2025年7月6日「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」
2025年7月6日 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編14編1-7節、マタイによる福音書5章21-37節、コリントの信徒への手紙二8章1-15節
創立記念礼拝
連日、全国的に厳しい暑さが続いています。皆さんもどうぞくれぐれも熱中症にはお気を付けください。礼拝中も、必要に応じて水分を取っていただいて大丈夫ですので、どうぞご無理はなさらず、各自体調管理を宜しくお願いいたします。
一昨日の7月4日、熊本豪雨(2020年)から5年を迎えました。また、昨日7月5日、九州北部豪雨(2017年)から8年を迎えました。本日7月6日は西日本豪雨(2018年)から7年の日です。この10年ほど、毎年のように7月初旬から8月にかけて記録的な豪雨が発生しています。2023年7月14~16日には、秋田県でも豪雨災害が発生しました。豪雨によって被災された方々、いまも困難の中にある方々の上に神さまのお支えを祈ると共に、私たちも引き続き、防災への備えをしてゆきたいと思います。
本日は花巻教会の創立を記念して礼拝をおささげしています。花巻教会が創立されたのは1908年7月21日です。今年で創立117年になります。これまでの教会の歩みが、神さまと多くの方々によって支えられましたことを感謝するとともに、これからの歩みのために、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。
《主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた》
先ほどお読みしましたコリントの信徒への手紙二8章1-15節の中に、次の言葉がありました。9節《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》。
パウロという人がコリントの教会の人々に宛てて書いた手紙の中の一節です。まず、「あなたがたはイエス・キリストの恵みを知っている」と語られ、その恵みによって「私たちが豊かになった」こと、そしてその分、「イエス・キリストご自身は貧しくなられた」ことが語られています。
これは一体どのようなことを述べているのでしょうか。ここでの豊かさ、貧しさは経済的な豊かさ、貧しさを言っているのではありません。ここでの豊かさとは、イエス・キリストの恵みによって与えられる豊かさのことが言われています。
考えてみると、不思議な表現ですね。私たちは、キリストの恵みは限りないもの、無尽蔵なものであるとのイメージを心のどこかで持っているのではないでしょうか。そのイメージは間違いではないでしょう。ただし、ここの豊かさは、与えた分、無くなってしまうものとして語られています。私たちが豊かになるようにお与えになった分、イエス・キリストご自身は貧しくなってしまうものとして語られているのですね。
この不思議な表現の背景には、「神が人となった」というキリスト教固有の信仰があります。キリスト教は伝統的に、神が肉体をとって人間となられた、それがイエス・キリストであると受け止めてきました。神が人間となられたということは、言い換えますと、全地全能の神としての立場を自ら捨てられたことを意味しています。そうして、私たちとまったく同じ肉体をもった、一人の人間として生きることを選ばれた。その肉体は、私たちとまったく同じ、弱く傷つきやすい体であり、やがては生き物としての死を迎える有限な体です。《主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた》という先ほどの言葉は、第一にこの出来事を示しているのだと受け止めることができます。
もう一つ、この言葉が示しているのは、イエス・キリストのご生涯(生き方)についてです。福音書を読むと、イエスさまが生前、見返りを一切求めることなく、隣人のために生きようとされたことが分かります。ご自分の内にあるものをすべて、人々のために与え尽くそうとしてくださった。《主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた》という言葉は、第二に、このイエスさまのご生涯を指し示していると受け止めることができます。
そうしてご自身の内にあるものを与え尽くした末に、イエスさまは十字架の上でその生涯を終えられました。ご生涯の最期に、私たちのために、十字架上でその命をささげてくださったことを福音書は証しています。この十字架上の死が《主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた》から汲み取ることができる第三のことであり、福音書が最も大切なことの一つとして伝えている事柄です。いまお話したこの三つのことについては、メッセージの後半で改めてお話ししたいと思います。
与えるという行為には、失うことが伴う
与えるという行為には、同時に、失うことが伴います。私たちが自分の手元にあるものを誰かに与えるとき、私たち自身はそれを失うことになります。私たちがこの地上の生活で所有しているものにはみな、限りがあるからです。財産、時間、賜物……これらはみな限りがあるものです。
もし魔法のように財産や賜物や時間が無尽蔵に湧き出て来るのであれば、私たちはいくらでも惜しまずに与えることができるでしょう。けれども、現実はそうではありません。私たちの手元にあるものには限りがあります。ですので、私たちの心の内にはそれらを惜しむ気持ちも出てきます。と同時に、だからこそ、他者のために自らのものを与える姿は尊いのだと言えます。
アンパンマン
このこととの関連で、アンパンマンを思い起こした方もいらっしゃるかもしれません。現在、朝の連続テレビ小説でアンパンマンの作者やなせたかしさんご夫妻がモデルの『あんぱん』が放映されていますね。やなせさんご自身はキリスト教の信仰を持っているわけではありませんでしたが、アンパンマンにはイエス・キリストと通じるところがあるというのは、様々な方によって指摘されているところです。
