2020年7月12日「再び起き上がる」

2020712日 花巻教会 聖霊降臨節第7主日礼拝

聖書箇所:使徒言行録93643

再び起き上がる

  

 

豪雨発生から一週間

九州を中心とする記録的な豪雨が発生してから、昨日で一週間が経ちました。九州や、長野や岐阜県など広い範囲に渡って記録的な大雨となり、河川の氾濫、浸水、土砂崩れなどの甚大なる被害がもたらされています。昨日11日の時点で、亡くなった方は九州で63名、住宅被害は各地で1万棟を超えています(参照:2020711日付け、朝日新聞1面)。いまだ、各地で断続的に大雨が続いています。今後さらなる被害が生じることが懸念されています。どうぞ被害が最小限に食い止められますように、いま困難の中にいる方々に必要な支援が行き渡りますように願います。

 

今朝も西日本および東北地方でお昼前にかけて局地的に激しい雨が降る恐れがあると言われています。花巻市をはじめ県内の市町村でも現在、土砂災害警戒情報が発表されています。二戸などの一部の地域では避難勧告も出されています。皆さんもどうぞお車の運転の際、また土砂災害にはくれぐれもお気を付けください。一人ひとりの命と安全とが守られますようご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

 

 

部落解放祈りの日

 7月の第2主日を私たち花巻教会が属する日本基督教団は「部落解放 祈りの日」としています。あらゆる差別の廃絶、すべての差別からの解放を共に祈る日です。

私たちの社会にはいまださまざまな差別があります。部落差別、障がい者差別、性差別、セクシュアル・マイノリティ差別、沖縄差別、アイヌ差別、在日外国人差別……。今回のコロナ災害では、感染した方々への差別や偏見という問題が露呈しました。他ならぬ私たちの内から差別は生じることが突き付けられた出来事であったのではないでしょうか。

私たち自身の内にも差別の芽があることを自覚しつつ、互いに理解し、合い学び合うことを通して、この社会から少しずつ差別を無くしていけるようにと願います。

 

 

 

タビタとペトロの物語

いまご一緒にお読みした使徒言行録93643節は、タビタと呼ばれる女性とペトロの物語です。ペトロが病いによって亡くなったタビタを再び起き上がらせるという、いわゆる奇跡物語の一つですが、不思議と読む者の心に残る物語です。

 

ペトロはイエス・キリストの弟子のリーダーとして知られている人物ですが、このタビタという女性も主イエスの弟子の一人であり、指導的な立場にあった人だったようです。当然のことですが、イエス・キリストの弟子の中には、女性もいました。代表的な女性の弟子としては、マグダラのマリアがいます。ちなみに、使徒言行録はイエス・キリストが復活して天に挙げられた後の弟子たちの言行(言葉と振る舞い)を記録した書です。

 

本日の物語の冒頭では、タビタは《たくさんの善い行いや施しをしていた》36節)と紹介されています。貧しい人々のために慈善行為を行っていたようです。たとえば、やもめ(寡婦。夫を失った女性)のために衣服を作ることもしていたようです39節)

当時、やもめは寄留者や孤児と並んで、社会的に非常に弱い立場にありました。旧約聖書には、弱い立場にある人々、虐げられている人々の代表としてこれらの人々が繰返し登場します(ゼカリヤ書710節、ヨブ記311323節参照)。現代に生きる私たちからすると問題のあることですが、古代イスラエル社会において女性と子どもは夫または父親の保護を受ける立場にあり、その保護者を失ったやもめや孤児は社会的に特に弱い立場に置かれることとなってしまっていたのです。ですので旧約聖書の律法の中には、これらの弱い立場に置かれた人々の権利をゆがめてはならないという文言が繰り返し出てきます。《寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。/あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを命じるのである(申命記241718節)

社会的に弱い立場に置かれた人々の生活を守ることを目的とするこれらの律法は「人道的な律法」と呼ばれることがあります。言い換えれば、社会福祉的な律法ということもできるでしょう。私たちはこれらの律法の定めの中に、近現代の歴史において徐々に整えられていった社会福祉制度の芽生えを見出すことができます。

タビタという女性も、現代の私たちの言葉で言うと福祉に携わる活動をしていたということができるでしょう。キリストの弟子として、そのような福祉活動に熱心に取り組んでいたようです。そうして多くの人から慕われていた人物であったことが伺われます。もしかすると、貧しい女性たちと共同生活をしながら、彼女たちの指導やサポートをしていたのかもしれません。

 

 

 

再び起き上がる ~イエス・キリストの復活の命によって

このタビタが病気によって亡くなったとき、ペトロはたまたますぐ近くの町に滞在していました。弟子たちはペトロが近くにいると聞いて、人を送り、急いで自分たちのもとに呼び寄せました。

 

ペトロがタビタの遺体が安置されている家へ到着した場面を改めてお読みしたします。《人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた39節)。やもめたちはペトロの傍によってきて、涙を流しながらタビタが作ってくれた数々の下着や上着を見せた、とあります。この物語が私たちの心に残るのはこのような描写から、タビタの人となりや、女性たちとの深いつながりが伝わってくるからなのかもしれません。精神的支柱であったタビタの死を前に、女性たちは深い悲しみと非常な混乱の中にありました。

