2025年5月4日「よみがえりの力」
2025年5月4日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編116編1-14節、コロサイの信徒への手紙3章1-11節、マタイによる福音書12章38-42節
2025年度 年間主題聖句
新しい年度がはじまり、1ヶ月程が経ちました。ゴールデンウイークの後半でもありますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。新しい環境で生活をはじめた皆さんは、少しずつ慣れてきた時期かと思います。と同時に、疲れが出てくる時期でもあります。どうぞ無理はせず、お体大切になさってください。
私たち花巻教会はこの2025年度の年間主題聖句として、創世記1章31節を選んでいます。《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である》(新共同訳)。
神がこの世界を造られたとき、ご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、《極めて良かった》とおっしゃる箇所です。私たちは、この「良い」という祝福の中で生まれ出ました。わたしたちの目から見て、自分のこれまでの歩みがどれほど過ちで満ちていていようとも、神さまの目から見て、私たち一人ひとりは「良い」ものです。神さまの目から見て、私たち一人ひとりは価高く貴い(イザヤ書43章4節)存在であることをこの箇所は伝えてくれています。
私たちがいま生きている社会はますます、自尊心を育みづらい社会となっています。聞こえてくるのは、むしろ自分や他者を「悪い」ものとして裁こうとする声、攻撃しようとする声です。私たちの社会ではいま、「良い」という声が見失われているように思います。そのような中にあって、「私たち一人ひとりが良い存在である」という聖書のメッセージを今一度ご一緒に思い起こしたいと思います。
一人ひとりの存在が極めて「良い」ものとして尊重される社会を目指して、ご一緒に祈りを合わせてゆきましょう。
受難節から復活節へ ~十字架の死を経た上での復活
4月20日(日)、私たちはイースター礼拝をおささげしました。私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。イースターは「イエス・キリストが復活したことを記念する日」ですが、より詳しく言いますと、「イエス・キリストが十字架におかかりになって亡くなられ、その三日目に復活されたことを記念する日」です。イエスさまのご復活は、十字架の死を経た上での復活であることを心に留めたいと思います。
私たちは現在、復活節の中を歩んでいますが、3月5日からイースターの前日の4月19日までは受難節でした。受難節はイエスさまのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。受難節を経た上で、喜びの日イースターが訪れることを、私たちは教会の暦を通しても毎年経験しています。
イースターをお祝いする時期が春であるのも、大切な意味があるように思います。長く厳しい冬を経験するからこそ、春が来たことの喜びを深く実感することができるからです。そのように、イエスさまの復活は、ご受難と十字架の死を経たものであるからこそ、私たちの心のその最も深きところに響く出来事となっています。
《預言者ヨナのしるし》
メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所であるマタイによる福音書12章38-42節をお読みしました。律法学者・ファリサイ派の人々とイエス・キリストの問答が記されている箇所です。律法学者とファリサイ派の人々が《先生、しるしを見せてください》と言うと、イエスさまは次のようにお答えになりました。《よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。/つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる》(39、40節)。
ここでの《しるし》とは、「奇跡的な出来事」のことを言っています。律法学者とファリサイ派の人々は、イエスさまを試すために、「先生、奇跡を見せてください」と言ったのですね。「もしあなたが私たちの目の前で、奇跡的なしるしを見せてくれたら、あなたを救い主として信じてもいいですが、いかがでしょうか……?」というようなニュアンスでしょうか。
それに対して、イエスさまは《預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない》とお答えになりました。
少し意味が分かりづらい、不思議な言葉です。イエスさまが律法学者とファリサイ派の誘惑(こころみ)を間接的に斥けられたことは分かります。けれども、《預言者ヨナのしるし》が何を意味しているのか、分かりづらいですね。
ここでイエスさまが念頭に置かれているのは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の『ヨナ書』の物語です。主人公のヨナが海に投げ込まれ、巨大な魚に呑み込まれる場面はよく知られているものですね。ヨナは魚のお腹の中で三日三晩過ごした後、また陸地へと吐き出されます(ヨナ書2章1-11節)。イエスさまはこの場面を念頭に置いて、お話をされているようです。《預言者ヨナのしるし》とはすなわち、ヨナが三日三晩、魚のお腹の中で過ごした後、神さまの助けによって生還した「奇跡的なしるし」のことが言われているのです。
続けてイエスさまはおっしゃいます。《つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる》。
《人の子》とは、イエスさまご自身のことです。ヨナが三日三晩、魚のお腹の中にいたように、これから、イエスさまも三日三晩、大地の中にいることになる。これは、イエスさまの十字架の死と埋葬を意味していることが分かります。
