2025年10月19日「ほめたたえよう 神の小羊」
2025年10月19日 花巻教会 主日礼拝説教
賛美歌「ほめたたえよう 神の小羊」
先ほど礼拝の中でご一緒に「ほめたたえよう 神の小羊」という賛美歌を歌いました。本日の聖書箇所であるヨハネの黙示録7章9-17節をもとに、私が作詞をした賛美歌です(作曲:飯靖子先生)。季刊誌『礼拝と音楽』第206号(2025年8月、日本キリスト教団出版局)に掲載されています。1番はこのような歌詞でした。
《ほめたたえよう 神の小羊
玉座にいます 小羊イェスを
苦難の民は 共に集まり
神の救いを たたえて歌う》。
「神の小羊」とは、イエス・キリストのことです。キリスト教では伝統的に、イエス・キリストを小羊で表現することがあります。スクリーンに映しているのは、ヤン・ファン・エイクという画家が描いた祭壇画(の一部)です(ヘントの祭壇画、1432年)。ヨハネの黙示録のビジョン(幻)を絵にしたものです。中央の玉座に小羊がいるのがお分かりになるでしょうか。この玉座におられる小羊イエスを天使や人々が取り囲み、共に礼拝をささげています。
よく見ますと、小羊は胸から血を流していますね。この描写から、玉座におられる小羊は屠られた小羊であり、十字架におかかりになったキリストを表していることが分かります(ちなみにこの祭壇画は修復が施され、現在は小羊の顔がこの画像のものと少し変わっています)。
歌詞に戻ります。《苦難の民は 共にあつまり》。ここでの《苦難の民》とは、キリスト者であるゆえに迫害を受けた人々、特に、殉教(信仰のために命を失うこと)した人々のことを指しています。大勢の殉教者たちが神の小羊を囲み、神の救いをたたえている――そのようなイメージを謳っています。聖書本文ではこれらの人々は白い衣を身に付け、手になつめやしの枝を持っています(ヨハネの黙示録7章9節)。
2番の歌詞も引用いたします。
《ほめたたえよう 神の小羊
救いもたらす 小羊イェスを
み使いたちも ここに集まり
神の栄光 たたえて歌う》。
2番では「み使いたち」、すなわち天使たちも、玉座におられる小羊と群衆を囲み、共に神の栄光をたたえて謳っています。聖書本文ではこのような言葉が続きます。《アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン》(12節)。
3番の歌詞をお読みします。
《ほめたたえよう 神の小羊
罪を清める 小羊イェスを
世界を覆う 幕屋の中で
飢えも渇きも みな癒やされる》。
「幕屋」という言葉がありました。聖書において幕屋は、神が「住まわれる」(臨在される)特別なテントのことを指します(参照:出エジプト記25章8-9節)。ヨハネの黙示録ではイエス・キリストが人々の上に幕屋を張って、共に住んでくださる様子が謳われています。そしてその幕屋の中では、《飢えも渇きも みな癒やされる》。ここには、私たちを脅かすもの、苦しめるものは、もはや存在しない。イエス・キリストの護りの下で、まことの安心、安全、平和が実現されている……。
ここまで読んでお分かりになりますように、ヨハネの黙示録が描いているビジョンはいまはまだ実現していない、将来実現する出来事を示しています。いまは私たちの世界には飢えも渇きもあるけれど、しかし、いつの日か、平和な世界が訪れる。そのような日――キリスト教はその日を「終わりの日(終末)」と呼びます――が必ず到来することを、信仰と希望とをもって指し示しているのが、本日の聖書箇所であるのです。
最後の4番の歌詞をお読みいたします。
《ほめたたえよう 神の独り子
羊飼いなる キリスト・イェスを
命の泉 イェスは導き
神がすべての 涙をぬぐう》。
ここでは、イエス・キリストを「小羊」ではなく、「羊飼い」として形容しています。私たちを命の泉に導いてくださる、まことの羊飼いとして、です。聖書本文では《玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである》と記されています(ヨハネの黙示録7章17節。イザヤ書の預言の成就として)。人々の目から涙がぬぐわれる時が来ることを記すこの最後の一文は、とりわけ心を打たれるものです。いつの日か、そのような苦しみも悲しみもない世界が訪れる。ヨハネの黙示録が指し示すこれらのビジョンは私たち教会の希望であり続けてきました。
ヨハネの黙示録が書かれた時代
ヨハネの黙示録は紀元90年代後半、キリスト教徒が差別や迫害を受けている状況下で記されたと言われています。キリスト教の信仰を持つという理由だけで、社会的に差別され、場合によっては迫害される状況が生じていたのです。当時はいまだローマ皇帝の命令による大規模なキリスト教徒への迫害は行われていなかったようですが、散発的にいやがらせや迫害が生じていました。時には教会の指導者が捕らえられたり、殺されたりすることもあったと考えられます。そのような状況の中、著者ヨハネはこの文書を通して、夢や幻を通してローマの支配を間接的に批判しつつ、仲間のキリスト者たちに苦難を耐え忍ぶよう励ましています。玉座におられる小羊がすべてに勝利する日、その終わりの日は必ず訪れる、と。その時代状況を踏まえて本日の聖書箇所を読むと、改めて、ビジョンの一つひとつが重みをもって、切実さをもって、私たちの心に迫って来るのではないでしょうか。
