2020年8月9日「受け取ったものを伝える」
2020年8月9日 花巻教会 聖霊降臨節第11主日礼拝
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一11章23-29節
「受け取ったものを伝える」
忘れてはならない日 ~1945年8月6日、8月9日
8月は、私たちが平和を考える上で、忘れてはならないさまざまな日があります。皆さんも心に刻んでおられるように、今から75年前の1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。また本日、8月9日に長崎に原爆が投下されました。いま現在日本全国で、そして世界中で原爆によって亡くなられた方々への鎮魂の祈り、そして核廃絶への祈りがささげられていることと思います。
長崎に原爆が投下された8月9日、岩手県では釜石がアメリカ・イギリス両海軍による艦砲射撃を受け、街は焼け野原となりました(7月14日の艦砲射撃に続いて2回目の艦砲射撃)。
また同日の8月9日、中国の旧満州(現在の中国東北部)ではソ連軍が侵攻を始め、そこに住んでいた多くの日本の人々の住居と命が奪われてゆきました。
花巻教会の会員であり2017年に99歳で天に召された三田照子さんは当時満州におられ、戦争によって多くの人々の命が簡単に消えてゆく光景を目の当たりにされました。戦後、照子さんは満州からの引き揚げの経験の語り部として、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り伝える活動をされました。
99歳の白寿に寄せて、照子さんが花巻教会の会報に寄せてくださった文章は次の言葉で締めくくられています。《平和な世界を作る為に我らは神に遣わされ、愛されて生きている。神は試練ばかりではなく更に良き道を備えてくれる。夫が逝って50年、99歳の誕生日を迎え、生きることの尊さを深く感じる日々である。/私共は、何があっても戦争だけはしてはならない。戦争程、全ての人を不幸にし、悲しませるものはない》。
花巻空襲 ~1945年8月10日
私たちが住んでいるこの花巻でも空襲がありました。長崎に原爆が投下された8月9日の翌日、8月10日のことでした。加藤昭雄さんの『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)によると、この花巻空襲による死者は少なくとも47名、身元の分からない人々を加えると60名近く、あるいはそれ以上にのぼるのではないかということです(20頁)。最も被害を受けた場所の一つが花巻駅前で、駅前地区だけでも少なくとも32名の命が奪われました。負傷者も多数、建物等も大きな被害を受けました。駅のロータリーには現在、「やすらぎの像」が建てられています(1995年、花巻空襲50周年を記念して建立されました)。
またこの花巻空襲によって、教会が隣接する上町・双葉町・豊沢町一帯には大火災が発生しました。この大火災によって673戸の建物が焼失したとのことです(19頁)。
この6月に、花巻空襲を実際に経験した方のお話を聞く機会がありました。朝日新聞岩手版の戦後75年特集の一貫で、花巻空襲についての取材が当教会を会場として行われ、私も立ち会わせていただいたのです。当時女学校の4年生だった2名の方を通して、花巻空襲がどのようなものだったかを伺う貴重な機会が与えられました。
現在のまなび学園のところに、当時の女学校がありました。空襲警報が鳴ると、生徒たちは急いで杉林に逃げ込んだそうです。生徒たちがいる杉林も機銃掃射を受けましたが、幸い皆無事だったそうです。しかし間もなく、周囲で負傷したたくさんの人々が戸板に乗せられて運ばれてきたそうです。記事の一部を引用いたします。《元教員の瓜生祐子さん(90)は女学校の4年生だった。学校で軍服の縫製をしていたところ、空襲警報が鳴った。生徒約300人が逃げ込んだ杉林は機銃掃射を受けた。周辺では何人もの負傷者が戸板に乗せられて運ばれた。「市街は火の海。戦場そのものでした」》(朝日新聞24面、2020年7月14日付け)。
広島・長崎の原爆に比べると、花巻空襲は規模は比較的小さなものであるかもしれません。けれども、原子爆弾も空襲も非人道的な無差別殺戮であることは変わりなく、かけがえのない命とその生活が突然の暴力によって奪われ、深く傷つけられたこともまったく同じです。同記事の中で、岩手の戦争被害を記録する活動を続けておられる加藤昭雄さんはこのようにおっしゃっていました。(岩手での戦争被害について)《攻撃の規模は小さくても、そこには亡くなった人や被害にあったひとがいる》、《身近な出来事ととらえるためには、地域で何があったのかを残すことは大切。教訓を伝えないと、また戦争への道を歩む可能性がある》。
国内外で、この岩手県内でも、たくさんの惨禍をもたらした戦争。様々な悲惨な出来事を経て、8月15日、私たちの国は敗戦を迎えました。
記憶の継承という課題
今年はちょうど戦後75年の区切りの年です。実際に戦争を経験された方々はだんだんと天に召されてゆき、戦争の記憶をいかに次の世代に伝えてゆくかが喫緊の課題となっています。私たちはいかにすれば戦争の記憶を受け継ぎ、次の世代に伝えてゆくことができるでしょうか……?
