2025年10月5日「「内なる人」は日々新たに」
2025年10月5日 花巻教会 主日礼拝説教
召天者記念礼拝
本日は天に召された愛する方々を覚え、礼拝をおささげしています。
この1年、私たち花巻教会は愛する方々を神さまのもとにお送りしました。1月7日、教会関係者のS・Sさんが天に召されました。1月10日、教会にてご葬儀を執り行いました。
6月17日、教会員のT・Eさんが天に召されました。6月21日、教会にてご葬儀を執り行いました。T・Eさんは6月12日に、病床にて洗礼を受けられました。
ご遺族の皆さまの上に、S・Sさん、T・Eさんにつながるお一人おひとりの上に、神さまの慰めとお支えがありますようお祈りしております。
ここに集った皆さまの中にも、この1年、愛するご家族、ご友人を神さまのもとにお送りした方がいらっしゃることと思います。今日ここに集われたお一人おひとりの上に、神さまの慰めとお支えをお祈り申し上げます。
『わたしは よろこんで 歳をとりたい』
本日は一冊の本をご紹介したいと思います。ドイツの神学者のイェルク・ツィンクさんという方が、93歳の時に出版された『わたしは よろこんで 歳をとりたい』という本です(眞壁伍郎訳、こぐま社、2018年)。T・Eさんが病床で読んでいらっしゃった本でもあります。同書では、90代であるツィンクさんの率直な想いや祈りが、詩のような文体で綴られています。
まず私たちの心に残るのは、本のタイトルともなっている「よろこんで歳をとる」というフレーズですね。「歳をとる」ということについては、時に否定的な意味として語られることもありますが、ツィンクさんは「わたしはよろこんで歳をとる」と語っています。
本文を一部、引用したいと思います。
《つい先ごろ山でカエデの老木に出会った/わたしもその木のように ただそこにいて/生きているだけでよいのだ/ようやくそのように わたしも成長し自由になった!/
もう好きなときにだけ 机に向かえばよいし/おしゃべりいっぱいの会議に 出る必要もない/何になるとか しなくてはなど/ひとからよく見られるのも もう不要》(同、6頁)。
山で出会ったカエデの老木。私もその木のように、ただそこに存在し、生きているだけでよい。自分もようやくそのように成長して、自由になった、とツィンクさんは語ります。青年期、壮年期に必死で仕事をしていた頃にはなかなか気づくことができなかった、「あるがままに存在していること」「いま・ここに生きていること」の尊さです。
確かに、懸命に机に向かって仕事をし、会議を繰り返している日々には、なかなかその心境に至ることができないものです。老年期となり、ようやく自分は成長し、自由になった。《成長し自由になった》という表現も心に残ります。青年期、壮年期を過ぎて老年期を迎える中で身体はだんだんと衰えてゆきますが、同時に、自分の内面は成長を続けているというのですね。そうして、色々な物を抱えていた若い時分には見出すができなかった、自由を得ることができた。
もちろん、老年期の日々は喜ぶことができることばかりではない。誰もが喜んで歳をとっているわけではないことはよく承知している、ということもツィンクさんは語っています。
《老いれば 力はおとろえ 感覚はにぶり/病気や痛みがます/日々の出来事がおっくうになり 記憶は不確かになり/一日がみじかく 夜がながい/友だちが亡くなり 親もきょうだいたちもいってしまう/憂うつさがしのび寄り この先が不安になる …》(同、11頁)。
このようなことがあるのだとしても、《それでも わたしはよろこんで歳をとろう》とツィンクさんは綴ります。なぜそう言えるのでしょうか……? 先ほど語った理由の他に、より根本的な理由があるように思います。
復活の命の希望
その理由とは、聖書が語る復活の命の希望です。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死より三日目によみがえられたことを語っています。そのキリストに結ばれた私たちは、その復活の命にも結ばれていることを語っています。だから、死は終わりではないのだ、と。生き物としての死を迎えた後も、私たちはキリストの永遠の命の中を共に生き続ける。その復活の命の希望を、聖書は語っています。
ツィンクさんは歳を重ね、ご自分の命がエンディングへと向かっているのを感じるにつれ、ますますその希望を感じるようになられたようです。言い換えると、自分の命の終わりが近づくにつれ、不思議とますます、新しい何かが自分の内に始まろうとしているのを感じる、と。
