2025年10月12日「神の恵みは、私たちの功績を超えて」
2025年10月12日 花巻教会 主日礼拝説教
ガザ地区で停戦発効
ガザ地区での戦闘をめぐり、イスラエルとハマスが和平案の「第一段階」に合意し、一昨日10日から停戦が発効されています。ガザ地区ではこの2年にわたる戦争で、6万7千人以上の方々の命が失われています。どうぞ恒久的な停戦へとつながりますよう、これ以上かけがえのない命が傷つけられ失われることがありませんよう、切に願います。
「ぶどう園の労働者」のたとえ
礼拝の中で、マタイによる福音書20章1-16節「ぶどう園の労働者」のたとえを読んでいただきました。イエス・キリストがお語りになったたとえ話の一つです。改めて、このたとえ話を振り返ってみましょう。
ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。ぶどうを一斉に収穫するため、日雇いでたくさんの人に働いてもらう必要があったのです。主人は、一日につき一デナリオンを支払う約束で、労働者をぶどう園に送りました。
9時頃行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいました。この人々はただぼんやりと広場に立っていたのではなく、誰も雇ってくれなかったので、そこに残っていたのです。主人は《あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう》(4節)と言い、彼らをぶどう園に送り出しました。主人はお昼の12時と午後の3時にも出かけて行き、同じようにしました。
夕方の5時に行ってみると、他の人々が立っていました。もう夕方になるのに、一体どういうことでしょうか。主人が《なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか》(6節)と尋ねると、彼らは《だれも雇ってくれないのです》(7節)と答えました。やはりこの人々も、ただ何もしないで広場に立っていたのではありませんでした。本人は働きたくても、仕事を得ることができず、結果、一日中そこに残っていたのです。誰からも選ばれることなく、いわば仕事を得ることの競争に負けてしまった人たちでした。主人は彼らに、《あなたたちもぶどう園に行きなさい》と言いました。
それから一時間ほどして、ぶどう園の主人は監督に、《労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい》(8節)と言いました。最後に来た人々からまず賃金を支払うというのが印象的ですね。支払った金額は、一デナリオンでした。手渡された人々は、驚いたことでしょう。それを見ていた最初から働いていた人々は、ならば自分たちはもっともらえると思いました。しかし、彼らも受け取ったのは一デナリオンでした。それで、受け取ると、主人に不平を言いました。《最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは》(12節)。
主人はその一人に答えて、言いました。《友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。/自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。/自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか》(13-15節)。
……というお話です。皆さんはどうお感じになったでしょうか。朝早くから働いていた人たちが不平を言うのも当然だと思った方もいらっしゃることと思います。あるいは、ぶどう園の主人の《気前の良さ》に心動かされたという方もいらっしゃるかもしれません。ただし、これは「神の国(天の国)のたとえ」として語られているものであり、単に労働とその対価についての話ではないことを踏まえる必要があるでしょう。冒頭で、イエスさまがおっしゃっている通りです。《天の国は次のようにたとえられる。…》(1節)。このたとえ話において、ぶどう園は神の国を表しています。ぶどう園の主人は神さま、労働者は私たち一人ひとり、そして支払われる賃金は神さまの恵みを表しています。
《あなたたちもぶどう園に行きなさい》
このたとえ話からはさまざまなメッセージを汲み取ることが可能です。多様な解釈をすることができるでしょう。皆さんはどのようなメッセージを汲み取られたでしょうか。このたとえ話をどの視点で読むかでも違いが出てきますね。一番はじめから働いていた人の視点で読むと、確かに、朝早くから働いてきた自分と一時間だけ働いた人とが同じ賃金であるのは不公平であるように思えます。自分の仕事に対して正当な報酬が支払われていないように感じるのも理解が出来ることです(実際は、ちゃんと約束通りの報酬を得ているのですが)。
一方で、夕方までずっと広場に立っていた人の視点で読むこともできますね。誰からも選ばれず、競争に負けて、広場に残り続けていた人の視点です。仕事が与えられなければ、もしかしたら今日食べるためのお金もなかったかもしれません。その人の立場になれば、一時間だけでも働かせてもらえたこと、さらには、生活のための十分な賃金が与えられたことは、とても有難いことですよね。
あるいは、ぶどう園の主人の視点でこのたとえ話を読むことも可能です。ぶどう園の主人から見ると、誰も雇ってくれる人がおらず広場に立ち尽くしている人々の姿がとても不憫に思えたのかもしれません。ですので、主人は言いました。《あなたたちもぶどう園に行きなさい》。先ほど述べましたように、このたとえ話において主人は神さまを表しています。その場合、神さまが人々を深く憐れんで、ぶどう園へと送り出してくださったということになります。ぶどう園、すなわち神の国へ、と。「あなたたちも神の国に行きなさい」――。
神の国は不公平……?