ちなみに、「黙示」はギリシア語ではアポカリュプシス、夢や幻を通した「啓示」を意味する言葉です。ヨハネの黙示録は読んでみると、不思議な夢や幻、箇所によってはちょっと恐ろしい幻が出てきますよね。様々な幻(ビジョン)を通した神の啓示――終わりの日の到来――を読者に語るのがヨハネ黙示録です。ヨハネ黙示録が提示する様々なビジョンの中で、とりわけ切実さを伴って私たちの心を打つのが、本日の聖書箇所であると言えるでしょう。《世界を覆う 幕屋の中で/飢えも渇きも みな癒やされる》。《命の泉 イェスは導き/神がすべての 涙をぬぐう》。いま目の前にある現実はむしろ、これらのビジョンとは正反対の状況であったでしょう。飢えがあり渇きがあり、命と尊厳が脅かされている状況がある。涙を流さざるを得ないような状況がある。しかしいつの日か、イエス・キリストは必ず私たちを命の水の泉に導き、私たちの目から涙をことごとくぬぐってくださる。
それは、信仰を通して見ることが出来るビジョンであり、希望です。いまは苦しみの中で涙を流さざるを得ないのだとしても、イエスさまは必ず自分たちの目から涙をぬぐい取ってくださる。必ず、その時は来る――その信仰と希望のともし火は途切れることなく受け継がれ続け、いま、私たちのもとに手渡されています。
このような悲惨なことが二度と繰り返されることがないように
いまを起きる私たちはこのともし火を受け継ぐと共に、人々が信仰を理由に迫害されたり殺されたりする悲劇を繰り返してはならないことを心に刻むことが求められています。
以前、岩手県一関市藤沢町の大籠(おおかご)キリシタン殉教公園を訪ねたことがありました。大籠は江戸時代のはじめ、「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々が居住していた地です。皆さんもよくご存じの通り、江戸時代には幕府によってキリスト教が禁止されていました(1614年に江戸幕府が全国に禁教令を発令)。この大籠では300人以上ものキリスト教徒が殉教したとされています。殉教公園内にはキリシタン資料館や彫刻家の舟越保武さんが設計した礼拝堂もあります。
私がこの殉教公園を巡りながら強く感じたことは、「このような悲惨なことが二度と繰り返されることがないように」との想いでした。
大籠をはじめ、潜伏キリシタンの殉教地には多くの方々が訪れます。そうして、命を賭して信仰を貫いた先人たちの姿に触れ、胸を打たれます。私も、殉教した方々に対して、最大限の敬意を抱いています。先人たちの懸命なる信仰があったからこそ、いま私たちのもとに信仰のともし火が手渡されているのだと思っています。
そのことを踏まえた上で、私たちがいま祈るべきことは、「私たちもこのような強い信仰を持とう」「信仰の先達たちに自分たちも続こう」ということではなく、「信仰を理由に人が殺されるという悲劇が、二度と繰り返されないように」という祈りであると考えています。信仰を理由に人を殉教にまで追いやるということ自体が、本来、決してあってはならないことです。このような悲劇が今後繰り返されないためにはどうしたら良いのか、ご一緒に神さまに祈り求め、考えてゆきたいと思います。
信教の自由 ~信じる自由、信じない自由
本日はヨハネの黙示録の御言葉を通して、苦難のただ中にあっても失われなかった、先達たちの信仰と希望とに共に想いを馳せました。信仰の先達たちが命をかけて伝えてくれたその信仰と希望のともし火は、いまも、私たちの内にともされ続けています。
そのことを踏まえた上で、信仰を理由に迫害されることはあってはならないこと、そのような悲劇が今後繰り返されないためにはどうしたら良いのか、私たちは祈り求めてゆくべきこともご一緒に確認しました。
私たちが生きる現代は、信教の自由が憲法に明記されています。《信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない》(日本国憲法第20条第1項)。この信教の自由には、信じる自由だけではなくて、信じない自由も含まれます。ある特定の宗教を「信じる/信じない」の判断は、個々人の主体性に基づいてなされるべきことです。私たち一人ひとりには信じる自由もあるし、信じない自由もあります。信教の自由は、思想・良心の自由(憲法第19条)と共に、私たちが人間らしく生きてゆくために欠くことの出来ない、大切な権利の一つです。しかしこの権利が侵害される事態はいまも、私たちの近くに遠くに、起こり続けています。
神に栄光を、人間に尊厳を
私たちはこれから、神に栄光を帰する在り方を大切にし続けると共に、人間に尊厳を確保する在り方を大切にしてゆくことが求められています。神に栄光を帰する視点も、私たち人間に尊厳を確保する視点も、どちらも等しく、大切なものです。
神さまの目から見て、私たち一人ひとりが、かけがえのない、尊厳ある存在です。神さまの目から見て、失われてよい人は存在しません。一人ひとりがまことに大切にされ、その命と尊厳が尊重される社会を祈り求めてゆくことが、神さまに栄光を帰することにもつながってゆくのだと信じています。
神に栄光を、人間に尊厳を――。神の目に価高く貴い一人ひとりが大切にされる社会を求めて、それぞれが自分に出来ることを行ってゆきたいと願います。