《というのは わたしたちの何もかもが 老いてゆくのではなく/人生の終わりに近づくにつれて/新しい何かが わたしたちのうちに始まろうとするからだ/
昔から多くのひとはこういっている/何か大きな不思議なことが あなたのなかで始まるよ と/まるで 一人の子どもが あなたから生まれ/人生の終わりをこえてつづく/いのちになるよ とでもいうように/そしてそれは あなたの魂のなかから 始まる とも/キリストの福音はそれを 新しいひと とよんだ》(同、36頁)。
「内なる人」は日々新たに
メッセージの冒頭でお読みした新約聖書コリントの信徒への手紙二4章16-18節も、この復活の命の希望を語っています。改めてお読みいたします。
《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。/わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。/わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。
《外なる人》と《内なる人》という表現が出てきました。ここでの《外なる人》とは、生き物としての私たち、およびその肉体を指していると言えるでしょう。私たちの身体は、年齢と共に衰えてゆきます。しかしそのように身体は衰えてゆくのだとしても、私たちの《内なる人》は日々新たにされてゆくと聖書は語ります。ここでの《内なる人》は私たちの内面や精神と捉えることもできるでしょう。「魂」という言葉で表現する人もいるでしょう。本日はこの《内なる人》を、キリストと結ばれた「私」として受け止めてみたいと思います。
生き物としての「私」は年齢と共に衰え弱まってゆきますが、キリストと結ばれた「私」は日々新たにされ、成長を続けているのです。そして生き物としての「私」が死という区切りを迎えてもなお、キリストと結ばれた「私」は成長を続けてゆく。キリストの復活の命の中を、生き続けてゆく。キリストに結ばれた私たちにとって、死は本当のエンディングではないのですね。だから、《わたしたちは落胆しません》とコリントの信徒への手紙は語ります。
先ほど引用したツィンクさんの文章の中に、《わたしたちの何もかもが 老いてゆくのではなく/人生の終わりに近づくにつれて/新しい何かが わたしたちのうちに始まろうとする》という言葉がありました。人生の終わりが近づくにつれて始まろうとする《新しい何か》とは、復活の命に他なりません。生き物としての命の終わりが近づくにつれ、より輝きを増してゆく、復活の命です。《外なる人》は衰えたとしても、いや、《外なる人》が衰えるからこそ、復活の命と結ばれた《内なる人》がより生き生きと、輝いて感じられる瞬間というものが、私たちの人生には起こり得るのではないでしょうか。
また、ツィンクさんはそれを、古から多くの人が言っている真理として、《一人の子どもが あなたから生まれ/人生の終わりをこえてつづく/いのちになる》とも形容しています。そして聖書はそれを《新しいひと》と呼んでいる、と。
共に復活の命に結ばれて
コリントの信徒への手紙二4章は次のようにも語ります。《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。
ここでの《見えるもの》とは、《外なる人》、《見えないもの》とは《内なる人》およびキリストの復活の命と受け止めることができるでしょう。もちろん、私たちのこの身体、《外なる人》を慈しむことは大切です。この身体も含めて、この「私」です。《外なる人》とこの「私」は切り離すことはできません。
と同時に、《外なる人》が地上での役割を終えた後も、「私」は続いてゆきます。キリストの命と結ばれた、《新しいひと》として生き続けます。永遠に存続するこの《見えないもの》――復活の命にこそ希望を置いて、共に生きてゆこう、とこの手紙は私たちに語りかけています。
天に召された愛する人々も、ここに集った私たちも、みながこの復活の命に結ばれています。復活の命の中を、共に生きています。この復活の命を希望として、これからもご一緒に歩んでゆけますことを願います。
ここに集った皆さんお一人おひとりの上に、神さまからの慰めとお支えがありますようお祈りいたします。