2025年7月20日「求めなさい。そうすれば、与えられる」
2025年7月20日 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編143編1-6節、マタイによる福音書7章1-14節、テモテへの手紙一2章1-8節
「人を裁いてはならない」
先ほど新約聖書のマタイによる福音書7章1-14節を読んでいただきました。そのはじめに、「人を裁いてはならない」という言葉がありました。1節《人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである》。よく知られたイエス・キリストの言葉の一つですね。
「人を裁く」とはどういうことか、少々分かりづらいかと思いますが、ここでは、自分の一方的なものさしによって人を判断してしまうことが言われています。「あの人はこうだ」「この人はああだ」とか、勝手に決めつけてしまうことです。
本当は相手のことをよく知らないのに、「あの人はこういう人だろう」と決めつけて批判することを私たちはよくしてしまうのではないでしょうか。4節には《あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか》という面白い表現もありました。私たちは他人の目にある《おが屑》、つまり人の小さな過ちや欠点はよく見えるのに、自分の目の中にある《丸太》、つまり大きな過ちには気づかない、ということが言われています。本当は相手のことがよく見えていないのに、勝手に「こうだ」と決めつけてしまっている状態を、イエスさまは「目に丸太が入っている状態」とユーモアをもって表現されています。
ここで心に留めておきたいことは、「人を裁いてはならない」という言葉は、「人を批判してはならない」ということと同じ意味ではない、ということです。私たちは「人を裁くこと」はすべきではありませんが、「他者の過ちを率直に指摘すること」は、勇気をもってなすべき時があるでしょう。特に、誰かが不当に傷つけられている場合、私たちは勇気をもって指摘をするべきです。また、至らない部分は誰しもがありますので、課題や問題を互いに指摘し合い、共により良い在り方を模索してゆくことは私たちにとって不可欠の姿勢です。ここでイエスさまが注意を促しておられるのは、「あの人はこう」「この人はこう」と自分勝手な判断で、一方的に決めつける姿勢です。
ある本では、「人を裁く」とは、《「あなたはこうだ、ああだ」と、人の人格にレッテルを貼ること》だと説明されていました(ウィリアム・ウッド『改訂新版 教会がカルト化するとき』、いのちのことば社、2007年、8、9頁)。最近は、私たちの社会全体において、相手に一方的なレッテルを貼る傾向がより強まっているかもしれません。相手がどういう人かを知らずに、属性だけで判断してしまう。あるいは、相手のことをよく知らないのに、誰かから聞いた話や、ネットで得た知識などをそのまま鵜呑みにして、人を判断してしまっていることが多く起こっているのではないでしょうか。
レッテルを貼ることがいかに問題であるかは、自分がレッテルを貼られた場合のことを考えるとよく分かるでしょう。「あの人はああだから」と勝手に自分にレッテルを貼られたとしたら、私たちはとても辛い気持ちになります。人の人格にレッテルを貼ることが、いかに人の心を傷つけ、いかに人の尊厳を傷つけることであるのかが分かります。
そして、このようなレッテル貼りがエスカレートしてゆくと、遂には、「あの人(あの人たち)は危険な人」「価値が劣る人」と差別をしたり、「あの人(あの人たち)はいなくてもいい人」「いないほうがいい人」と、相手の人格や存在を否定する言動にまで至ってしまうこともあります。もちろん、このような言動は決して容認することはできないものです。
津久井やまゆり園事件から9年
今週の7月26日、津久井やまゆり園事件(相模原障がい者施設殺傷事件)から9年を迎えます。2016年7月26日未明、相模原市の障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員が刃物を持って侵入、19人の入居者の命が奪われ、27人が重軽傷を負いました。この事件においては、その残虐性とともに、犯行に及んだ若者(当時26歳)の「重い障害をもった人はいないほうがいい」という言葉が社会に衝撃を与えました。またそのことによって、「優生思想」という言葉が改めて取り上げられるようになりました。
優生思想とは、自分の勝手なものさしによって、人を一方的に「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する思想です。言い換えますと、《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》という考え方です(藤井克徳氏『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』、合同出版、2018年、3頁)。やまゆり園事件はこの優生思想と深い関連があることが指摘されてきました。
聖書は、私たち一人ひとりの存在が、神さまの目から見てかけがえのないものであり、決して失われてはならないものであることをこそ語っています。優生思想は聖書が語るメッセージとは正反対の思想であり、決して容認することができないものです。
この事件によって深く傷つき、いまも悲しみの中にある方々の上に神さまの慰めとお支えを祈ると共に、このような大変痛ましい事件が私たちの社会で二度と繰り返されることのないよう願うものです。
私たちの目の中にある丸太
優生思想のように極端なものにはならなくても、他者を自分より低く見てしまう優越感は、私たちは誰しもが抱くことがあるものです。優越感と優生思想はまったく異なるものですが、どこかで地続きにつながっているものであるとも言えます。また先ほど述べたように、私たちは気が付くと、他者の人格に一方的にレッテルを貼り付けてしまっているものです。私たちはそれぞれ、優生思想になり得る小さな種のようなものは、誰しもが心のどこかに持っているのではないでしょうか。その意味でも、私たちは日々、自分自身の心の状態をよく見つめる必要があるでしょう。私たちは気が付くと、「目の中に丸太」が入った状態になってしまうものだからです。
