2025年8月17日「神の国の福音の宣教」
2025年8月17日 花巻教会 主日礼拝説教
12使徒
イエス・キリストに12人の弟子たちがいたことは、良く知られている通りです。12弟子あるいは、12使徒とも呼ばれます。本日の聖書箇所には、その12使徒の名前が紹介されていました。《まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、/フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、/熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである》(マタイによる福音書10章2-4節)。
スクリーンに映しているのは、以前私が教材のために描いた12使徒のイラストです。もちろん顔は想像で、私の勝手なイメージで(!)描いています。
イエス・キリストの弟子はこの12人使徒だけだったかと言うと、そうではありません。神の国の福音を伝える旅にはたくさんの人が同行していました。ルカによる福音書には、この12使徒と共に、マグダラのマリアをはじめ、多くの女性の弟子たちがイエスさまの旅に同行していたことが記されています。女性たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していたそうです(ルカによる福音書8章1-3節)。
そのように、たくさんの人がイエスさまの旅に同行していたわけですが、その中に、イエスさまから直接、特別な委託を受けた12人がいたのですね。そのご委託とは、人々に「神の国が近づいている」ことを宣べ伝えることでした。そのために、イエスさまは彼らにご自分と同じように《汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす》(マタイによる福音書10章1節)権能をお授けになりました。そしておっしゃいました、《イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。/行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。…》(同6、7節)。
「使徒」という言葉は、原語のギリシア語では、「使命をもって遣わされた者」の意味を持っています。その原意の通り、イエスさまからご委託を受けて、使命をもって派遣された者が使徒であるのですね。イエスさまから委託を受け、派遣される、この二つがセットになっているのが使徒の働きであることが分かります。
12という数 ~「イスラエル12部族」の象徴として
なぜ使徒の数が12人なのでしょうか。ここにも、大切な意味があるようです。イエスさまは「イスラエル12部族」を象徴するものとして、12人の使徒を選ばれたと考えられています。旧約聖書(ヘブライ語聖書)には、イスラエル民族は12部族で成り立っていたことが記されていますね。イエスさまはそのイスラエル12部族を象徴するものとして、12人を選ばれたのです。
注目したいのは、本日の箇所でイエスさまはそのイスラエル民族のことを《イスラエルの家の失われた羊》(6節)とお呼びになっていることです。飼い主を見失い、迷子になってしまった羊ですね。本日の聖書箇所の冒頭には、イエスさまが《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》(9章36節)とも記されています。神によって選ばれたはずのイスラエル民族はいまや、飼い主のいない羊のように弱り果てている。打ちひしがれている。そこでイエスさまはイスラエルを象徴する者として12人を選び、「新しい世界」の到来を告げ知らせるべく派遣をされたのです。
前述の一文を岩波訳聖書は《さて、彼は群衆を見て、彼らのことで腸のちぎれる想いに駆られた》と訳しています。イエスさまの憐れみとは、上から目線の憐憫ではなく、はらわたがちぎれる想いでの、痛みの共有であることが表されています。
神の国
改めて、イエスさまが宣べ伝え、弟子たちにもそれが「近づいている」と宣べ伝えるように命じた神の国とは、どのようなものであったのでしょうか。
神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、神の願い、またそして、神の愛が満ち満ちている場が、神の国です。マタイ福音書では「天の国」と表記されることが多いですが、意味としては同じです。
イエスさまの公の活動は、《悔い改めよ、天の国は近づいた》(4章17節)という呼びかけから始まりました。本日の聖書箇所では使徒たちに《行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい》(10章7節)とお語りになっています。この言葉からも分かりますように、神の国は私たちが「行く」ものではなく、私たちのもとに「来る」ものであることが分かります。いままさに神の国は近づいて来ている、地上に到来しようとしている。だから心の向きを変え、いま、神の国を受け入れなさい――イエスさまはそのように人々に宣べ伝えられました。
神の国はどのようなところか。それを目に見えるかたちで現わしているのが、悪霊の追い出し、病いの癒やしの出来事です。これらの奇跡的な出来事を読むととたんにファンタジーのように感じられる方もいらっしゃるかもしれません。悪霊に憑りつかれた(とされた)人と病いを持っていた人の共通項として、これらの人々が当時、共同体から差別され疎外されていたということがあります。社会から疎外され見えなくされていた人々、あたかも「いない」ようにされ、痛みを抱えながら生きていた人々をイエスさまは自らお探しになり、その人々に真っ先に神の国を宣べ伝えてくださった。この点をご一緒に大切なこととして受け止めてみたいと思います。