聖書は、記憶の継承ということについて、長い年月をかけて培われたさまざまな知恵が集められている書です。忘れてはならない出来事を次の世代へと受け継いでゆくための先人たちの知恵の結晶が聖書には残されています。大切な記憶を語り伝える――その営みの中で紡ぎ出されていったのが聖書という書であるともいえるでしょう。現代を生きる私たちにとっても、学ぶことがたくさんあるのではないかと思います。
過ぎ越しの食事 ~出エジプトの出来事を記念し「忘れないようにする」ため
旧約聖書において、最も重要な出来事の一つとして、「出エジプト」という出来事があります。エジプトで奴隷として強制労働させられていたイスラエルの人々を、神さまがモーセを通して救い出して下さった出来事です。戦争体験とはまた異なるものですが、イスラエルの人々は苦難とその苦難からの解放の物語を忘れてはならない物語として、世代から世代へと語り継いできました。
出エジプトはいまからおよそ3300年も前に起こった出来事です。実に3000年以上の間、ユダヤ教徒の方々はこの出来事を受け継ぎ続けてきたことになります。民族の記憶を継承してゆくための様々な知恵が旧約聖書には記されています。たとえば、出エジプトを記念するための祭り(過ぎ越しの祭り)を行うこともその一つです。過ぎ越しの祭りはユダヤ教の三大祭りの一つと言われ、現在も行われ続けている祝祭です。その共同体にとって大切な出来事を語り継いでゆくために祭りを行うというのは、日本でも行われていることですね。
過ぎ越しの祭りで特に重要とされているのは、祭りの期間の最初の夕べに各家庭で行われる「過越の食事」です(主エジプト記12章1-11節参照)。この食事において人々は酵母を入れないパン(種なしパン)、焼いた子羊、苦菜などを用意します。これはかつてイスラエルの民がエジプトを脱出する前夜に行った食事を再現(あるいはイスラエルの民が経験してきた苦難を象徴)しているもので、出エジプトを実際には経験していない後世の人々もその食事をすることによって、出エジプトの前夜を追体験することができます。過ぎ越しの食事は出エジプトの出来事を記念し「忘れないようにする」ための特別な食事であるのですね。
あたかも自分もそこに立ち会っているかのごとくに ~当事者意識をもって
過ぎ越しの食事は『ハガダー』という式次第に基づいて進められてゆきます。『ハガダー』の中には《すべての世代において、人は自分自身があたかもエジプトから脱出したかのごとく見なさなければならない》(『ハガダー〔過越祭の式次第〕』、ミルトス、2010年、49頁)という一文が記されています。イスラエルの人々は出エジプトの物語を単なる遠い過去の出来事ではなく、あたかも自分たちが実際に経験したことかのごとくに――言い換えれば、当事者意識をもって――受け止めてきたことが分かります。
先ほど戦争の記憶をいかに次の世代に伝えてゆくかが課題だということを述べました。その際、その出来事を何らかのかたちで追体験できる機会も重要であることを思わされます。もちろん、戦争の悲惨さというのはそれを実際に経験した方でないと完全には分からないことですが、その悲惨さの一端を、あたかも自分もそこに立ち会っているかのごとくに追体験する機会が与えられることが、その出来事を私たちの胸に深く刻み込むことにもつながってゆくのではないかと思います。戦争を経験された方のお話を聞く、残された手記を読む、あるいは当時の写真や映像を見るということも、私たちが当事者意識をもつための貴重な機会の一つであるでしょう。
戦争と核問題に関しては、私たち一人ひとりが当事者である、当事者になり得ることを心に刻みたいと思います。この度の新型コロナウイルスの感染拡大によって、私たちはある日突然、困難な出来事の当事者になる、ということを身をもって感じたのではないでしょうか。そのことを思い知らされたいまだからこそ、改めて戦争の悲惨さを語り伝える方々の声に耳を傾けたいと思います。
聖餐式 ~キリストの十字架の出来事を記念し「忘れないようにする」ため
さて、本日は記憶の継承という観点からお話をしてきました。旧約聖書において「出エジプト」が決して忘れてはならない出来事であるように、新約聖書においても決して忘れてはならない出来事があります。それは、イエス・キリストの十字架です。キリスト教会はこの2000年近く、この十字架の出来事を決して忘れてはならない出来事として語り継いできました。
またそして、過ぎ越しの食事が出エジプトの出来事を記念し「忘れないようにする」ための特別な食事であるように、十字架の出来事を記念し「忘れないようにする」ための特別な食事があります。それが、聖餐式です。この食事において、会衆はパンとぶどう酒(ぶどう液)を口にします。パンはキリストの体、ぶどう酒はキリストの血をあらわすとされています。
この聖餐式の起源となっているのは、イエス・キリストが十字架におかかりになる直前に行われた主の晩餐(いわゆる最後の晩餐)です。十字架におかかりになる前の夕べ、主イエスは弟子たちと最後の食事をされました。奇しくもそれは、あの過ぎ越しの食事でした。主イエスと弟子たちが囲む食卓の上には、焼いた子羊、苦菜、そして酵母を入れないパンなどの伝統的なメニューが並べられていたことでしょう。しかしこの時、主イエスは酵母を入れないパンを手に取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、式次第『ハガダー』にはなかった新しい言葉をお語りになられました。
その言葉が記録されているコリントの信徒への手紙一11章23-26節をお読みいたします。《わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、/感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。/また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。/だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです》。
この言葉にあるように、新約聖書においては、出エジプト記を記念する「過ぎ越しの食事」は、イエス・キリストの十字架を記念し語り仕える、まったく新しい食事となりました。この新しい食事――すなわち聖餐式に与る者は、あたかも主の十字架に立ち会うごとき経験をしていることになったのです。いや、「あたかも」ではなく「真実に」、聖餐のパンとぶどう液に与るとき、私たちはイエス・キリストの十字架の死、そして復活の当事者となる――そう私たちキリスト教会は信じ続けてきました。
これまで、多くの先人たちの懸命なる努力と祈りによって受け継がれ続けてきた、さまざまな記憶。同じ過ちを繰り返さないため、私たち人間が忘れてはならない記憶。それらの記憶を私たちもまた大切に受け取り、語り継いでゆきたいと思います。