2020年2月9日「真理はあなたたちを自由にする」
2020年2月9日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書8章21-36節
「真理はあなたたちを自由にする」
「空気を読む」という言葉
「空気を読む」という言葉があります。私たちの社会では、場の空気を読むことが重視される傾向があります。反対に、「空気を読まない」ことは、否定的に捉えられる傾向がありますね。いまから十数年前には、「KY(『空気が・読めない』のイニシャル文字)」という言葉が流行語大賞に選ばれたこともありました。
もちろん、場の空気を読むことは、人とのコミュニケーションを円滑にします。互いに空気を読むことで、その場の人間関係に安定や秩序がもたらされるということがあるでしょう。みんなが一丸となって何かに取り組んでいるとき、空気を読んだ言動は潤滑油のような働きを果たします。
良いように働く面もありますが、一方で、空気を読みすぎることの弊害もあるのではないでしょうか。たとえば、場の空気に支配されて、自分の想いや考えを自由に口に出来なくなるという弊害です。
空気の支配
場の空気は目には見えませんが、私たちに大きな影響を与えています。私たちは多かれ少なかれ、その場の空気の影響を受けています。
「あの場の空気では口に出すことができなかった」という経験を、誰しもがしたことがあるのではないでしょうか。そこで話し合われていることに本当は疑問を感じていたのだけれども、その場の空気を壊すことが嫌で、発言することができなかった。異を唱えることで周囲から一斉に非難の眼差しを受けることが怖くて黙っていた……など。私たちは日々の生活において、そういう瞬間を多々経験していることと思います。最近話題の「忖度」も、このことと深く関係していますよね。
私たちが生活している日本という国は、特にこの「空気の支配」が顕著だという指摘もあります。空気の支配は、「同調圧力」という言葉で言い換えることもできるでしょう。
私たちにとって同調圧力に屈しないということはなかなか大変なことでもあります。たとえば、ある会議に出席しているとして、何人もの人が同じ意見を言う中で、自分だけ異なる意見を言うのは勇気がいることですよね。心の中では異論・反論があってもそれは隠して、結局賛成の手を上げてしまうということは、私たちはよく経験することではないでしょうか。
一方で、会議を終わってみると、実は自分以外の人々も異論・反論をもっていたことが分かることもあります。何人もの人が実際は反対の意見を内心もっていたのだけれど、誰もそれを言い出せないでいた。異を唱えることができない空気がその場に醸し出されてしまっていたからです。
主体性が奪われた状態
空気の支配下にあるとき、私たちから奪われているのは個々人の主体性です。主体性が奪われた状態というのは、私たちによって苦しいものです。自分の内にある本当の想いが抑え込まれた状態……。この窮屈で苦しい状態が、至る所で生じてしまうのが私たちの社会です。そのようにして自分ではない誰かの想いを強要されている内に、自分で自分の本当の気持ちが分からなくなってしまうということもあるでしょう。
主体性が奪われ、自分自身が失われてしまった状態――これは私たちにとって、大変辛いことです。時に、心身に深刻な影響を与えていってしまう場合もあるでしょう。
空気の支配がもたらす惨禍 ~太平洋戦争末期の事例
また、空気の支配を受けて、私たちが自由に物を言えなくなることが、目の前の状況をどんどん悪化させていってしまうことがあります。本当は率直に批判すべきことを誰も指摘できないことが、状況をさらに悪化させていってしまうこともあるのです。そのことを踏まえると、「空気を読まない」発言をすることには、実は大切な意味があるのではないでしょうか。空気を読まない言動――周りの人々の目には「KY(空気が・読めない)」に映る言動――こそが、全体にとって非常に重要な働きを果たす場合があるのです。
作家の山本七平氏が記した『「空気」の研究』という本があります(文春文庫、1983年)。これまで述べてきました「空気の支配」について論じている本です。いまから40年近く前に出された本ですが、現在もこの書が投げかける問いは切実な意義を持っていると思います。
山本七平氏はこの『「空気」の研究』の中で、たとえば日本が太平洋戦争末期にその無謀な戦いを止めることが出来なかったのも「空気の支配」が大きく作用していたと分析しています。国全体の空気が戦争を推進する方へどんどん傾いてゆく中で、内心は(この戦争は負けるのではないか)と思っている人もそれを口にすることができなかった。もしそれを口に出したら「非国民」と一斉に非難されることになるからです。
そしてそれは戦争の指導者たちの間でも同様であった。内心は(この戦争は負ける)と思っていても、空気に支配されて誰もそれを口に出すことができなかった。そうしていつしか思考停止状態に陥っていったのではないか、と山本氏は分析しています。その結果、国内外に甚大なる惨禍がもたらされてゆくこととなりました。
この戦時中の事例に代表されるように、私たちが空気の支配を受けて物を言えなくなることが、時にとんでもない事態につながってゆくこともあります。
イエス・キリストは「KYな人」(!?)
