2025年9月7日「神の国のたとえ」

202597日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書132443

神の国のたとえ

 

 

 

831日にアフガニスタン東部での地震が発生、甚大なる被害が生じています。95日の時点で、2200人以上の方々が亡くなっています。どうぞ被災した方々の上に神さまのお支えがありますように、必要な支援が一刻も早くなされますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

イエス・キリストの言葉 ~「人を裁いてはならない」

 

7月の礼拝の中で、ご一緒に「人を裁いてはならない」というイエス・キリストの言葉をお読みしました2025720日礼拝メッセージ)。よく知られたイエス・キリストの言葉の一つですね。マタイによる福音書715節《「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。/あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。/あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。/兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。/偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる》。

 

 ここでは、「目の中にある丸太」という面白い表現も出て来ますね。私たちは他人の目にある《おが屑》=他人の「些細な過ちや欠点」はよく見えるのに、自分の目の中にある《丸太》=「大きな過ち」には気づかない、ということが言われています。

 

日々の生活の中で、私たちは「人を裁いてしまう」という過ちを犯してしまうものです。ここでの「人を裁く」とは、自分の一方的なものさしによって人を判断することを指しています。「あの人はこうだ」「この人はああだ」と勝手に決めつけてしまうことですね。本当は相手のことをよく知らないのに、「あの人はこういう人だ」と決めつけてしまうということを、私たちはよくしてしまうのではないでしょうか。そうして一方的に相手を断罪していることがあるではないでしょうか。相手のことが本当はよく見えていないのに、勝手に「こうだ」と相手を評価している状態を、イエスさまは「目に丸太が入っている状態」と表現なさっています。

 

 

 

「人を裁くこと」=《人の人格にレッテルを貼ること》

 

 ここで心に留めておきたいことは、「人を裁いてはならない」という言葉は、「人を批判してはならない」と同じ意味ではないということです。私たちは「人を裁くこと」はすべきではありませんが、「人の過ちを率直に指摘すること」は、勇気をもってなすべき時があるでしょう。イエスさまご自身も「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」ともおっしゃっています(マタイによる福音書1815節)

 

イエスさまが「人を裁いてはならない」とおっしゃっているから、たとえば教会の中では、一切「人を批判してはならない」のだと思ってしまう場合があるかと思いますが、それは誤解であるのですね。教会の中であっても、もしも問題や課題があるならば、率直に指摘し共有し合うことが大切であると思います。

 

ある本では、「人を裁く」とは、《「あなたはこうだ、ああだ」と、人の人格にレッテルを貼ること》だと説明しています(ウィリアム・ウッド『改訂新版 教会がカルト化するとき』、いのちのことば社、2007年、89頁)。私たちが気を付けるべきことは、「あの人はこうだ」と相手の人格にレッテルを貼ることであることを心に留めたいと思います。

 

 

 

人にレッテルを貼ってしまうことの問題

 

 私たちの社会ではいま、互いの人格にレッテルを貼り合う傾向がより強まっているように思います。相手のことをよく知らないのに、属性だけで判断してしまう。あるいは、誰かから聞いた話やネットで得た知識などを鵜呑みにして、人を判断してしまっていることが多いのではないでしょうか。そうして様々なところで対立や分断が生じてしまっています。

 

 レッテルを貼ることがいかに問題であるかということは、自分がレッテルを貼られた場合のことを考えるとよく分かるのではないでしょうか。「あの人はああだから」と自分が勝手にレッテルを貼られたとしたら、私たちはとても辛い気持ちになるでしょう。人の人格にレッテルを貼ることが、いかに人の心を傷つけ、相手の尊厳を傷つけることであるのかが分かります。

 

 このようなレッテル貼りがエスカレートしてゆくと、やがて、「あの人(あの人たち)は危険な人」「価値が劣る人」と差別をしたり、「あの人(あの人たち)はいなくてもいい人」「いないほうがいい人」と、相手の人格や存在を否定する言動にまで至ってしまうこともあります。もちろん、このような言動は決して容認することはできないものです。

 

「優生思想」という言葉があります。自分の勝手なものさしによって、人を一方的に「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する思想です。20167月に起こった津久井やまゆり園事件(相模原障がい者施設殺傷事件)をきっかけに、私たちの社会において「優生思想」という言葉が改めて取り上げられるようになりました。

聖書は、私たち一人ひとりの存在が、神さまの目から見てかけがえのないものであり、決して失われてはならないものであることをこそ語っています。優生思想は聖書が語るメッセージとは正反対の思想であり、決して容認することができないものです。

 

一方で、優生思想のように極端なものにならなくても、他者を自分より低く見てしまう優越感は、誰しもが抱くものであるのではないでしょうか。優越感と優生思想はまったく異なるものですが、どこかで地続きにつながっているものであるとも言えます。私たちはそれぞれ、「優生思想」にもなり得る小さな芽のようなもの――他者を自分より低く見てしまう想い――は、誰しもが心に抱えながら生きているものだからです。自分こそは絶対に「正しい」とし、高みから他者に様々なレッテルを貼り付けて裁いてしまっている時、私たちは気が付くと神の位置に自分を置いてしまっているのかもしれません。

