2025年6月8日「聖霊が降る」
2025年6月8日 花巻教会 ペンテコステ礼拝説教
聖書箇所:ヨエル書2章23節-3章2節、マタイによる福音書12章14-21節、使徒言行録2章1-11節
ペンテコステ
本日はペンテコステ(聖霊降臨)の出来事を記念して、ご一緒に礼拝をおささげしています。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちのもとに聖霊(神の霊)が降った出来事のことを指します。ペンテコステはクリスマスやイースターに比べると日本では知られていませんが、キリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで重要な祭日です。
ペンテコステはギリシア語で、「50番目」を意味する言葉です。これは、ユダヤ教のお祭りである五旬祭に由来しています。過越し祭から50日目に行われる収穫のお祭りです。
キリスト教会にとって重要であるのは、その五旬祭当日が、イエスさまの復活を記念するイースターから「50日目」であることです。今年はイースターが4月20日(日)でした。そのイースターから数えて50日目が、本日6月8日になります。
聖霊が降る
改めて、ペンテコステの出来事を記した本日の聖書箇所、使徒言行録2章1-11節を振り返ってみましょう。
その日、エルサレムの街は五旬祭が行われ、各地から人々が集まり、賑わいを見せていました。町中が活気づく中、イエス・キリストの弟子たちは外へ出かけることなく、家に集まっていました。そこにはイエスさまの母マリア、イエスさまの兄弟たちもいたと考えられます。1-4節《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、/突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。/そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。/すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》。
ユダヤ教にとって大切なお祭りが行われているのに、なぜ弟子たちは家に集まっていたのでしょうか。そこには、次のイエスさまの約束の言葉が関係していました。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(ルカによる福音書24章49節)。
イエスさまが昇天されるにあたって、弟子たちに対して語られた言葉です。ここでの《約束されたもの》とは、聖霊を意味しています。弟子たちはこの約束を信じ、共に集まり、イエスさまが聖霊を送ってくださる時を待ち望んでいたのですね。
一同が一つになって集まっていると、ついにその時がやってきました。突然、激しい《風》が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響きわたったのです。そうして、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。
この場面を描いた、エル・グレコの絵を観てみましょう(スクリーンの画像を参照)。母マリアと弟子たちの頭の上に、小さな《炎のような舌》が描かれています。この《炎のような舌》が、聖霊が降ったことのしるしです。
ペンテコステ ~イエスさまを証する教会の誕生
聖霊に満たされた一同は、聖霊が語らせるままに、さまざまな国々の言葉で話し出した、と聖書は記します。5-7節《さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、/この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。/どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。…」》。
外にいた人々はこの物音を耳にして、何ごとかと集まってきました。そして、家の中で、自分たちの故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。
続く9-11節のところではさまざまな地名が出て来ていますね。《パルティア、メディア、エラム》《メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア。…》、これらは、当時知られていた国々のリストです。いわば、全世界の国々のリストです。五旬祭のために各地から集まっていた人々は、そこで自分の故郷の言葉が話されているのを耳にして、すっかり驚いてしまいました。
ここで弟子たちがさまざまな国の言葉で何を話していたのかは記されてはいませんが、イエスさまについて話していたと受け止めることができるでしょう。弟子たちはさまざまな国の言葉で、神の子・救い主なるイエスさまについて、証言を始めたのです。
これが、使徒言行録が記すペンテコステの出来事です。弟子たちのもとに聖霊が降ったこの瞬間は、イエスさまを証する教会が誕生した瞬間でもあります。よって、ペンテコステは教会の誕生日と言われることもあります。クリスマスはイエスさまの誕生日、ペンテコステは教会の誕生日、ですね。
キリスト教の歴史は教会分裂の歴史
こうして誕生したキリストの教会ですが、はじめは、当然のことながら教会は一つだけでした。エルサレムを拠点とする、弟子たちや母マリア、イエスの兄弟たちで構成されたこの小さな集まりは(原始)エルサレム教会と呼ばれることもあります。その後、エルサレム教会を母教会とするアンティオキア教会が設立されます(使徒言行録11章19-26節)。そうして次々に、様々な地域に教会が建てられてゆきます。そのように新しく教会が建てられてゆくに伴い、教会間に立場や考えの違いが生じてゆくことともなります。
現在、世界には数多くのキリスト教の教派、団体が存在しています。カトリックとプロテスタントが日本ではよく知られていますね。プロテスタント教会内にも、たくさんの教派やグループがあります。立場や考え方も様々、キリスト教の特質の一つは、その内実が実に多様なことにあると言えるでしょう。