聖書の福音書を読んでいて分かることは、イエス・キリストは一部の人々の目には、明らかに「KYな(空気が読めない)人」(!)として映っていたことです。イエス・キリストは場の空気を壊すことを恐れず、権力者たちを前にしても、言うべきことをはっきりと指摘されました。
先週は「宮きよめ」の場面をお読みしました。神殿が貧しい人々から金銭を奪い取る場になってしまっていることを嘆き、主イエスがその状況に「ノー」を突き付けるために具体的な行動を起こした場面です。犠牲の献げ物の動物を境内から追い出したり、商人たちの机を倒したり、周囲が仰天するようなアクションを起こされましたよね。そして権力者たちに対して《わたしの父の家を商売の家としてはならない》と率直に批判の言葉をお語りになりました。
このような主イエスの言動というのは、権力者たちにとってはまさに「空気を読まない」言動として映っていたことと思います。社会の常識や既成の価値観をひっくり返す主イエスの「KYな(空気を読まない)」発言に、祭司長や律法学者たちは激怒しました。やがて主イエスは危険人物として、指導者たちから敵視されてゆくこととなります。しかしそれでも主イエスはご自分の信念を曲げることはなさいませんでした。一部の人々から「気が変になった」との誹謗中傷を受けても、いやがらせを受けても、ご自分の信念を突き通されました。そうして最後には、捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架刑に処せられてしまうことになります。
「水を差す」一言 ~真理に根ざした言葉
一方で、聖書を読んでいて分かることは、その主イエスの勇気ある言葉と振る舞いが、場の空気を変え、状況を揺り動かし、新しい未来を切り開いていったということです。
山本七平氏は、場の空気を壊す一言を、「水を差す」一言と表現しています。「水を差す」言葉が場の空気を崩壊させ、人々を現実に引き戻す役割を果たすのだ、と。空気の支配が最も忌み嫌うのが「水を差す」一言でありますが、勇気をもって発言されたその一言が、場の空気を変えてゆく働きを果たします。
主イエスの言動も、当時の社会の在り方とそこに充満する空気に「水を差す」働きを果たしていった、ということができるのではないでしょうか。主イエスの言動によって、社会に変化が生じ始めてゆきました。人々は主イエスの言葉と振る舞いを通して否定的な力の支配から解放され、真の自由を取り戻していったのです。
では、主イエスの「空気を読まない」「水を差す」発言とは、一体どこから生じていたものであったのでしょうか。それは、真理です。本日の聖書箇所に、主イエスの《あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする》(ヨハネによる福音書8章32節)という言葉がありました。主イエスは神さまからの真理に基づいて、「空気を読まない」言葉を宣言しておられたのです。真理に根ざした主イエスの言動は、悪しき力の支配を打ち崩し、私たちに自由を与えて下さるものです。
神さまの目から見た「個人の尊厳」
主イエスが私たちに伝えて下さっている真理とは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い」ということです。一人ひとりに、等しく、神さまからの尊厳が与えられているということです。 言い換えれば、神さまの目から見た「個人の尊厳」です。
「尊厳」とは、言い換えれば「かけがえのなさ」ということです。私たち一人ひとりが、「かわりがきかない」存在として神さまに創られた。だからこそ大切な存在なのであり、その尊厳がないがしろにされることがあってはなりません。
力による支配が強まるにつれ、人はまるでロボットや奴隷のように支配され、コントロールされてしまうことになります。自分の自由な意思を喪失したかのように、コントロールをされてしまうのです。これは一人ひとりが「かけがえのない存在である」という「個人の尊厳」がないがしろにされている状態であり、決して容認してはならないものです。
主イエスは私たち一人ひとりに自由を取り戻し、尊厳を回復させるため、あえて「空気を読まない」言葉を発し続けてくださったのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
「神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえのない=決して替わりがきかない存在である」――。私たちがこの真理に立ち還ってゆくことが、空気の支配に抗うための最大の力になってゆくのだと信じています。「空気の支配」の対極にあるもの、それが「個人の尊厳」であるからです。
どうぞ私たちが今一度この神さまからの真理に立ち還り、この真理に根差して言葉を発し、行動を起こしてゆくことができますように。