2025年6月29日「世の光として」
2025年6月29日 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書60章19-22節、マタイによる福音書5章13-16節、フィリピの信徒への手紙2章12-18節
「あなたがたは地の塩である」
先ほど礼拝の中でマタイによる福音書5章13-16節を読んでいただきました。「地の塩、世の光」という表現でよく知られている箇所です。イエス・キリストは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と語ってくださいました。
マタイによる福音書5章13-16節《あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。/あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。/また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。/そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》。
「地の塩」というのは少し不思議な表現ですね。ここでの塩は、岩塩がイメージされているようです。パレスチナの死海の沿岸は岩塩が産出されることで知られています。この箇所において、塩がどのようなものとしてイメージされているのか、まず確認しておきたいと思います。
私たちは料理をするとき、ほとんど毎回のように塩を使います。塩は私たちが料理の味付けをするために欠かせないものです。また、塩は食べ物の腐敗を防ぐために用いられます。イエス・キリストが生きておられた時代のパレスチナにおいてもそれは同様で、塩は大切な生活必需品でした。つまり、ここでは塩というものは「なくてはならないもの」「かけがえのないもの」としてイメージされているのですね。
イエス・キリストの《あなたがたは地の塩である》(13節a)という言葉は、塩が私たちの生活に欠かせないものであるように、あなたがた一人ひとりには、この世界において、かけがえのない大切な役割が託されている、とのメッセージが込められているのだと受け止めることができます。かけがえのない、とは、替わりがきかない、ということです。あなたの替わりになる人は、本来、世界中のどこにもいません。
と同時に、続けて次の言葉が語られます。《だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう》(13節b)。ここでは、岩塩が風化や湿気などによって、本来の塩気が失われてしまった状態がイメージされているようです。「塩に塩気がなくなる」ことへの注意が語られているのですね。
この表現が何を意味しているのか、様々な受け止め方ができるかと思いますが、本日は、本来かけがえのない役割をもっている私たちが、周囲に合わせすぎてしまい、その固有の役割と使命――固有の持ち味――を見失ってしまっている状態を指すものとして受け止めてみたいと思います。
先ほど申しましたように、《あなたがたは地の塩である》という言葉には、私たち一人ひとりには、かけがえのない役割が託されているとのメッセージが込められています。私たちが周囲に合わせすぎて自分の持ち味や自分らしさ、自分の役割と使命を見失うことのないよう、そのことへの注意が語られているのではないでしょうか。
あなたには、あなたにしかできない大切な使命がある。だから、どうぞ勇気をもって、自分の人生を歩んでいってください――そのようにイエス・キリストはいま、私たちを励ましてくださっています。「みんなが同じでなければいけない」との同調圧力が強い私たちの社会にあって、このイエス・キリストの言葉は私たちに勇気を与えてくれるものですね。
「あなたがたは世の光である」
《あなたがたは世の光である》(14節a)も、やはり共通のメッセージが込められています。自分の持ち味、自分らしさ、自分にしかできない大切な役割を遠慮して引っ込めておくのではなく、はっきりと人々の前に輝かしなさい、とイエス・キリストはお語りになっています。
《あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。/また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである》。
ろうそくの光は家の中を照らすためにあります。ろうそくに火をつけたのに、わざわざそのろうそくを下に隠す人はいませんよね。ろうそくは、燭台の上に置きます。そうすれば、家の中のものすべてを明るく照らし出します。
《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》。あなただけがもっているその光を、隠すのではなく、誰かを照らす、この世界を照らす光として、はっきりと人々の前に輝かしてください――イエス・キリストは共にいて、いま、そう私たちを励ましてくださっています。そのあなたの行いを見て、人々は神さまを知るようになるのだ、とも語られています。
私たちの存在にともされた光、私たちに与えられている大切な使命と役割、それはほかならぬ、神さまが与えてくださっているものであるのです。
神さまの目から見て、私たち一人ひとりはかけがえのない=替わりがきかない存在であり、それぞれに神さまから大切な役割と使命が与えられています。
またそして、本日の言葉が、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」と、現在形で語られていることに注意したいと思います。努力すればいつか「地の塩、世の光になれる」、と未来のこととして語られているのではなく、あなたはいますでに「地の塩、世の光である」と語られているのですね。あなたはいま、地の塩、世の光なのだ、と。
同調圧力の強い社会 ~コロナ下で経験したこと