私たちキリスト教会が、幾多もの分裂を繰り返してきたことは、皆さんもよくご存じの通りです。キリスト教の歴史とは、教会分裂の歴史であったとも言えるでしょう。教会が分裂すること自体は必ずしも否定的に受け止めるべきことではありません。いまを生きる私たちはそこにかけがえのない意義があったのだと受け止めることが出来ます。
悲しむべきことは、その過程の中で、私たちキリスト者が互いに憎み合い、敵対し合ってきたことです。その憎悪と対立は、時に内外の政治的な利害関係とも結び付き、戦争を引き起こすなどの大きな惨禍をもたらすことにもなりました。教会内の憎悪と対立は、これまで、無数の人々の命と尊厳を傷つけてきたのです。
新約聖書のパウロの手紙の中に、「教会はキリストの体である」との言葉があります。《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》(コリントの信徒への手紙一12章27節)。この言葉を踏まえますと、教会の分裂は、その一つなるキリストの体が引き裂かれることを意味します。キリスト教の歴史は、キリスト者が互いに対立し合うことによって、キリストの体が引き裂かれて行った歴史でもありました。
エキュメニカル・サンデー
先週はメッセージの中で、「エキュメニズム」という言葉を紹介しました。エキュメニズムは「教会間に再び一致を取り戻そうとする理念・運動」を指す言葉です。キリストの体のイメージで言うならば、エキュメニズムは引き裂かれたキリストの体を再び一つとする運動だと言えるでしょう。ペンテコステである本日は、エキュメニカル・サンデーとしても定められています。教会の一致を祈り求める日です。ペンテコステを記念する今日、教会が一つとなることを祈り求めることはふさわしいことですね。
エフェソの信徒への手紙4章3、4節にはこのような言葉があります。《平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。/体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです》。
《霊による一致》という表現が出てきました。《霊》とは、聖霊のことです。聖霊なる神さまは、私たちを一致へ導いてくださることが示されています。また、この箇所では《一つ》という言葉が繰り返されていますね。一つなる聖霊は、私たちを《一つ》へと導いてくださるお方です。
ペンテコステ ~「違いがありつつ、一つ」である教会の誕生
では、ここでの《一つ》とは、どのような意味で言われているのでしょうか。ここでの《一つ》は、違いをなくしてみんなが「同じになる」という意味での一つではありません。違いはありつつ、同時に、一つに結び合わされているという意味での一つです。私なりの表現を使えば、「違いがありつつ、一つ」である在り方です。
新約聖書の手紙は、それをやはり体のイメージで表現しています(ローマの信徒への手紙12章4、5節、コリントの信徒への手紙一12章12-27節、エフェソの信徒への手紙4章12-16節など)。体の各部分がそれぞれに異なった働きをしつつ、一つに結び合わされているように、私たちも違いがありつつ、キリストの体に一つに結び合わされている。私たちはキリストの体の部分として、それぞれがかけがえのない役割を果たしながら、互いに補い合っている。そのようにして私たちは共に一つのキリストの体を造り上げているのだと聖書は語ります。
《愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。/キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです》(エフェソの信徒への手紙4章15、16節)。
ですので、教会が再び一つになることは、原始エルサレム教会に戻れ、ということではありません。教会が一つだけであった時代に戻れ、ということにはなりませんし、そうするべきではないでしょう。すでに無数の教派、教会が生まれ出ているのであり、その一つひとつの存在と働きにかけがえのない意義があるからです。
確かに、聖霊が降ったその日、弟子たちの心は一つでした。使徒言行録でも《一同が一つになって集まっていると……》と記されています。そのように皆が一つになって集まっていると、約束の通り、聖霊が降りました。この瞬間に起こったことは、一同が、さまざまな国の言葉で、イエスさまのことを証言し始めたことでした。
これは、互いに「違い」が生まれた瞬間とも言えるのではないでしょうか。さまざまな言葉で話し始めたということは、そこに違いが生じ始めているということです。と同時に、お一人なるイエス・キリストについて証しをしています。証の仕方は違いがあり多様でありつつ、同じイエス・キリストを指し示している点において一致しています。この違いは、聖霊による役割分担と言い換えることもできるでしょう(ローマの信徒への手紙12章6-8節、コリントの信徒への手紙一12章4-11節、28-31節、エフェソの信徒への手紙4章11節など)。聖霊なる神さまは、私たち一人ひとりに、固有の役割(賜物)を与えてくださる方です。私たちはそれぞれ、かけがえのない役割を果たすことで、互いに補い合い、同じ一つのキリストの体を造り上げていっているのです。
先ほど、ペンテコステは教会の誕生日であると述べました。ペンテコステは、「違いがありつつ、一つ」であるキリストの教会が誕生した日だとも受け止めることができるのではないでしょうか。
引き裂かれたキリストの体を再び一つに
私たちキリスト教会は、その歩みの中で、様々な場面においてその真理を見失ってきました。「違いがありつつ、一つ」であることを忘れ、自己を絶対化し、自分たちとは異なる他者を攻撃することをくり返してきました。各自が互いにキリストの体の部分であることを忘れ、「あなたも自分と同じになれ」と迫り、「あなたはいらない」と排除することをくり返してきました。その教会内の憎悪と対立が内外に大きな惨禍をもたらし、人々の命と尊厳を傷つけてきたことは、すでに述べた通りです。
ペンテコステの今日、私たち一人ひとりが、聖霊において「違いがありつつ、一つ」であることをご一緒に思い起こしたいと思います。そうして、引き裂かれたキリストのお体が再び一つとされてゆきますように、そのことを通して、この地上に和解と平和が実現してゆきますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。