ヨナが大魚のお腹の中にいたように、イエスさまもこれから、十字架上で息を引き取り、暗い墓の中に横たわることになる。そして、ヨナが3日の後に陸地へと吐き出されたように、イエスさまも3日目に復活することになる。イエスさまはここで、ご自身の死と復活を暗示なさっているのです。
《陰府の底》から
先ほど、イエスさまのご復活は、十字架の死を経た上での復活であることを述べました。ここでイエスさまがヨナ書のことを取り上げているのも、ヨナが魚の腹の中に飲み込まれる苦難と、ご自身のご受難とを重ね合わせていらっしゃるからでしょう。イエスさまのご復活は、ご受難と十字架の死を経た上での復活であることを、私たちは本日の言葉からも受けとめることができます。
ヨナ書の2章には、ヨナが大魚のお腹の中にいるときに神にささげた祈りが記されています。《ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、/言った。
苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。/陰府の底から、助けをもとめると/わたしの声を聞いてくださった》(2章2、3節)。
この中に、《陰府(よみ)の底から》という表現が出てきました。「陰府」とは、地下の世界のことを指す言葉です。日本語で「黄泉(よみ)」というと、死んだ後の世界、死者たちのいる世界のことをイメージします。聖書の陰府も、死んだ後の世界を指すこともありますが、それだけではありません。本人は生きていても、「陰府に落ち込んだ」と表現されることがあります。たとえばヨナは魚のお腹の中で生きているわけですが、自分が《陰府の底》に落ち込んでしまったと認識しています。
聖書における陰府とは、広義において、「神から断絶された場所」を指していると受け止めることができるでしょう。神さまの恵みの光が届かない場所、神さまから断絶された場所、そこが陰府であるのですね。またそこには、親しい人々からも断絶されること、それまでの当たり前の生活から断絶されることも含まれています。このように非常に辛い状況を、古代イスラエルの人々は「陰府に落ち込んでいる」と形容したのです。
このように陰府を受け止めるとき、それはいまを生きる私たちとも無関係の場所ではないことを思わされます。生きてゆく中で、私たちもまた、そのような辛い心境に追いやられることがあるように思うからです。
神さまの愛と恵みの光から断絶されてしまっているような心境。親しい人々からも断絶され、それまでの当たり前の生活からも断絶されてしまっている心境。自分の周囲は暗闇に覆われており、まるで自分が光の届かない淵の底か、大海の底に沈んでしまっているかのように感じる。私たちは生きてゆく中で、時に、そのような辛い心境に落ち込むことがあることと思います。
本日ご一緒に心に留めたいのは、イエスさまご自身が、その暗闇を共に経験してくださったということです。ご受難と十字架の道行きにおいて、私たちの苦しみをご自分のものとして、経験してくださいました。極みまで、経験し尽くしてくださいました。そしてそのことを通して、私たちと固く一つに結び合わさってくださいました。
《つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる》――。
よみがえりの力
ヨナの祈りは、最後に、信頼と感謝の祈りへと変わってゆきます。《……しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。/……わたしは感謝の声をあげ、/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。/救いは、主にこそある》(7、10節)。そうして、ヨナは神さまの助けによって、魚の腹の中から陸地へと生還します。
このヨナの祈りに、たとえいまは陰府の中に落ち込んでしまっているとしても、神は必ずそこから自分を引き上げて下さるという、古代イスラエルの人々の信仰が表されています。
そしてその信仰は、新約聖書では、復活のキリストへの信仰につながっています。神さまは、暗い墓の中から、イエスさまをよみがえらせてくださいました。そしてその復活の命に、私たち一人ひとりを結び合わせてくださいました。このことも、本日ご一緒に心に刻みたいと思います。
神さまはイエスさまを通して、私たち一人ひとりに、「陰府から帰る=陰府(よみ)がえり」の力を与えてくださっています。
十字架と復活のキリストがいつも私たちと共にいてくださる
イエスさまの十字架も復活も、どちらも私たちの救いにとって欠くことは出来ないもの――。私たちがいま共に読んでいるマタイによる福音書は、特にそのことを強調している書です。マタイによる福音書はイエスさまの十字架の死と復活の出来事を、「等しく」、決定的に重要な出来事として描き出しています。
イエス・キリストの十字架と復活を知らされた私たちが確信していること。それは、私たちが暗い穴の中に落ち込んでいるときも、光の中を歩いてときも、どんなときも、イエスさまは共にいてくださるということです。そのインマヌエル(『神は私たちと共におられる』の意)なる光は、決して失われることはありません。
《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(マタイによる福音書28章20節)――。マタイ福音書の最後をしめくくる、イエスさまの言葉であり、マタイ福音書全体が伝えるメッセージです。
この言葉は、原文のニュアンスを生かして訳し直すと、「世の終わりまでのすべての日々、私があなたがたと共にいる」となります。世の終わりまでのすべての日々、イエスさまは共にいてくださる。だから、私たちは独りなのではありません。
十字架と復活のキリストがいつも私たちと共にいてくださること、これこそが、私たちにとっての奇跡です。この消えることのない「しるし」を胸に、この2025年度もご一緒に歩んでゆきたいと思います。