皆さんもよくご存じの通り、アンパンマンは自分の顔を差し出して、お腹が空いている人に与えます。その分、アンパンマンの顔は無くなってゆき、自身の元気は失われてゆきます。それでも困っている人を前にすると、自分の顔を与えずにはおられない。アンパンマンにとって、《人が喜んだりアンパンを食べてみんなが「おいしい」と言ってくれるのが何より嬉しい》ことだからです(やなせたかし『わたしが正義について語るなら』、ポプラ新書、2013年、129頁)。
このアンパンマンの姿からも感じられることは、与えるという行為は、失うことを伴うということです。アンパンマンはまた工場でジャムおじさんに新しい顔を補充してもらえるのだとしても、その時に限って言えば、顔はどんどん減り続けています。そうして遂には、すっかり無くなってしまうこともあります。アンパンマンの顔は本来、無尽蔵に湧いて出てくるものではなく、限りあるものなので読者の胸を打つのでしょう。
絵本の『あんぱんまん』第1作が出版されたのは1973年です。スクリーンに映している絵本の表紙を見ていただくと、現在のアニメーションのアンパンマンと少し印象が異なることが分かります。現在のアニメのアンパンマンより人間に近い姿かたちをしていますね。また、本文中の絵では、アンパンマンが身に着けているこげ茶色のマントは、あちこちに継ぎはぎがある、ボロボロのものとして描かれています。
このアンパンマンが世に出る前に書かれた最初のアンパンマンは、自分の顔を食べさせるのではなく、あんパンを配るおじさんだったそうです。やなせたかしさんは著書『わたしが正義について語るなら』で、この最初のアンパンマンについて、次のように語られています。《このアンパンマンは、自分の顔を食べさせるのではなくて、あんパンを配るおじさんだったんです。自分でパンを焼いているから、マントには焼けこげがある。太っているし、顔もあんまりハンサムじゃありません。非常に格好の悪い正義の味方を書こうと思ったのです。正義の味方は自分の生活を守ってくれる人ではないかと思っていた。子どもから見れば、おなかをすかして泣いている時に助けてくれる、地味な正義の味方を書きたかったんです》(同、92、93頁)。
またこの本で、やなせさんは《餓えた子どもを助けることが一番大事》だと述べています。そしてそれは、やなせさんが戦争を体験して一番感じたことでした(同、16~19頁)。朝のドラマでも描かれているように、アンパンマンの誕生の背景には、やなせさんの戦争体験があることが分かります。
私たちが限りあるものを分け合うことによって、限りのない神さまの愛が現れる
改めて、コリントの信徒への手紙二8章9節の言葉をお読みいたします。《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》。
イエスさまは神の子であるにも関わらず、私たちと同じ人間としてお生まれになりました。また、イエスさまはこの地上で生きておられたとき、ご自分の内にあるものを人々のために与え尽くそうとしてくださいました。
イエスさまがその存在を通して、そのご生涯を通して、私たちに伝えてくださっている姿勢、それは、限りあるものを、共に分かち合ってゆく姿勢です。限りあるものであるからこそ、私たちはそれを共に分かち合ってゆくことができます。
パンを裂いて分け合うと、確かに自分の取り分は少なくなってゆきます。けれどもその分、目には見えない恵みが豊かに増し加えられてゆきます。それは、神さまの愛です。
この神さまの愛は、限りのあるものではありません。神さまの愛は私たちの目には見えませんが、いつまでも永続するものです。私たちが限りあるものを分け合うことによって、限りのない神さまの愛が現れる――本日はそのことをご一緒に受け止めたいと思います。
ですので、与えることは、ただ自己犠牲を意味するものではありません。私たちが自分の手元にあるものを分け合おうとするとき、そこに神さまの愛が、豊かさが満ち溢れてゆくからです。
イエス・キリストの恵み ~イエスさまはご自身の体をパンとして
もう一つ、本日ご一緒に受け止めたいことは、イエスさまがそのご生涯の最期に、ご自身の存在そのものを一つのパンとして、私たちに与えてくださったことです。イエスさまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、飢え渇く私たちのために、ご自身の命をささげてくださいました。十字架の上で、ご自身の体をパンとして、私たちに分け与えてくださいました。そのことを通して、限りのない神さまの愛がこの世界に現わされました。最後の晩餐の席で、イエスさまがあらかじめお語りになった通りです。《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」》(マタイによる福音書26章26節)。
このイエス・キリストの恵みはいまも、私たちを、この世界を包んでいます。私たちはいまも、この恵みに生かされ、満たされ、育まれ続けています。聖書はこのイエス・キリストの恵みの業(救いの出来事)を私たちに語っており、私たちはこの恵みを知っています。
本日はご一緒に、創立記念礼拝をおささげしています。私たち花巻教会は決して大きな教会ではありません。私たちの内にあるものは、私たちの目から見ると、まことに小さなものに見えるかもしれません。しかし、私たちの手の中にあるものを、共に分かち合うようにと、イエスさまは招いておられます。この小さなものを共に分かち合うことで、大いなる神さまの愛が私たちの間に現わされてゆくからです。
どうぞ私たちが共に分かち合い、共に生きてゆくことができますように。その私たちの働きを通して、この地上に神さまの愛が現わされてゆきますように。そのために、これからも一人ひとりが豊かに用いられてゆきますようにと願っています。