2025年9月21日「小さな者を一人でも軽んじないように」
2025年9月21日 花巻教会 主日礼拝説教
「違いありつつ、ひとつ」
昨年11月、『違いがありつつ、ひとつ――試論「十全のイエス・キリスト」へ』(ヨベル)という本を出版しました。タイトルにありますように、新約聖書の四福音書が体現する「違いがありつつ、ひとつ」である在り方に焦点を当てた論文です。第一部では四つの福音書を取り上げ、第二部では聖餐論(特に現代の聖餐論議)を取り上げています。
ここで述べています「違いがありつつ、ひとつ」である在り方は、違いを「排して」ひとつになるのではなく、違いを「通して」ひとつになる在り方のことを指しています。違いははっきりとありつつ、ひとつに結び合わされている在り方です。
先ほど、四福音書が「違いがありつつ、ひとつ」である在り方を体現していると申しました。四つの福音書――マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書にはそれぞれ違いがあります。それぞれに固有性があり、同じ場面を記述しても、視点がまったく異なっていることがあります。そのように違いがありつつ、四つの福音書はイエス・キリストにおいて、一つに結び合わされています。拙著ではこの一致の在り方を私なりに論じています。
それは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)・新約聖書全体も同様です。聖書そのものが、多様性がありつつ、一つである在り方を体現していると私は受け止めています。聖書は、多様な信仰理解を包摂している書です。同じ聖書の中でも、様々な信仰理解が共存しているのですね。そしてそれら多様な信仰理解が互いに作用し合い、補い合っています。拙著ではそれを、「相互補完性」と表現しています。かけがえのなさを持った存在として在りつつ、互いに補い合い、活かし合っているという関係性です。
私たちが依拠しています聖書自体がそのように多様な信仰理解を包摂している書ですので、キリスト教の中に多様な信仰理解があるのは当然であり、自然なことです。私たちキリスト教会が目指すべきは、違いを排して一つとなることではなく、違いを通して一つとなること――違いがある者同士が、互いに補い合うことを通して、一致してゆく方向なのではないでしょうか。
コリント教会内の対立 ~信仰理解の相違の問題
メッセージの冒頭で、新約聖書コリントの信徒への手紙一1章10-17節をお読みしました。コリントは現在のギリシャの南部に位置する都市の名前です。手紙の著者はパウロ。このコリントの信徒への手紙からは、当時の教会において党派争いのようなものが生じてしまっていたことが読み取れます。ある人々は「パウロにつく」と言い、ある人々は「ケファ(ペトロのことです)につく」といい、またある人々は別の指導者であった「アポロにつく」と主張していたようです。あるいは、「そもそも上に立つ指導者などいらない。自分たちはキリストのみにつく」と主張する人もいたのかもしれません。誰を正当な指導者とするか・しないかを巡って、教会内で対立が生じてしまっていたのですね。
1章11-12節《わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。/あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです》。
コリントの教会の内に争いが生じた要因の一つには、誰から洗礼(バプテスマ)を受けたかを過度に重視していたことがあったようです。自分に洗礼を授けてくれた指導者に特別な思い入れを持つ、というのは誰しもが抱く感情かも知れませんが、それが党派争いの要因になってしまうのは問題ですね。ただし、私の解釈では、その問題よりも、より根本的な問題があったのではないかと考えています。それは、信仰理解の相違の問題です。教会のメンバー間にそもそも信仰理解の相違があり、そのことによって互いの間に緊張関係が生じてしまったのではないかと受け止めています。
対立と分断の歴史 ~信仰が関わるからこそ
単なる党派争いではなく、信仰が関わる事柄であるからこそ、私たちはどうしても真剣になり、互いにゆずれない部分が出てきてしまうものです。信仰が関わっているので、自分こそが「正しい」としてそれぞれゆずることができず、対立が激しくなることが起こり得ます。他ならぬ信仰が関わっているので、同じクリスチャン同士でも、いや同じクリスチャン同士だからこそ、対話が難しくなるということがあるのではないでしょうか。
キリスト教とは「イエス・キリストを救い主として信じる」という共通の信仰を持っています。一方で、その内実には、様々な相違があります。同じキリストを信じる信仰をもっていても、どのような側面を強調するかについては、人によって、また教派や教会によって違いがあるのですね。キリストの十字架の贖いの側面を強調するのか、復活の命を強調するのか、それとも隣人愛を貫いた生前のイエスの生き方に強調点を置くのか……など。多様な信じ方があることが、キリスト教信仰の特徴の一つであると言えるでしょう。
多様性があることは、本来、素晴らしいことであり、恵みとして捉えるべきことですね。しかし、そのように多様性がある中で、自分たちの拠って立つ信仰理解のみが「正しい」ものとしてしまうとき、とたんに緊張関係が生じてゆくこととなります。そうして、やがて対立と分断が生じてゆくことになります。事実、現在に至るまでのキリスト教の歴史は、その対立と分断の歴史であったとも言えるでしょう。カトリックとプロテスタントの分断。またプロテスタントの教会同士の分断。私たちキリスト教会はこれまで、幾多の対立と分裂を繰り返してきました。そしてその教会内の対立は、パウロが生きていた当時からすでに始まっていたことが分かります。
体のたとえ ~《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》
これらの対立と分断の歴史を鑑みるとき、違いがあるから悪いのだ、違いがあることが対立と分断の要因だ、と感じられるかもしれません。けれども、よくよく考えてみると、違いあるから対立が生じているのではなく、違いを受け入れることができないから、対立が生じているのだと言えます。