 

 

 

「毒麦」のたとえ ~優越感に対する警鐘として

 

 礼拝の中で、本日の聖書箇所であるマタイによる福音書132443節を読んでいただきました。その中に、イエス・キリストの「『毒麦』のたとえ」が記されていました。ある人が種を畑に蒔くと、毒麦も一緒に芽を出してしまった。僕(しもべ)たちが毒麦を抜こうとすると、その人は「毒麦を集めるときに一緒に麦まで抜いてしまうかもしれない。刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておきなさい」と伝えるというお話です。

「毒麦」と訳されている植物がどういうものなのかはっきりとは分かりませんが、麦の成長を妨げる雑草がイメージされているのでしょう(参照:田川健三『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』作品社、2008年、696頁)

 

 このたとえ話において、種を蒔いた「ある人」というのはイエス・キリストご自身を指しています(1337節参照)。畑は「世界」、種から芽を出した麦と毒麦は、「私たち自身」あるいは、「私たちが日々創り出している思考や想いの集合体」です。このたとえ話のポイントは、毒麦を抜こうとした僕たちを、主人が「止めた」ところです。僕たちが毒麦と一緒に他の麦も抜いてしまうかもしれないからです。つまり、私たちの目には、どれが毒麦で、どれがそうでないのか、はっきりと区別がつかないのです。最終的な判断をされるのは、神さまご自身であることが語られています。刈り入れの時、すなわち終わりの日(最後の審判の時)に、神さまご自身が判断をし、神さまの正義をはっきり示してくださるのだ、と。

 

 本日はこのたとえ話を、私たちが他者に勝手にレッテルを貼ってしまうことの危険性を述べているものとしてご一緒に受け止めてみたいと思います。言い換えますと、私たちがつい抱いてしまう優越感に対する警鐘として、です。もし私たちがそれぞれに優越感に駆られ、「あの人は毒麦」「この人は毒麦」と互いに勝手にレッテルを貼り合ってしまったら、恐ろしいことになりますね。「毒麦を抜く」とはつまり「相手の存在を否定する」ということであり、場合によっては、優生思想につながり得る考え方で、危険なことです。

 

宗教は、このような過激な思想に陥ってしまう危険性を常に持っていますので、注意が必要です。自分たち同じ信仰を持っていない人を一方的に「劣った存在」「価値のない存在」と見做してしまう危険性を内包しているのです。

 

 

 

イエス・キリストのメッセージ ~神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴い

 

 イエス・キリストはさまざまなたとえ話を通して、私たちの目から見て、ではなく、神さまの目から見て、この世界がどう見えているかを私たちに伝えてくださっています。

 

 イエスさまが私たちに伝えてくださっていること、それは、神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いものである、ということです。神さまは私たち一人ひとりを“あるがまま”に肯定し、「良し」としてくださっている。この神さまのまなざしのもとでは、「優れた者」も「劣った者」もありません。私たちの目から見た「優劣」や価値判断を超えて、神さまはいまこの瞬間、私たち一人ひとりを価高く貴い存在として愛してくださっています(イザヤ書434節)

 

 

 

神の国のたとえ ~喜ばしきひびきに満ち満ちた世界

 

本日の聖書箇所で、マタイによる福音書はこのような文章を記しています。3435節《イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。/それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」》イエスさまは様々なたとえを通して、《天地創造の時から隠されていたこと》を語られたのだと福音書は記します。

 

旧約聖書(ヘブライ語聖書)創世記は、天地創造のはじまりの時、神が造られたすべてのものを御覧になって、「極めて良かった」とおっしゃったことを記しています(創世記131節)。この「良い」という神さまの声こそ、天地創造のときから現在まで、この世界にひびき続けている基調低音であると私は受け止めています。

 

 

私たちすべての存在はこの「良い」という祝福の中で生まれ出ました。いまも、この祝福の声の内に包まれています。世界を貫く、この喜ばしきひびきを、「福音」と言いかえることもできるでしょう。私たち一人ひとりは、神さまの目から見て、極めて「良い」存在、かけがえなく貴い存在である、イエスさまはこの良き知らせを私たちに伝えてくださっています。そして、喜ばしきひびきに満ち満ちた世界を、イエスさまは「神の国」とお呼びになりました。本日のたとえ話も、この神の国について教えてくださるものでした。神の国がすでに天にあるように、イエスさまと共に、地上にも到来することをイエスさまは宣べ伝えてくださいました。この神の国においては、「優れた存在」も「劣った存在」もありません。一人ひとりが、世界にただ一人の、かけがえのない存在として尊ばれています。

私たちの「目の中の丸太」を取り除き、この神の国の福音に私たちの心を向けたいと思います。