2025年9月14日「神の国の希望」

2025914日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一153552

神の国の希望

 

 

 

讃美歌『球根の中には』 ~《いのちの終わりは いのちの始め》

 

『球根の中には』(『讃美歌21575番)という讃美歌があります。作詞・作曲はナタリー・スリース19301992年)という方で、1985年に発表された讃美歌です。皆さんの中にも愛唱賛美歌(大切にしている賛美歌)にしている方がいらっしゃることでしょう。私も大好きな曲です。メッセージの後、ご一緒に歌いたいと思います。ちなみに、『讃美歌21』発行10周年を記念して行われたアンケートでは、この『球根の中には』が他の曲を大きく引き離して、好きな讃美歌の1位に選ばれたとのことです(参照:日本基督教団讃美歌委員会編『こどもさんびか改訂版略解』、日本キリスト教団出版局、2015年、124頁)

 

 この曲は、ある友人の死をきっかけに、作者ナタリーさんが「死ぬことと生きること」「冬と春」そして「死と復活」等について思い巡らしている時に、別の友人から聞いたT.S.エリオットの詩の一節にインスピレーションを受けて生まれたそうです(参照:川端純四郎『さんびかものがたりⅤ 平和の道具と』、日本キリスト教団出版局、2011年、253頁)。それは、“In my end is my beginning(私の終わりは私のはじまり)”というフレーズでしたT.S.エリオットの連作詩『四つの四重奏』より)。この一節は、曲の中では3番の冒頭で引用されています(讃美歌では“In our end is our beginning”に変更)。日本語訳では《いのちの終わりは いのちの始め》と訳されている部分です。

 

《いのちの終わりは いのちの始め》――この一節は、『球根の中には』のキーワードの一つと言えるでしょう。この大切なフレーズについては後でお話したいと思います。

 

 

 

《その日、その時を ただ神が知る》

 

一番の歌詞をご一緒に見てみましょう。《球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく。/寒い冬の中 春はめざめる。/その日、その時を ただ神が知る》(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』、日本キリスト教団出版局、1997年)

 

《球根の中には 花が秘められ…》という印象的なフレーズから始まります。私たちの目には、球根の中に秘められている花は見えません。しかし時が来れば、球根は芽を出し、花を咲かせます。

次に、《さなぎの中から いのちはばたく…》と歌詞は続きます。最近は木の枝や葉についたさなぎを見る機会が少なくなっているかもしれませんね。殻で身を包んださなぎは、まるで眠っているかのようです。このさなぎからチョウが出て来るなんて、考えてみれば不思議なことです。しかしやはり時が来れば、さなぎの中から美しいチョウが現れ、空に羽ばたいてゆきます。

 

では、いつ球根は芽を出し花を咲かせるのか。さなぎはチョウになるのか。寒い冬が終わり、待ちわびた春が来るのか。その日、その時を知っているのは、ただ神さまお一人なのだと讃美歌は謳います。《その日、その時を ただ神が知る》。

この最後のフレーズから、やはりこの曲が讃美歌であることが分かりますね。自然の不思議を歌うだけではなく、神への信仰に基づいて作られている曲であることが分かります。

私たちには、いつ球根が芽を出し花を咲かせるのか、さなぎがチョウになるのかは分かりません。でもその時はきっと、必ず、訪れる。神さまご自身が、その時を準備してくださっているからです。

 

 

 

約束 ~復活の命の約束

 

1番の《さなぎの中から いのちはばたく…》という部分は、原詞では「さなぎの中には約束が秘められ、チョウとなってやがて羽ばたく(in cocoons, a hidden promise; butterflies will soon be free!)」となっています。「約束(promise)」という言葉が含まれているのですね。作者のナタリーさん自身はこの曲に「約束の賛歌(Hymn of Promise)」というタイトルを付けていたそうです。賛美歌集によっては、そのタイトルで掲載されていることもあります(川端純四郎氏、前掲書、253頁)

 

では、その約束とは何でしょうか。その約束とは、「復活の命の約束」だと受け止めることができるでしょう。この約束とつながっているのが、この讃美歌のキーワードである《いのちの終わりは いのちの始め》です。このフレーズから始まる3番の歌詞をご一緒に読んでみましょう。

 

 

 

「いのちの始め」=復活

 

《いのちの終わりは いのちの始め。/おそれは信仰に、死は復活に、/ついに変えられる 永遠の朝。/その日、その時を ただ神が知る》。

 

《いのちの終わりは いのちの始め…》。こちらも考えてみれば不思議な表現ですね。私たちの命というのは、いつかは終わりを迎えます。どんな命も、いつかは終わりを迎える……これは私たちの力ではどうすることもできないことです。

「いのちの終わり」、すなわち死は、私たちにとって、とてつもなく重大な出来事です。大切なペットの命にも、いつかは終わりが来る。大切な家族や友だちの命にも、いつかは終わりが来る。さよならをしなくてはいけないときがくる。またそして、この私の命にも、終わりが来る――。

 

 この讃美歌は、その「いのちの終わり」が、同時に、「いのちの始め」であると謳っています。「終わり」は、「始まり」でもある。歌詞は次のように続きます。《おそれは信仰に、死は復活に、/ついに変えられる 永遠の朝。/その日、その時を ただ神が知る》。