パウロ自身は、違いがあること自体は、肯定的なこととして受け止めていました。否定すべきことではなく、むしろとても大切なこととして受け止めていたのです。パウロは、私たちはそれぞれ、神さまから違った「賜物(カリスマ)」が与えられていると考えていました。それぞれが神さまから固有の働きや役割を与えられているからこそ、教会には多様性があるのだというのがパウロの基本的な考えでした。
パウロはそのことを、人間の体でたとえています。キリストに結ばれた、「一つの体」です(コリントの信徒への手紙一12章12-31節)。《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》(27節)。パウロがなぜ体のたとえを用いたのかと言うと、私なりの表現で言うと「違いがありつつ、一つ」である在り方を伝えたかったからではないでしょうか。体には手足があり、目があり、耳があり、内臓があり……多くの部分があります。それらの部分は、それぞれに固有の役割を果たしつつ、一つに結び合わされています。各部分が固有の役割を果たしつつ、互いに働きを補い合っているように、私たちもまた、相互に補完し合う関係性にある。それぞれの固有の働きを生かして、協働し合う関係性にある。「違いがありつつ、一つ」である在り方が、まことの教会の姿であるとパウロは信じていました。そのように、私たち一人ひとりには、神さま(聖霊)からかけがえのない役割が与えているのだ、と。聖霊による役割分担です。
聖霊による役割分担 ~信仰理解の相違においても
ただし、パウロはこの役割分担を、あくまで同じ信仰理解を持つ人々との間に限定して語っています。異なる信仰理解を持つ人々(論敵)との間にも役割分担があるのだとは語っていません。そもそも、パウロの内には、異なる信仰理解を持つ人々との間にも何らかの役割分担があるのだという視点はいまだ存在していませんでした。パウロは異なる信仰理解を持つ人々に対しては、「それは誤まり」だとして厳しく対峙する姿勢を貫きました。すなわち、全否定する姿勢を貫いたのです。
このパウロをはじめとする初代のキリスト者たちの「厳しさ」があったからこそ、キリスト教はキリスト教として生まれ出ることができたのだと言えます。パウロの信仰理解は、キリスト教がキリスト教であることの根幹を形づくって来たと言えるでしょう。そのことに深い感謝をささげつつ、いまを生きる私たちは、この役割分担を、信仰理解の相違においても見出してゆくことが求められているのではないでしょうか。私たちの信仰理解の相違自体にも、聖霊による役割分担があるのだ、と。ある一つの信仰理解だけが「正しい」のではなく、様々な信仰理解が、同じキリストの体の中で相互に補完し合っていることを本日はご一緒に心に留めたいと思います。
弱さの大切な役割
本日はもう一点、パウロの手紙の中から汲み取りたいことがあります。それは、弱さの大切な役割です。私たちが「違いがありつつ、一つである」ために、大切な役割を果たすのは「弱さ」であるとパウロは述べています。《体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです》(12章22節)。弱さは「要らない」ものではなく、私たちにとって、なくてはならない役割を果たしてくれているものである。なぜなら、私たちの目に弱く見える部分があることで、私たちは互いに配慮し合い、支え合うことを学んでゆくからです。《それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています》(同25節)。
《小さな者を一人でも軽んじないように》
礼拝の中で「迷い出た羊」のたとえ(マタイによる福音書18章10-14節)を読んでいただきました。100匹いた羊の内、一匹が迷子になり、99匹を残してその一匹を探しに行くというよく知られたたとえ話です。その冒頭に、《これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい》(マタイによる福音書18章10節)という言葉がありました。私たちはつい数の多い方に関心を向けてしまうものです。しかしイエスさまは私たちのまなざしを迷い出た一匹の羊に向けるよう促されます。そうして、小さくされている人を誰一人軽んじてはならないとおっしゃっています。
先ほどの体のたとえで言いますと、イエスさまは体の中の弱い部分に私たちが心を向けるよう促しておられるのだと受け止めることができるでしょう。弱さがあるからこそ、私たちの体は分裂が起こらず、互いに配慮をし合うことができます。
私たち一人ひとりが、その弱さを持っています。「小さな者」「弱い部分」とは、他ならぬこの私だと受け止めることができるでしょう。パウロも弱さについて語る時、自分自身が、その弱さを持つ人間であると受け止めていました(コリントの信徒への手紙二12章7-10節)。
十字架にはりつけにされたキリスト ~体の中の最も弱い部分として
またそして、パウロの手紙を読んで汲み取れること、それは、キリストの体の中で最も「弱い」部分は、十字架のキリストご自身であるとパウロが受け止めていたのではないかということです。このことは手紙の中に言葉として記されているわけではありませんが、そう読み取ることが可能であるでしょう。体の中の最も弱い部分として、「十字架につけられたままのキリスト」(コリントの信徒への手紙一1章23節、青野太潮氏訳)がおられる。最も無力な存在として、最も「小さな者」として、いまも十字架にはりつけになっておられる――。これが、パウロ固有の信仰理解です。だから、私たちキリストの体には分裂が起こらず、互いに支え合うことを学び続けてゆくことができます。
十字架のキリストと「弱さ」を大切にするパウロのこの信仰理解は、聖書の中に含まれる多様な信仰理解の一つです。このパウロの信仰理解だけが、唯一の信仰理解なのではありません。と同時に、パウロのこの信仰理解は、かけがえのない信仰理解であり、キリスト教がキリスト教であることの根幹を形づくって来たものです。
十字架のキリストに心を向ける中で、そうして弱さを互いに受け止める中で、私たちの間には共に生きる道が切り開かれてゆきます。その道は、《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ》(同12章26節)道です。私たちはいますでに、違いがありつつ、一つの体に結ばれています。苦しみも喜びも共に分かち合い、支えながら、この道をこれからもご一緒に歩んでゆけますよう願います。