2019年9月8日「主が受け入れてくださるから」

201998日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ローマの信徒への手紙1419

主が受け入れてくださるから

 

 

旧約聖書の食物規定

 

 旧約聖書には「食べてよいもの」と「食べてはならないもの」についての決まり(律法)が書かれています。いわゆる食物規定の掟です。食べてはならない動物の一つとしてよく知られているのはブタです。古代イスラエルではブタは食べてはいけない動物とされていました。ユダヤ教、イスラム教では現在もブタを食べることをしませんね。

 

 これらの決まりはもともとは、宗教的な儀式(祭儀)において「食べてよいもの」「食べてはならないもの」という意味を持つものでした。古代イスラエルでは祭儀において動物を屠り、その後それを食す習慣がありました。

 

 さて、ではブタを食べることを禁ずる決まりが書かれている箇所を読んでみましょう。旧約聖書のレビ記1178節)です。《いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。/これらの動物の肉を食べてはならない》。

「いのしし」と訳されている言葉は、「ブタ」と訳すこともできる言葉です。イノシシを家畜化したものがブタですので、どちらで受け止めることもできるでしょう。ちなみに今年の干支はイノシシでしたね。

 

 これらの個所には「汚れたもの」という言葉が出てきています。もちろん、豚やイノシシ自体が何か不潔で危険な生き物であるという意味ではありません。食べてもよい基準に当てはまらない動物が、ここでは「汚れている」と形容されているのです。反対に、食べてもよい基準に当てはまる動物は「清い」存在とされています。

 

 では、旧約聖書における「清い=食べてもよい」動物の基準とはどのようなものでしょうか。その基準とは、①ひづめが分かれている、②反すうをする、というものでした。この基準に当てはまる動物は「清い=食べてもよい」ものとされ、当てはまらない動物は「汚れている=食べてはならない」ものとされました。

 

 ここでちょっとクイズを出してみたいと思います。次の中で、旧約聖書において食べてもよいとされている動物はどれでしょうか? 「ウシ、タヌキ、ヒツジ、ラクダ」。正解の動物は2匹です。判断するポイントは、①ひづめが分かれており、②反すうをする動物であるかどうか、です。

 

 順に正解を確認してみましょう。まずウシ。ウシはひづめが分かれており、反すうをするので、「食べてよい」。正解の動物の一つは、ウシです。

 

 タヌキはどうでしょうか。タヌキはひづめが分かれておらず、反すうもしませんね。ですので、「食べてはいけない」ことになります。

 

 次に、ヒツジ。ヒツジはひづめが分かれており、反すうもします。よって、「食べてよい」。もう1匹の正解は、ヒツジでした。旧約聖書において犠牲のささげものとされる代表的な動物の一つがヒツジです。

 

 最後に、ラクダはどうでしょうか。ラクダは写真を見るとひづめは分かれているように見えます。反すうもします。ということは「食べてよい」ことになるのではないか、と思いますが、旧約聖書ではラクダは食べてはならないと記されています。《従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである(レビ記114節)。もしかしたら、当時はラクダのひづめは、ひづめではなく「指」とみなされていたのかもしれません。

 

 

 

野生の生き物たちを「保護する」という側面

 

 ちょっとしたクイズを出してみましたが、この①ひづめが分かれている、②反すうをするという不思議な基準は、当時、家畜化されていた動物の特徴に由来するものです。当時、家畜化されていた動物の共通項が、ひづめが分かれていて、反すうをする、というものであったのですね。旧約聖書においてはすでに家畜化されている動物以外の野生の動物は食べることが禁じられていることになります。これは、人間が境界線を超えて、野生の動物の世界を侵害することを「制限」する機能を果たしているという見方もあります(参照:S.E.バレンタイン『レビ記』)。これらの食物規定には、野山や海空に生息する野生の生き物たちを「保護する」という側面があったのではないか、と受け止めることもできます。

 

 食物規定をはじめとする旧約聖書の律法は、現代の私たちの視点からすると意味が分かりづらいものも多々ありますが、当時の社会においては大切な意味があったのだ、ということが分かります。旧約聖書においては、これらの律法を遵守することが神さまへの信仰であり、神さまの願いに適う道であると捉えられていました。

 

 また、旧約聖書の律法の中の「動物を人間の過剰な搾取から守る」という視点は、現代の私たちが改めて思い起こすべき視点であると思います。

 

 

 

受け止め方の変化 ~神がお造りになった命はすべて「清い」

 

 このように、旧約聖書においては「食べてよい」「食べてはならない」という決まりが定められていたわけですが、新約聖書になると、その受け止め方に変化が生じています。ある生き物は「清い=食べてよい」、ある生き物は「汚れている=食べてはならない」と区別するのではなく、神がお造りになった命はすべて「清い」という受け止め方に変化してゆくのです。

 

 その変化を象徴的に描いた場面が新約聖書の使徒言行録に記されていますので、ご一緒に見てみましょう。《翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。/彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、/天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。/その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。/そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。/しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」/すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」/こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた(使徒言行録10916節)

