2020年1月5日「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

202015日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヨハネによる福音書11418 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた

 

  

新しい年のはじめに

 

新しい年のはじめ、ごいっしょに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。今年一年、皆さんの上に主のお支えがありますようにお祈りいたします。 

 年末年始はいかがお過ごしだったでしょうか。ゆっくりとお過ごしになられたでしょうか。私は新年礼拝をおささげした後、1日から3日まで妻の実家に帰省してまいりました。

 

 日本に住んでいますとクリスマスが終わるとすぐにお正月のモードに切り替わりますが、教会の暦ではまだクリスマスは続いています。明日16日は公現日(エピファニー)と呼ばれ、イエス・キリストが人々の前に公に現れたことを記念する日です。教会では伝統的に、公現日までリースやクリスマスツリーを飾ったままにします。しまい忘れているわけではありません(!)

 

 新しい年のはじめ、皆さんも様々な計画や目標を立てていらっしゃることでしょう。4月からまた新しい生活が始まるという方もいらっしゃると思います。

 昨年は天皇の代替わりや消費税増税など、大きな出来事がいくつもありました。今年は7月から8月にかけて東京オリンピック、8月から9月にかけて東京パラリンピックが行われますね。楽しみにしている方もいらっしゃることと思います。

 選手たちの活躍を楽しみにしつつ、同時に、オリンピックの話題だけに目を向けるのではなく、私たちの社会がいま直面している様々な大切な課題に向かい合うことを忘れることがないよう、意識したいものです。特に、東北に住む私たちとしては、9年前の東日本大震災と原発事故がこのオリンピックの年、ますます過去のこととされてゆきはしないか、気がかりです。そのことを危惧しておられる方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 

 

私たちの社会に深く根を下ろす「能力主義」

 

 もう一つ、気がかりなことは、オリンピック・パラリンピックの報道が過熱してゆく中で、私たちの社会において生産性や効率を重視する傾向、成果を過度に重視し弱さを否定的に捉える傾向がさらに加速してはいかないだろうか、という点です。

 

 このことに関連し、印象的な記事をインターネットで見つけましたので、ご紹介したいと思います。神奈川新聞websiteの「能力主義の陰で〈上〉 パラリンピックが格差助長?異論も 超人化するアスリート」20190826日、川島秀宜氏、https://www.kanaloco.jp/article/entry-190720.htmlという記事です。神奈川県県立障害者施設「津久井やまゆり園」の事件を問う特集の一貫として、パラリンピックを実例として、私たちの社会に深く根を下ろす「能力主義」とその《暗部》を見つめる内容の記事でした。

 

2016726日未明に起こったやまゆり園事件はその事件の残虐性と共に、事件を起こした若者の「障害者はいないほうがいい」という趣旨の発言が私たちの社会に大きな衝撃を与えました。植松聖被告は現在もその考えを変えていないそうです。そのように勝手な視点で他者の命と尊厳を否定する一方で、能力が優れた「超人」を礼賛する考えをもっているとのことです。植松被告が神奈川新聞に寄せた手記の中には《わたしは「超人」に強い憧れをもっております》という一文が記されていたそうです。

 

特定の能力の優劣によって人間の価値を決定しようとするこの植松被告の考え方は、他ならぬ私たちの社会の中から生み出されたものではないか、そのような危惧を感じずにはおられません。私たちの社会自体に、植松被告の思想を生み出す土壌があるのではないかと思うからです。

 

神奈川新聞の記事の冒頭ではこのように記されていました。《互いの能力を自由に競い合い、比較や評価することに慣れたわたしたちは、知らぬ間に、期せずして、誰かを傷つけてはいないだろうか。そして、競争の渦中で、自分自身が苦しんだ経験はないか。東京大会開幕まで1年を切ったパラリンピックを実例に、能力主義の暗部を見つめた》。

 

 記事の中では小児科学、当事者研究を専門とする東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎さんの言葉も紹介されていました。熊谷さん自身も脳性まひで電動車いすを利用しておられます。熊谷さんは20187月に開かれたあるシンポジウムで、「水を差すな、と言われるかもしれません」と前置きした上で、「パラリンピックは能力格差を助長しかねない」との懸念を表明されたそうです。

 

《大会は「夢と感動、勇気」(スポーツ庁)をもたらす半面、「わたしはなんて能力がないのだろうと、自分を責めてしまう一般の障害者が現れないだろうか」。

 熊谷さん自身も脳性まひで電動車いすを利用し、「運動能力にコンプレックスを抱えてきた」という障害者だ。熊谷さんは、やまゆり園事件にも言及した。能力至上の偏見が福祉現場に持ち込まれた事件だったからだ》。

 私たちの社会は確かに、能力による自由な競争で成り立っている。だから「能力主義自体は誰も否定できない」と前置きした上で、熊谷さんは記者に対し、《事件後を生きるわたしたちは、否定しきれない能力主義と、うまくつき合っていかなければいけないのです》と警告を発しています。

 

 

 

「障害は乗り越えるもの」……?