イエスさまは様々なたとえ話を通して、神の国(天の国)がどのようなものであるかを私たちに伝えてくださっています。本日のたとえ話を通して第一に汲み取れることは、私たち一人ひとりが神の国に招かれているということですね。朝早くから働いていた人も、夕方から働いた人も、等しく、神の国に招かれている。
たとえ話を通して汲み取れるもう一つのことは、その神の国において、神さまの恵みは、私たちの功績を超えて与えられるということです。本日のたとえ話ではこの神の恵みが賃金の一デナリオンで表されていました。朝早くから働いた人も、お昼から働いた人も、夕方から働いた人も、等しく、一デナリオンの報酬が与えられる。私たちがどれだけ働いたかということは、神さまの恩寵を左右するものとはならないのだということが分かります。
「どれだけ働いたか」「どれだけ成果を上げたか」ということを基準にすると、確かに、この神の国の在り方は不公平で不平等であるように思えます。一方で、その努力と功績の基準を外せば、イエスさまがお語りになる神の国は公正であり平等であることが分かります。私たちの側の努力や功績は問われることはなく、一人ひとりに等しく、神の恵みが与えられているという意味で、まことに公正であり、平等であるからです。
功績主義とその問題
それでも私たちの内に何だかモヤモヤするものが残るのは、私たちがそれだけ日々の生活において、「どれだけ努力したか」「どれだけ成果を上げたか」を基準にしていることが多いからかもしれません。
ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏が4年前に出版した『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳、早川書房、2021年)という本があります。タイトルにもなっている「能力主義」という言葉は原文ではメリトクラシー、「功績主義」とも訳すことができる言葉です。英語では「功績主義」の意味で用いられることが多いとのことなので、ここでは功績主義という語を用います。
この功績主義は、「努力と才能で、人は誰でも成功できる」(同書、帯より)という信念のことを指しています。簡単に申しますと「やればできる!」という考え方です。「努力は人を裏切らない」も同様の考え方だと言えるでしょう。これらの言葉は自他を鼓舞する、ポジティブな良い言葉として、普段私たちは捉えていることが多いのではないでしょうか。しかしサンデル教授は同書を通して、功績主義的な考え方がいかに問題であるかを述べています。そして、この考え方がいかにアメリカ社会に深刻な分断をもたらしているかを考察しています。
なぜ功績主義が問題なのかと言いますと、「成功しなかったのは努力が足りなかったからだ」との考えを生じさせるからです。すべて本人の責任(自己責任)にされてしまうわけですね。対して、マイケル・サンデル氏は、社会的な成功というのは実際には、「運の役割」が大きいことを指摘しています(同、40、41頁)。人は本人の努力と才能だけによって、成功をするわけではない。幸運な偶然が大きな要素を占めているものだ、と。
しかし、アメリカ社会はこの功績主義が根深く浸透してきたため、深刻な分断が生じてしまっています。社会的な成功を得るため、必須のものとされているのが学歴です。サンデル氏は、現在のアメリカ社会は「学歴偏重主義」が顕著であり、人種差別や性差別が改善されつつある時代にあって、学歴偏重主義は容認されている《最後の偏見》であると述べています(同、141頁)。低学歴の人々が軽んじられている現状があるのです。功績主義に基づくと、学歴が低い人は「努力が足りない人たち(怠惰な人たち)」とみなされてしまうからです。
社会的な成功を収めたエリートたちは、競争に負けた人々を「努力が足りなかった人たち」とみなして、見下している。一方で、社会的な成功を得ることができなかった人々は、そうなったのは「自分の努力が足りなかったから」だと自分を責め、自己を卑下している。あるいは、自分たちを見下すエリートたちへの不満や怒り、復讐心を日々募らせている。仕事が見つからない人々、あるいは懸命に日々の生計を立てている人々は、自分たちがエリートたちから見下され、差別されていることをひしひしと感じ取っているからです。結果、現在アメリカ社会には深刻な分断が生じてしまっているとサンデル氏は述べます。エリート(=社会的な勝者)と、そうでない人々(=社会的な敗者)との間の分断です。そしてこのような分断を生み出してしまっているのが、功績主義とその問題であると述べています。
サンデル氏が報告しているのはアメリカ社会の現状ですが、このことは、私たち日本の社会にも当てはまるものでしょう。「努力と才能によって人は成功できる」という信念は私たちの社会に深く根を下ろしていますし、「結果を残せなかったのは努力が足りなかったから」という考えも同様に深く根を下ろしているように思います。結果、「どれだけ努力したか」「どれだけ成果を上げたか」が私たちの社会の重要な基準となっているように思います。
もちろん、努力することや、自分の才能を伸ばしてゆくことは大切です。ただ、勝利や成功は、運の役割――《自分の支配できない力》(同、111頁)によるものも大きいことを、私たちは絶えず心に留めておく必要があるのではないでしょうか。どれほど努力をしても、思うような結果が出ないこともあります。報われないこともあります。そしてそれは多くの場合、本人の責任を超えたものです。それなのに、たとえば大学受験において、就職活動において、いかに多くの人がこの能力主義的な考えの中で――競争社会の中で――苦しんでいることでしょうか。うまくいかなかったことはすべて本人の責任とされる中で、癒えることのない深い傷を負った方も数多くいらっしゃることを思います。
神の恵みは、私たちの功績を超えて
改めて、本日のたとえ話を思い起こしてみましょう。このたとえ話においては、朝早くから働くことができた人(=競争に勝った人)も、夕方まで残っていた人(=競争に負けた人)も、等しく神の国に招かれ、等しく報酬が与えられます。功績主義的な視点からすると、これは不公平に思えます。しかし、功績主義的な視点を取り除き、新しいまなざしをもってこのたとえ話を受け止め直すと、神の国の公正さが立ち現れてきます。神の国においては、私たちの努力や功績を超えて、「勝者」と「敗者」を超えて、一人ひとりに等しく、神さまの大いなる恵みが与えられています。そしてそれは、私たち一人ひとりが、神さまの目から見てかけがえのない、代替不可能な、大切な存在であるからに他なりません。
私たちの功績を超えて与えられる神さまの愛と恵みに、いまご一緒に心を開きたいと思います。