 

次の瞬間、ペトロは驚くべき行動に出ます。人々を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、《タビタ、起きなさい40節)と呼びかけたのです。すると彼女は目を開き、その言葉の通りに起き上がった、と使徒言行録は記します。すなわち奇跡が起きたわけですが、使徒言行録は、これはペトロ自身が何か超人的な力を有していたからだ、とはみなしていません。そうではなく、イエス・キリストの復活の命の力がペトロを通して働いたのだ、というふうに描いています。

ペトロは手を貸してタビタを立たせ、弟子たちややもめたちを呼び寄せ、生き返った彼女の姿を見せました41節)。周囲の人々の驚きと喜びはいかほどのものであったことでしょう。この出来事は町中に知れ渡り、多くの人がキリストを信じるようになった、と使徒言行録は記します42節)

 

本日のタビタの物語でも示されているこの復活の命を私たちキリスト教会はこれまで信じ続け、自分たちの希望としてきました。

 

 

 

死の現実を前に

 冒頭で述べましたように、現在、豪雨によって各地で大きな被害がもたらされています。大変痛ましいことに、この度の豪雨災害によって、たくさんの方が亡くなっています。突然の死を前に、私たちは本日の聖書箇所のような場面をどのように受け止めればいいか分からなくなってしまうことがあるのもまた事実です。私たちの現実の生活においては、亡くなった人の体が再び起き上がることはないし、亡くなった人の体が再び私たちの家へ戻ってくることもありません。死の現実とその深い悲しみを前に、聖書が語る復活の希望がどこか遠いもののように感じられてしまうことも私たちにはあるのではないでしょうか。

 

C・S・ルイスというイギリスの作家がいます。日本では『ナルニア国ものがたり』が有名ですが、このルイスの著作の中に、『悲しみをみつめて』(西村 徹訳、新教出版社、1976年)という本があります。ルイスの最愛の妻が病気で亡くなってからしばらくの間、ルイスが自分の内に湧いては消えてゆくその率直な心境を綴ったものです。

 

この本の中に、自分が今まで「信仰」と思っていたものは、愛する人の死を前に、はかなく崩れ去ったという内容の言葉が出てきます。ルイス自身の言葉を引用すると、自分がいままで「信仰」だと捉えていたものは「トランプで作った家」のようなものだった、と。しかしそれは、すぐれた神学者であり信徒伝道者としても知られていたルイスの、その時の率直な実感であったのでしょう。

 私たち教会が希望とし続けてきた復活の信仰。この信仰も、死の現実を前にすると、もろく、はかなく思えてしまう瞬間もあるのかもしれません。ルイスの言葉を借りれば、《トランプの家》のように思えてしまう瞬間もあるのかもしれません。私たちは生きてゆく中で、これまで自分が培ってきた信仰や希望が崩れ去ってしまったかのように思う場面に直面することがあるのではないかと思います。

 

 一方で、C・S・ルイスは、自分の《トランプの家》が崩されてはじめて見えてくるものがあったことを記しています。これまで自分が培ってきたものが崩されて終わり、ではなく、一度崩されたその先に、新しく見えてくるもの――光があったようなのです。

 自分が「信仰」だと思っていたものが崩された先に、見えてくるもの。その見えてくるものは、一人ひとり違いがあることでしょう。私自身、自分の信仰が崩されて後、それでも見えてくるものは何であろうと思います時、それは、涙を流すイエス・キリストの姿なのではないかと思います。

 

 

 

《わたしは復活であり、命である》 ~主は共に涙を流しながら

ヨハネによる福音書には、愛する者(ラザロという名前の青年)の死を前に、涙を流される主イエスの姿が記されています。《マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。/イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、/言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。/イエスは涙を流された(ヨハネによる福音書113235節)

 

神の御子である主イエスが涙を流された――これはまことに驚くべき光景です。私たちの生と死についてすべてをご存じのはずの主が、死の現実の前に立ち尽くし、人々と共に涙を流してくださっている。愛する人の死を前に、途方に暮れ涙を流すことしかできない私たちと同じように。主イエスはそのように私たちと同じ悲しみを悲しみ、私たちと同じ苦しみを苦しんでくださることによって、私たちとの間に固い絆を結んでくださいました。いまも結び続けて下さっています。

 

このヨハネによる福音書113235節の直前には、次のイエス・キリストの言葉が記されています。《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか112526節)

主イエスはこの言葉を、どこか遠いところから語られているのではありません。愛する人の死を前に、私たちと共に涙を流しながら、そう語りかけてくださっています。

 

たとえ死の現実を前に、私たち自身の信仰は崩れ去ってしまったとしても、それでも消えない言葉として、いま、この主の宣言は私たちの世界に響いています。深い悲しみと困難の中にあって、私たち自身は信仰と希望を見失ってしまってもなお、この復活の命の言葉は私たちを見失わず、捉えて離さないでいて下さるのだと信じています。キリストの復活の命に捉えられ、結ばれている私たちは、《死んでも生きる》のです。

 

どうぞいま、ここに集ったお一人おひとりの心に、復活の主ご自身が命の言葉を語りかけて下さいますように。