「「見失った羊」のたとえ話を見てみたいと思います。このイエス・キリストのたとえ話は、私たちの普段の物の見方を逆転させるものです。99人を優先するという視点から、ただ1人の存在に目を向けるという風に、私たちのまなざしを逆転させるのです。
《あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。/そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、/家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう》(4-6節)。
主イエスはこのたとえ話において、99人と1人とを数の論理で比較しておられるのではありません。そうではなく、主イエスがここで提示しておられるのは、「ただ一人の大切さ」です。神さまの目から見て、一人ひとりの存在がどれほどかけがえなく大切であるのか、ということです。
「かけがえがない」という言葉があります。「かけがえがない」ということは、言い換えれば、「替わりがいない」ということです。神さまの目から見て、あなたは、「替わりがきかない」存在である。これが、イエス・キリストのメッセージであると受け止めています。
替わりがきかないその一人が見つかるまで捜し回る、この羊飼いとは誰か。この羊飼いこそ、イエス・キリストその人である、と教会は受け止めてきました。
キリストは、あなたのために
もし一人の人が見失われてしまったとしたら。その見失われた人の替わりになる存在は、99人の中にはいません。千人、一万人、100万人、1億人いたとしても、その人の替わりになる人はいません。
迷い出た一人は、「大勢の中の一人」ではない。神の目に、「かけがえのない、一人」なのです。だからこそ、そのかけがえのない1人のために、羊飼いイエス・キリストは全力を尽くされます。私たちの目にどれだけ非生産的、非効率的に見えようとも――。
たとえ私たちの目からすると、自分が価値のない人間に思えても。神さまの目から見ると、違います。神さまの目から見ると、あなたという存在はかけがえなく、大切。イエス・キリストは、ただ一人のあなたのために、すべてをささげてくださった方です。
ヨハネによる福音書は次のイエス・キリストの言葉も記されています。《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。/わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(ヨハネによる福音書10章10-11節)。
花巻教会創立111年 ~「ただ一人の大切さ」を胸に
花巻教会は毎年7月の第一週を教会創立の記念日としています(1908年7月に創立)。今年、私たち花巻教会は創立111年を迎えました。これまでの歩みが神さまと多くの方々によって支えられてきましたことを感謝するとともに、教会のこれからの歩みのために、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。
本日は「見失った羊」のたとえを通して、「ただ一人の大切さ」を思い起こしました。神さまが私たち一人ひとりを「替わりがきかない」存在として見つめてくださっていることを共に思い起こしました。
どうぞこれからも、「ただ一人の大切さ」を胸に、ご一緒に歩んでゆきたいと願います。