2025年7月13日「空の鳥、野の花を見よ」
2025年7月13日 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書49章14-21節、マタイによる福音書6章22-34節、使徒言行録4章32-37節
部落解放祈りの日
本日7月第2週の日曜日は、私たち花巻教会が属する日本キリスト教団のカレンダーでは「部落解放祈りの日」にあたります。部落差別について学び、私たちの社会から差別がなくなってゆくよう共に祈りを合わす日です。
この後、ご一緒にお読みする、「部落解放祈りの日を覚えての祈り」に次の言葉があります。《司会者:生れたところで差別するわたしたちがいます。/みんな:でも、みんな大切なひとりひとり。/司会者:病気やしょうがいによって差別するわたしたちがいます。/みんな:でも、みんな大切なひとりひとり/…… 司会者:わたしたちを造られた神様が言われます。/全員:みんな大切なひとりひとり》(日本基督教団、2025年度 部落解放祈りの日運動パンフレット《リタニ―の例A》より)。
私たちの社会の中には、部落差別をはじめ、今も様々な差別や偏見が存在しています。生れたところで、あるいは病気や障がいによって、人を分け隔てしてしまうのは、他ならぬ私たち自身です。この祈りの言葉にありますように、神さまの目から見て、《みんな大切なひとりひとり》であること、その真理に常に立ち帰りたいと思います。そして、差別や偏見を少しずつでもなくしてゆくため、自分にできることを行ってゆきたいと願います。
今年の10月7日(火)~10月9日(木)には、奥羽教区にて、日本キリスト教団部落解放センター 第16回部落解放全国会議が開催されます。主題は“ゆがみに気づく第一歩 ~部落差別解消という「沖」をめざして~”。会場は、国立療養所 松丘保養園 (1日目)と日本基督教団 青森教会(2日目、3日目)です。ご都合の宜しい方はぜひご参加ください。
「空の鳥、野の花を見よ」
先ほど、本日の聖書箇所の一つであるマタイによる福音書6章22-34節を読んでいただきました。その中に、次の言葉がありました。《空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。/しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった》(6章26-29節)。「空の鳥、野の花を見よ」の表現で親しまれているイエス・キリストの言葉です。愛唱聖句(大切にしている聖書の言葉)の一つにしておられる方も多いことでしょう。
この言葉は、イエス・キリストが「この世界をどのように見つめておられたか」ということが、最も端的に表されている箇所であると思います。ある方は、新約聖書全体でこの箇所ほど読者に豊かな色彩的イメージを喚起する箇所は他にないと述べています(大貫隆先生『イエスという経験』、岩波書店、2003年、70、71頁)。このみ言葉を読んでいると、ガリラヤ湖畔の丘の上で、イエスさまが実際に空や足もとを指差しながら、「空の鳥、野の花を見てごらん」と微笑みながらお語りになっているお姿が心に浮かんでくるようです。改めて、25節以下のイエスさまの言葉をご一緒に味わってみたいと思います。
「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い悩むな
25節は次の言葉で始まります。《だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか》。
ここでまずイエスさまは、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩むのはやめなさいとおっしゃっています。そのことを示すために、「空の鳥、野の花を見てごらん」とおっしゃっているのですね。
イエスさまはまず空を見上げ、飛んでいる鳥を示して、おっしゃいます。《空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる》(26節)。鳥は私たち人間のように、食べるために種を蒔くことはしませんし、刈り入れをすることもありません。食べ物を倉に納めて保管しておくこともしません。しかし、今日も鳥は元気に空を飛んでいます。それは、天の神さまが鳥を養ってくださっているからだ、とイエスさまは語られます。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」と思い悩まなくてもよいのだ、と。
次に、イエスさまは足もとの、野に咲く花を示して、おっしゃいます。《なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。/しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった》(28、29節)。
野の花は、確かに、私たち人間のように衣服を着て着飾ることはしません。着る物のために働くことはないし、糸を紡ぐこともありません。しかし、今日も花は美しく咲いています。それもはやり、天の神さまが花を美しく装ってくださっているからでしょう。ここで登場するソロモンは、イスラエルが王国として最も栄えた時代の王さまです。栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。すなわち、神さまの自然な装いは、それほど美しいもの。だから、「何を着ようか」と思い悩まなくてもよいのだとイエスさまはお語りになっています。
「すること」で思い悩む私たち
ここまで、改めて本日のみ言葉を振り返ってみて、いかがでしょうか。もちろん、食べ物、飲み物、着る物は私たちが生きてゆく上で、不可欠のものです。イエスさまもそのことを軽んじておられるわけではないでしょう。私たちにとって、これらのことは生活する上で欠かせないもの、大切なもの。イエスさまが主の祈りの中で、《我らの日用の糧を、今日も与えたまえ》と祈ることの大切さを教えてくださっている通りです。