 

 弟子のペトロはある日、幻を見ます。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて下りてくる幻です。その中には《あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥》、すなわち律法で「食べてはならない」とされている「汚れた生き物」たちが入っていました。そのとき、不思議な声が聴こえます。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」。ペトロはこれまで自分は汚れた物は食べたことがないと拒みますが、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がまた聴こえます。

 

 この箇所からも、新約聖書において何か大きな意識の変化が生じていることが伺われます。それまでの律法の枠組みを超え出る、新しい世界観が生じ始めているのです。それは、イエス・キリストによって与えられた、新しい世界観でした。神の子イエス・キリストによって、あらゆる隔てが取り除かれた。もはや「清い」「清くない」の区別は取り除かれ、キリストを通してすべてのものが「清い」もの、神の目に「良い」ものとされた。《それ自体で汚れたものは何もない(ローマの信徒への手紙1414節)――イエス・キリストへの信仰を通して、初代のクリスチャンたちはそう新たに理解するようになったのです。

 

 

 

ローマの教会内での対立 ~食べる物を巡って

 

 ですので、もはや旧約聖書の食物規定にとらわれず、自由に食事を行う人も現れました。キリストを通して、いまやすべてのものが神の目に清く良いものとされていると確信するようになったからです。

 

一方で、当時の教会の中には、やはり伝統的な食物規定の在り方を守っている人もいました。昔から信じられてきた通り、律法を通して、神の目に清いものとそうではないものが区別されていると確信しているからです。それが大切な世界の秩序でありました。また、先祖代々大切に受け継いできた信仰のかたちや生活習慣を急に変えるというのは難しいことでもあったことでしょう。

 

 本日の聖書個所であるローマの信徒への手紙14章において問題となっていたことの一つは、食べる物に巡る意見の相違でした。もはや伝統的な決まりごとにとらわれず食事を行う人々と、いまも伝統的な決まりを守っている人々との間で、教会内に対立関係が生じてしまっていたようです。当時、食べる物に対して「革新的な」考えをもつ人と、「保守的な」考えを持つ人とが教会内に同時に存在していたのですね。「革新的な」立場に立つ人々は、「保守的な」立場に立つ人々を「遅れている」と上から目線で軽蔑してしまう。「保守的な」立場に立つ人々は、「革新的な」立場に立つ人々を伝統的な信仰をないがしろにしていて「ゆるせない」と断罪してしまう。

 

 パウロは対立しているローマの信徒たちに対して、次のように諭します。《食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません3節)

 

 手紙を書いたパウロ自身は、どんな食べ物も自由に口にしてよいのだという考えを持っていました。イエス・キリストへの信仰によって、この世界においてそれ自体で「汚れたもの」は何もない、と確信していたからです。いわば「革新的な」考えを持っていたわけですが、しかし、パウロはその自分の考えを他者に強要することはしませんでした。どの部分を重視するかは、《各自が自分の心の確信に基づいて決めるべき5節)だと考えていました。

 

 それよりも、大切なのは、神さまがそのような私たち一人ひとりを受け入れてくださった(3節)こと。神の目に、清く、良いものとして受け入れてくださっていること。そのことをこそ、いつも互いに想い出そう、とパウロは呼びかけています。あなたが食べる物のことで批判しているその相手も、主は愛する存在として受け入れてくださっているのだ、と。そして、キリストは、その相手のために、命を捨ててくださったのだ、と15節)。私たちはこのイエス・キリストへの信仰で結ばれあっているのではなかったのですか。

 

 

 

主が私たちをあるがままに受け入れてくださっているように

 

 パウロはまたこのようにも語っています。《生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです8節)。食べ物についての理解の相違を超えて、信仰理解の違いを超えて、民族や国籍の違いを超えて、あらゆる相違を超えて、私たちは神さまのものとされている。愛する神さまの子どもとされている。すなわち、私たちは自分がこのような考えを持っているから、このような立場だから、このような人間だから、神に受け入れられているのではない、ということが分かります。私たちの存在自体が、あるがままに、神さまに「良い」ものとされているのです。

 

「受け入れあう」とは、相手の存在をあるがままに受けとめることであることが分かります。意見が同じだから受け入れる、立場が同じだから受け入れる、というのではなく、相手の存在自体をまるごと受けとめること。それが、主イエスが私たちに伝えてくださっている愛の在り方です。 双方が自分の信仰理解の正しさや優位性を主張しようとする余り、相手の心を傷つけてしまっている状況は、パウロにとっては何よりもこの愛が欠如しているものとして映っていました。

 

 私たちは時に、相手とのちょっとした違いがゆるせなくなってしまうことがあります。そうして相手を軽蔑したり、非難したり、無理やりにでも自分に合わせようとしてしまいます。けれどもそのような時、私たちは違いばかりを見つめるのではなく、自分も相手も神に愛されたかけがえのない存在なのだという根本の共通項をこそ思い起こすことが求められています

 

 主が私たちをあるがままに受け入れてくださっているように、私たちも互いを受け入れあってゆくことができますよう願います。