神さまの目から見て、一人ひとりの存在はかけがえなく貴い
イエス・キリストはさまざまなたとえ話を通して、私たちの目から見てではなく、神さまの目から見て、この世界がどう見えているかを私たちに伝えてくださっています。
イエスさまが私たちに伝えてくれていること、それは、神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いものである、ということです。神さまのまなざしのもとでは、優れた人も劣った人もありません。一人ひとりが、大切な存在であるのです。
旧約聖書(ヘブライ語聖書)のイザヤ書43章4節には、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります。神さまの目から見て、旧約聖書の主人公であるイスラエルの民がいかにかけがえのない存在であるかが語られている言葉です。かつてイスラエルに向けて語られたこの言葉は、いまイエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられているのだと受け止めています。
神さまの目から見て、私もあなたも、「かけがえのない=替わりがきかない」存在であるということ。だからこそ、一人ひとりの存在は大切なのであり、決して不当に扱われたり、軽んじられることがあってはならないのです。
私たちの目からすると、たとえ自分自身が「いなくてもいい」存在と思えたとしても、神さまの目からすると、決してそうではありません。ここにいる一人ひとりが、神さまの目に大切な、「いなくてはならない」、かけがえのない存在です。
私たちが自分の勝手な「ものさし」を取り除くとき、その人の本来の輝きが見えるようになってくるのでしょう。神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いという真理を踏まえてはじめて、私たちは他者に対するまっとうな批判も出来るようになってゆくのではないでしょうか。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」
私たちはいかにしたら、自身の目の中にある丸太を取り除き、人を裁かずに生きてゆくことができるでしょうか。イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、互いを大切にして生きてゆけるでしょうか。本日の聖書箇所において、イエスさまはこう続けられます。
《求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。/だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる》(7、8節)。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」――こちらも有名なイエス・キリストの言葉ですね。様々な受け止め方ができる言葉でありますが、本日は「このような生き方がしたい」と私たちが祈り求めることに対しての言葉としてご一緒に受け止めてみたいと思います。人を裁かずに生きてゆきたい。人を大切にして生きてゆきたい。神を愛し、隣人を愛する生き方をしてゆきたい。私たちがより良い生き方を求めて、それを神さまに願い求める時、神さまは必ずそれに応えてくださるのだ、と。
門をたたくのは私たち自身
心に留めたいことは、門をたたくのは私たち自身であるということです。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」――。「このような生き方がしたい」を私たちが願わなくては、そう決意して門をたかなくては、門は開かれません。どう生きるかは、私たち一人ひとりの自由な意思決定に委ねられているからです。
イエスさまは扉のすぐ後ろで、待っておられます。私たちが扉をたたくのをずっと待っておられます。門を叩くのは、私たち自身です。門を叩くことさえできれば、よいのです。するとその瞬間、扉は開かれます。あとは、神さまが私たちにとって最も良きものを与えてくださるでしょう。イエスさまが必ず、私たちを支え、導いてくださるでしょう。私たちがより良い生き方をしてゆくことができるように。イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にして生きてゆくことができるように、必ずサポートし、手助けしてくださるでしょう。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
最後に、「だから……」とイエスさまは続けられます。《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(12節)。
この言葉は、伝統的に、「黄金律(the golden rule)」と呼ばれるものです。黄金律とは、時代を超え国境を超えて、万人に通用するルールのことを言います。人にしてもらいたいことを人にもすることの重要性、それは確かに万人に通用する事柄ですね。人にしてもらって嬉しいと思うことを人にもする、そのような生き方をしなさい。ここでも私たちの生き方が問われていることが分かります。
「人にしてもらって嬉しいこと」はたくさんありますが、そこには共通点があるように思います。それは、自分という存在が人から大切にされたとき、私たちは喜びを感じるという点です。相手が自分のことを大切にしてくれている、そう感じることができたとき、私たちは心から嬉しく思います。
この黄金律は、イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にして生きてゆくことの大切さを教えてくれているものとして受け止めることができるでしょう。
私たちが人を裁かずに生きてゆくことができますように。イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、互いを大切にして生きてゆけますように。神を愛し、隣人を愛し、そして自分自身を愛する生き方をしてゆけますように――。私たち一人ひとりが、日々新たな決意と願いをもって、神さまに祈り続けることができますように願います。