福音書には社会から疎外された存在として、様々な人々が登場します。「規定の病」を患う人(8章1-4節、聖書協会共同訳)、「異邦人」(8章5-13節)、病いを持つ人(8章14-17節)、悪霊に憑りつかれた人(8章28-34節)、中風の人(9章1-8節)、徴税人、「罪人」と呼ばれていた人々(9章9-13節)、目の見えない人(9章27-31節)、言葉を発することができない人(9章32-34節)……。先ほど、イエスさまがイスラエル民族を、飼い主を見失い、迷子になってしまった羊として形容したことをお話ししました。そのイスラエルの共同体の中で、さらに疎外され、見失われた状態に追いやられていたのが、いま挙げた人々でした。イエスさまは神の国の福音を宣べ伝える中で、それらの小さくされている人々を探し求め、その存在に真っ先に光を当ててくださいました。その神の国の到来を現す出来事が、悪霊の追放であり、病の癒やしでした。イエスさまは弟子たちにも同じ働きを託し、使徒として派遣してくださいました。
十全なる世界の在り方
私自身は最近、神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つの欠けもないこと」と「多様性がありつつ、一つであること」の意味を込めています。
神さまによって造られた一つひとつの存在が、そのものとして、一つも欠けることなく――過去、現在、未来を含め――共に存在している世界。一つひとつの存在が、極めて「良い」(創世記1章31節)ものとして祝福されている世界。そのように互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。この包摂的な世界の在り方を、私は「十全なる世界の在り方」と形容し、イエスさまが宣べ伝えた神の国についての、私なりの説明の仕方としています。
イエスさまは、この十全なる世界(=神の国)がすでに天にあるように、地上にも到来することを宣べ伝えてくださったのだと私は受け止めています。
私たち一人ひとりの存在が確保され、かけがえのないものとして尊重されるとき、そこに神の国は出現します。イエスさまと共に到来する神の国の光は、すべてをそのものとして包摂する光です。
神の国の福音
先ほど、イエスさまが社会からあたかも「いない」ようにされていた人々を自らお探しになり、その人々に真っ先に神の国を宣べ伝えてくださったことを述べました。このイエスさまのお姿に現わされているように、神の国の福音は、「存在していないかのようにされているものを、確かに存在しているものとする力」です。
この十全なる世界においては、神さまによって造られた一人ひとりの存在が決して「なかったこと」にされないことが、重要な命題となります。別の言い方をしますと、存在を「ない」ことにする力に対しては徹底して抗うことを意味しています。私たち一人ひとりの存在の「かけがえのなさ(尊厳)」を奪おうとする力を、イエスさまは「悪霊」や「サタン」の名で呼び、それを地上から追い出すことをご自分の務めとされました。
存在を「ない」ことにする悪しき力に抗って
私たちがいま生きる世界では、神の国の福音とは正反対の力が猛威をふるっています。それは、存在を「ない」ことにする力です。存在しているものを、あたかも「ない」ことにしようとする悪しき力が、私たちの近くに遠くに、働いてるように思います。
私たちの生命と尊厳を傷つけるこの悪しき力の最たるものが、戦争でありましょう。先週8月15日、私たちは敗戦から80年を迎えました。戦争がどれほどの惨禍をもたらすものであるか、私たちは過去の歴史に学び続けなければなりません。
またそして、思い起こさざるを得ないのは、パレスチナの人々のことです。パレスチナで、ガザ地区で現在も、存在を「ない」ことにする悪しき力が猛威を振るい続けています。パレスチナの人々の生命と尊厳を否定し、傷つけ続けています。イスラエルの一部の指導者たちは、聖書本来の教えから完全に逸脱しています。一刻も早くパレスチナの人々に対する虐殺を止めるよう強く求めます。
私たちはこの存在を「ない」ことにする力に対して、はっきりと「否」を突き付けてゆかねばなりません。この力は気が付くと私たちを取り込み、私たちをまどろみの中に入れようとします。私たちはこの力に取り込まれることなく、はっきりと目を覚ましていなければなりません。私たちにその力を与えてくれる源が、神の国の光、キリストの光です。
神の国の福音を宣べ伝えるために
私たち一人ひとりが、イエスさまから神の国の福音を宣べ伝えるよう招かれています。イエスさまは12使徒を任命する前に、次ようにおっしゃいました。
《そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。/だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」》(9章37、38節)。
神の国の福音を必要としている人は多いけれど、そのために働く人が少ない。この世界に無数の痛みに満ちているけれど、それらの痛みを癒すために働く人が少ない。だから、そのために働き手を送ってくださるように、神さまに願いなさい、と。
この言葉は、他ならぬあなたがその働き手であるのだ、というイエスさまのメッセージとして受け止め直すことができるでしょう。他の誰か、ではなく、他ならぬあなたを、わたしは必要としているのだ、と。
神の国の福音を宣べ伝えるために、一人ひとりの生命と尊厳がまことに尊重される社会のために、いま共にこの場から遣わされてゆきたいと思います。