「復活」という言葉が出て来ました。「いのちの始め」とはつまり、復活のことを言っているのだ、ということが分かります。

私たちはいつか生き物としての死、「いのちの終わり」を経験します。その「終わり」は私たちの心を悲しみや寂しさでいっぱいにします。しかしそれが、すべての「終わり」ではない。私たちはその「終わり」のただ中から、復活という新しい「いのちの始め」を経験してゆくのだ、と『球根の中には』は謳います。

 

 

 

「死は終わりではない」

 

「死は終わりではない」ということ――。これが、聖書が私たちに伝えている最も大切なメッセージの一つです。聖書は、イエス・キリストが十字架の死より三日目によみがえられたことを語っています。そのイエス・キリストに結ばれた私たち一人ひとりは、その復活の命にも結ばれていることを語っています。だから、死は終わりではないのだ、と。生き物としての死を迎えた後も、私たちはキリストの永遠の命の中を共に生き続けます。

 

私たちはいつ「いのちの終わり」を迎えるのか、そしていつ新しい「いのちの始め」を迎えるのか、それは、分かりません。《その日、その時を ただ神が知る》、ただ、神さまだけがご存知です。しかし、新しい始まりの時は、必ず訪れる。春が来て、球根が新しく芽を出し花を咲かせてゆくように。さなぎの中から新しく、チョウが羽ばたいてゆくように。いや、イエス・キリストにおいて、その新しい時はすでに芽生え始めているのだと受け止めることができるでしょう。『球根の中には』が伝える約束は、その復活の命の約束です。

 

 

 

約束 ~「きっとまた会える」

 

 この美しい讃美歌が発表されると、すぐに会衆賛美歌に取り入れられ、アメリカ、カナダの各地で歌われるようになりました。しかしその時、ナタリーさんの夫で、牧師であったロナウドさんは癌で闘病中で、余命僅かの状態であったそうです。ロナウドさんはこの歌をとても喜んで、自分の葬儀で歌ってほしいと言い残したとのことです(川端純四郎氏、前掲書、253頁)

 

ナタリーさん自身がつけたこの曲のタイトルは「約束の賛歌(Hymn of Promise)」であったと先ほど述べました。その約束とは、復活の命の約束でした。またそれは、イエス・キリストの復活の命に結ばれた自分たちは、神さまのもとで「きっとまた会える」ことの約束でもあったのかもしれません。私たち一人ひとりに、この約束が与えられていることを、本日は共に心に留めたいと思います。

 

 

 

私たちには知り得ない「神秘(ミステリー)」

 

 本日の聖書箇所コリントの信徒への手紙一153552節も、この復活の命の約束について語っている箇所です。51節以下をお読みします。《わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。/最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます5152節)

 

「最後のラッパが鳴る」という独特な表現が出てきましたが、このラッパが鳴る時というのが、約束の〈時〉が訪れたことの合図です。すなわち、復活の命の約束が果たされる時の合図です。手紙の著者パウロは、《ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます》と語ります。新しい始まりの時がどのようなものであるのか、それはパウロ自身、象徴的に語るにとどめ、具体的に語ることはしていません。なぜならそれは、私たち人間には知り得ない「神秘(ミステリー)」であるからです。それはただ、神だけがご存知のことです。しかし、その〈時〉は必ず訪れることを、パウロは力強く宣言しています。

 

『球根の中には』の歌詞を読みますと(特に原文の英語で読みますと)、作者のナタリーさんはこのコリントの信徒への手紙一155152節(および54節)を踏まえて歌詞を書いていることが分かります。

 

 

 

《いのちの終わりは いのちの始め》であることの希望 ~『わたしは よろこんで 歳をとりたい』より

 

 イェルク・ツィンクさんというドイツの神学者が93歳の時に出版された『わたしは よろこんで 歳をとりたい』という本があります(眞壁伍郎訳、こぐま社、2018年)2019年のキリスト教書店大賞を受賞した本でもあります。様々な経験や長い年月を経た上でのツィンクさんの率直な想いと祈りとが綴られると共に、やはりこの本でも《いのちの終わりは いのちの始め》であることの希望が語られています。いのちの終わりが近づくにつれ、不思議とますます、新しい何かが自分の内に始まろうとしているのを感じる、と。

最後に、この本の文章を一部引用して、本日のメッセージを閉じたいと思います。

 

《こうした思いは しかし わたしがおとろえ

消えてゆくのを よしとしているわけではない

歳をとればとるほど その流れに逆らう何かがある

というのは わたしたちの何もかもが 老いてゆくのではなく

人生の終わりに近づくにつれて

新しい何かが わたしたちのうちに始まろうとするからだ

 

昔から多くのひとはこういっている

何か大きな不思議なことが あなたのなかで始まるよ と

まるで 一人の子どもが あなたから生まれ

人生の終わりをこえてつづく

いのちになるよ とでもいうように

そしてそれは あなたの魂のなかから 始まる とも

 

キリストの福音はそれを 新しいひと とよんだ》(同、36頁)