ここでイエスさまがおっしゃっているのは、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い悩むことはやめなさい、ということです。「思い悩む」というのは、言い換えれば、そのことで「頭をいっぱいにする」ということですね。それをやめるようにとイエスさまは諭してくださっています。
皆さんはいま、どのようなことで頭がいっぱいになっているでしょうか。やらなければならない用事のこと、仕事のこと、あるいは生活上の様々な問題、色々あるかと思います。私自身、日々、やらなければならない色々なことで頭がいっぱいになることがあります。そのように思い悩むとき、私たちは多くの場合、「すること」で思い悩んでいるのではないでしょうか。本日の聖書箇所では食べること、飲むこと、着ることが挙げられていましたが、私たちはその他たくさんの「すること」「しなければならないこと」で思い悩み、日々自分の頭をいっぱいにしています。
「いること」の大切さ
イエスさまは本日のみ言葉で何を私たちに伝えようとしていらっしゃるのでしょうか。それは、「いること」の大切さであるのだと、本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。「すること」ではなく、「いること」です。
私たちは日々の生活の中で、「すること」で頭をいっぱいにしていますね。「何をするか」ということで思い悩んでいます。あるいは、「何ができたか」「何ができなかったか」。そうして、そのことで時に、自分や他人の価値も決めつけてしまっています。「すること」が過度に重視されているのがいまの私たちの社会です。
そのような私たちに対して、イエスさまはここで私たちのまなざしを「すること」から、「いること」へ向け直すことを求めておられます。「何をするか」「何ができたか」で神さまは私たちを判断しておられるのではない。大切なのは、私たちがいまこうして生きて「いること」、存在して「いること」。そのように、私たちがいま・ここに「いること」こそが、神さまにとって最も価値あることなのだ――そのことをイエスさまは伝えてくださっています。たとえあなたが何もしなくても、何もできなくても、神さまはあなたにいつも愛を注いでくださっています。
「先のこと」で思い悩む私たち
最後の34節で、イエスさまはこうおっしゃいます。《だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》。
ここでは、「明日のことまで」思い悩むのはやめなさい、と言われていますね。私たちは日々「すること」で頭をいっぱいにしています。それらはいずれも、「先のこと」「未来のこと」です。私たちが「すること」で頭をいっぱいにしているとき、「先のこと」で頭を悩ませ、不安になり心配になっているのだとも言えます。
そのように私たちは「明日のこと」「先のこと」で頭をいっぱいにしていますが、イエスさまはここで「今日」の大切さ、「いま」の大切さを伝えてくださっているのだとご一緒に受け止めたいと思います。
「いま」の大切さ
私たちが明日のことで思い悩んでいるとき、見失ってしまっているのは、今日という日であり、そして「いま」という瞬間です。イエスさまは私たちのまなざしを「明日」から、「いま」へ向け直すことを求めておられます。
「これから何をするか」「この先何ができるか」で神さまは私たちを判断しておられるのではない。大切なのは、私たちがいま・ここに「いること」だからです。「いま、この瞬間のあなたを、神さまは受け入れてくださっている」、「いま・ここの、あるがままのあなたを、神さまは愛してくださっている」ことをイエスさまは伝えてくださっています。神さまは、いまこの瞬間の私たち一人ひとりを、極めて「良い」ものとして、祝福してくださっているのです。
イエスさまのまなざし
イエスさまが示してくださっているこの世界の在り方は、まさに創世記1章に描かれる、すべてが神さまの目に「良い」世界そのものであると思います。天地創造において、神さまはご自分がお造りになった一つひとつの存在をご覧になって、「極めて良かった」とお語りになったことを創世記は記しています。《神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった》(創世記1章31節)。天地創造のはじめ、生まれ出たばかりの存在はもちろん、まだ何もなし得たわけではありませんね。何もしていなくても、まだ何も成し遂げていなくても、いまこの瞬間、一つひとつの存在そのものが、神の目に「良い」存在、価高く貴い存在であることが分かります。
またそして、他ならぬイエスさまが、そのようにこの世界を、私たち一人ひとりをご覧になっておられたのだと私は受け止めています。メッセージのはじめの方で、本日の「空の鳥、野の花を見よ」のみ言葉は、イエス・キリストが「この世界をどのように見つめておられたか」ということが、最も端的に表されている箇所であると述べました。イエスさまは、天地創造の際の神のまなざしをもって、この世界を見つめておられたのではないでしょうか。今が満ちるこの時、イエスさまは私たち一人ひとりを、極めて「良い」存在として、神の愛に包まれた、光輝く存在として見つめてくださっていた。イエスさまはその新しい、十全なる世界の在り方を「神の国」と呼び、神の国がすでに天にあるように、この地上にもいままさに到来していることを宣べ伝えてくださいました。
イエスさまがお語りになったのは、神さまの目に、すべてが「良い」世界です。私たち一人ひとりが、いまここに「いること」こそが、神の国において、最大に価値あることである。この「いること」の大切さが土台にあるからこそ、私たちは何かを「すること」の力もまた与えられてゆくのではないでしょうか。
生産性や効率が過度に強調される社会の中にあって、「いること」の大切さをいつも心に留めつつ、歩んで行けるよう願っています。