先ほど、私たちの社会は「みんなが同じでなければいけない」との同調圧力が強い社会であると述べました。そのような社会の中にあって、本日のイエス・キリストの言葉は勇気を与えてくれるものです。と同時に、同調圧力の強い社会の中でそれに抗ってゆくことはなかなか難しいこと、大変なことであることも改めて思わされます。
たとえば、コロナ・パンデミックにおいて私たちはそのことを痛感したのではないでしょうか。いまは通常通りの生活を取り戻すことができていますが、2020年から始まった新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界中が大変な混乱に陥りました。それは、私たちがこれまで経験したことのない事態でした。懸命に感染対策をする中で、「みんなが同じでなければいけない」という同調圧力もまた、一段と強いものとなりました。皆が一律に同じ行動をすることが強制されることの辛さ、一律に行動が制限されることの息苦しさを、私たちは身をもって経験しました。
「感染してはいけない・感染させてはいけない」ことを強調するあまり、実際に感染した人を差別するということも生じました。「みんなが同じでなければいけない」ことを強調するあまり、皆と違う振る舞いをする人に対して攻撃が向けられ、誹謗中傷がなされるということも多々発生しました。コロナ下の中で、様々な人権侵害が生じてゆきました。改めて当時のことを思い起こすと、胸が苦しくなってくる思いがいたします。
またそれは新型コロナワクチンの接種についてもそうだったのではないでしょうか。十分な治験がなされず、深刻な副作用が懸念されているワクチンであるにもかかわらず、国策として、国全体を上げて接種が促進されました。幼い子どもも若者も、皆が接種しなければならないという非常に強い圧力が社会全体を覆いました。本当は打ちたくないのだけれど、打たざるを得ない状況に追い込まれた方々も多くいたことでしょう。
私自身は一度もコロナワクチンの接種をしていません。そのことを公にし、ワクチンの危険性を指摘してきましたが、その言動はやはり勇気を必要とするものでした。社会的に少数の立場に立たされ、非難の目にさらされることの恐ろしさと言いましょうか。実際に直接どなたかに批判されたわけではありませんでしたが、当時、日々の生活の中で、何とも言えない息苦しさや孤立感を感じていました。戦時中、「非国民」とされることの恐ろしさと通じるものがあったかもしれません。
現在、新型コロナワクチンの後遺症の深刻な実態が明らかにされてきています。6月23日に発表された新型コロナウイルス感染症予防接種健康被害審査第三部会の最新の審議結果では、健康被害の受理件数は計13,816件(認定件数:9,212件、否認件数:3,818件、保留件数:7件)、その内、死亡件数は計1,778件(認定件数:1,026件、否認件数:636件)です。ただし、これらの被害も、氷山の一角であるでしょう。ワクチンの影響とは気が付かず、体の不調を覚えている方も数多くいらっしゃることと思います。
同調圧力が社会全体を覆うとき、いかに大きな力をもって私たちを支配するかを、私たちはコロナ下の中で強く実感しましたが、そのことを改めて批判的に検証しないと、また同じことが繰り返されるのではないかという危惧を覚えています。また、私たちキリスト教会がコロナ下においてどのような対応をしたか(あるいはしなかったか)、どのようなメッセージを発したか(あるいは発さなかったか)も振り返る必要があるのではないでしょうか。
個人の尊厳とその光
《あなたがたは地の塩である》《あなたがたは世の光である》。イエスさまはそうお語りになりました。ここでの《あなたがた》は、「教会」の意味に受け止めることもできますし、また、「私たち一人ひとり」を指すものとして受け止めることもできるでしょう。いまを生きる私たちにとって、後者の「私たち一人ひとり」の意味として受け止めることは重要な意味を持っていると思っています。個人の単位で、この言葉を受けとめてみるということです。
《あなたがたは地の塩である》《あなたがたは世の光である》。塩も、ともし火も、私たちの生活に欠かせないものであるように、「神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえのない=替わりがきかない存在である」。私たちがこの視点に立ち還ってゆくことが、同調圧力に抗い、私たちが主体性を発揮してゆくための根源的な力になってゆくと考えるからです。
私たちは「大勢の中の単なる一人」ではありません。神さまの目から見て、「かけがえのない一人」です。この一人ひとりの「かけがえのなさ」は、言いかえると、個人の尊厳ということです。私たち一人ひとりが替わりがきかない個に立ち帰り、その尊厳を取り戻そうとしてゆくことが、同調圧力に抗う最大の力となってゆくのだと信じています。
この尊厳の光は、神さまから私たち一人ひとりに与えられています。この光は、神さまご自身が与えてくださっている、決して失われることのない光です。この光は、最小単位であると同時に、最大の力を秘めています。
《あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》(16節)とのイエスさまの言葉は、すでにともされているこの尊厳の光を、さらに人々の目にはっきりと輝くものとしなさいという呼びかけの言葉としても受け止めることができるでしょう。
世の光として
本日の聖書箇所であるフィリピの信徒への手紙2章に次の言葉がありました。《そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、/命の言葉をしっかり保つでしょう》(15、16節)。
私たち一人ひとりは、この暗い世の中にあって、《星のように》輝いているのだと述べられています。神さまの目から見ると、私たち一人ひとりの存在が、そのように、世の光として輝いて見えているのです。
《あなたがたは地の塩である》《あなたがたは世の光である》――。ここに集ったお一人おひとりが、いま、そしてこれからも、そのかけがえのない使命と役割を果たしてゆけますように願っています。