 

もちろん、オリンピック・パラリンピックを目指して懸命に努力をしておられる選手たちに責任があるわけではありません。さらなる高みを目指して懸命に努力をしてゆくことは尊い営みです。

 

問題であるのは、その営みの中で結果として与えられた能力と成果――オリンピック・パラリンピックで言うとメダルの獲得――を周囲の人々や私たちの社会が過度に重視し、そこに過度な価値を置いてしまうことでしょう。そうして、気が付かぬうちに、それが「できない」自他を裁いてしまうのです。そのような抜きんでた能力がなく、素晴らしい成果を残すことが「できない」自分や他者を何か価値が低いもののように捉えてしまうことに問題があるでしょう。

 

先ほどご紹介した記事の次の記事では、「障害は乗り越えるもの」という考え方の問題性について触れられていました(「能力主義の陰で〈中〉 障害は「言い訳」か 克服求める熱狂、陰で傷つく人たち」、https://www.kanaloco.jp/article/entry-191698.html。パラリンピックに挑戦する人々の努力はとても尊いものです。と同時に、すべての人が同じように努力をする必要はありません。スポーツに懸命に打ち込む営みの中に自分らしさがある人もいれば、そうではない人もいます。自分らしい在り方は、一人ひとり異なっています。それぞれが、自分のやり方で、自分のペースで、自分らしい生を生きてゆけば、それでよいのです。

 

それでよい――はずですが、私たちはついそのことを忘れてしまうことが多々あるのも事実です。飛びぬけた能力と圧倒的な努力を兼ね備える「超人」に憧れる――そのような想いは、私たちの心の内にも潜んでいるのではないでしょうか。そのような想いに強く囚われるとき、私たちは「障害は乗り越えるもの」「弱さは克服するもの」という価値観に陥ってしまうのかもしれません。そうして、有用な働きをできない自分や他者の価値を、何か低いもののように捉えてしまうのです。

 

やまゆり園事件をきっかけの一つとして、私たちの社会で改めて取り上げられるようになった言葉に、「優生思想」があります。優生思想とは、一方的な「ものさし」によって、人を「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する考えです。ある本では、優生思想の基本は《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》とする考え方であると説明されていました(藤井克徳『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』、合同出版、2018年、3頁)。私たちの社会に深く根を下ろす能力主義は、この恐ろしい優生思想と地続きのものであるということを、私たちは改めて心に刻むことが必要ではないでしょうか。

 

 

 

弱さはそのままに受け入れるもの

 

本来、障害は乗り越えるものではなく、弱さは克服するものでもありません。本来、障害や弱さは受け入れるものです。そのままに、受け入れ、共に生きてゆくものです。自分の目に弱さや欠点に見えるものもすべてまるごと含めて、この私自身です。私たちは何か現在の自分自身を否定して、違う自分に成る必要はありません。いまの自分をそのままに受け入れ、自分らしい自分であればよいのです。私たちがいまここに「いる」こと、存在していること――ここにこそ、最も尊い価値があります。私たち人間の価値は生産性や効率、能力や成果などで決してはかれるものではありません。

 

新約聖書にはこのような言葉があります。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(コリントの信徒への手紙二129節)

聖書は弱さを否定的なものとしては捉えていません。むしろキリストの力が宿るためになくてはならないもの、と捉えているのです。ここにはいわば、発想の逆転、視点の転換があります。

 

 

 

「神が人となった」

 

 私たちの視点を転換させる聖書のメッセージとして、もう一つ、根本的なものがあります。それは、「神が人となった」というメッセージです。

 

聖書の根本的な捉え方として、「神が人間になった」というものがあります。神が肉体をもって人となった、それがイエス・キリストである――。冒頭でお読みしたヨハネによる福音書の言葉も、それを私たちに伝えるものです。ヨハネによる福音書114節《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた …》。クリスマスの際に読まれることも多いみ言葉ですね。

 

《言》とは、ここでは天地創造の前からおられたキリストご自身を指しています。《肉》という言葉は「肉体をもった人」という意味です。ここでは、「キリスト(神)は肉体をもった人となり、私たちの間に共に住まわれた」と言われています。

すなわち、キリストは「神が人となった」存在であり、「人が神となった」のではない、ということです。ここに、根本的な視点の転換があります。

 

 

 

弱さを受け止めあい、共に生きる

 

懸命に修行を積んで、あらゆる弱さを克服して「超人」となった存在が、イエス・キリストなのではありません。もともと神であった存在が、私たちと同じ人間――同じ肉体をもち、同じ弱さをもった(普通の)「一人の人間」になられた、それが聖書の考え方です。弱さを克服するとは正反対、むしろ、私たちと同じように、様々な弱さをもつ存在となってくださった。私たちと同じように、喜び、悲しみ、傷つき、涙する存在として。そのようにして、私たちと「共に生きる」存在となってくださったのです。

 

「神が人となった」というのは不思議な考え方ではありますが、ここから、私たちは弱さの肯定、そして、弱さを含んだ私たち人間存在の全肯定、という非常に大切な視点を読み取ることができるでしょう。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた14節)

 

 弱さがあるので、私たちは自分自身を慈しみ、他者を慈しむことができます。弱さがあるので、私たちは互いをいたわりあい、支えあってゆくことができます。独りではなく、共に生きてゆくことができます。そのとき、私たちにはキリストを通してまことの力が与えられています。

 

互いに弱さを受け止めあい、共に生きることの喜びを胸に、この1年もご一緒に歩んでゆきたいと願います。