説教紙面 今週のメッセージ

2017723日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書121521

「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」

 

 

 

マタイによる福音書121521節《イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、/御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。/それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。/

「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。/彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。/正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。/異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

 

 

多くの痛みを抱えながら生きる人々が

 

先週の礼拝では、安息日を巡って語られたイエス・キリストの言葉を読みました。主イエスは旧約聖書のホセア書の言葉を引用し、《もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう》とおっしゃいました(マタイによる福音書127節)。安息日の律法を遵守することより、「人の痛みが分かること」の方が大切だ、という主イエスのメッセージでした。律法を固く守ろうとすることより、人の痛みを分かろうとし、そこから行動を起こすことの方がより尊い、とおっしゃってくださったのです。

 

ファリサイ派の人々は主イエスの言葉を理解せず、どのようにして主イエスを殺そうかと相談しました。主イエスはそれを知って、そこを立ち去られた、というところから本日の聖書箇所は始まります。

 

1516節《イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、/御自分のことを言いふらさないようにと戒められた》。

 

立ち去る主イエスの後を、大勢の群衆が従いました。その中には、病いを抱えている人が多くいました。

 

病いを抱える人々は、当時、社会から不当な差別を受けていました。共同体の外に追いやられ、痛みを抱えながら生きていました。主イエスの後を懸命に追ったのは、そのように、多くの痛みを抱えながら生きる人々でした。病いを抱えている人々をはじめ、不当な差別を受けている人々、律法を守ることが出来ず「罪人」のレッテルを貼られている人々が、主イエスのもとに大勢集ってきたのです。

 

「この人なら、自分の痛みを分かってくれるのではないか」と直感的に感じたのかもしれません。長い間、痛みを抱えながら生きてきたからこそ、主イエスの言葉が心の奥深くに沁みわたって来たのかもしれません。

 

 

 

預言者イザヤを通して言われていたこと

 

主イエスは集ってきた人々の病いをいやし、その痛みをいやしてくださいました。そうして、ご自分のことを言いふらさないように戒められました。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった、とマタイによる福音書は記します。

 

1721節《それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。/

見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。/彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。/正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。/異邦人は彼の名に望みをかける。」》。

 

カッコで引用されている部分は、旧約聖書のイザヤ書4214節の言葉です。ここでの「僕」がもともとの文脈ではどのような存在であるのかははっきりと分かりませんが、マタイによる福音書はこの「僕」をはっきりとイエス・キリストご自身として捉えています。イエス・キリストを指し示す言葉として、このイザヤの預言の言葉を受け止めているのですね。

 

 

 

彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない

 

このイザヤ書の言葉の中に、印象的な言葉がありました。20節《彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない》。

 

「葦」というのは、植物の葦のことです。日本ではヨシとも呼ばれます。イネ科の多年草で、湿地帯に分布、日本でもなじみ深い植物です。

ちなみに、ここで「葦」と訳されているのは、葦とよく似たイネ科の「ダンチク」という植物であるようです。葦とは別の種類ではありますが、よく似ています。葦と同じく、水辺に分布し、数メートルもの細い茎を伸ばします。よって、葦と同じようなものとしてイメージしていただいてよいでしょう。パレスチナ地方では、茎の部分が杖として用いられることもあったようです(参照:『新共同訳聖書辞典』、キリスト新聞社、1112頁)

 

彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない》――ここでは《傷ついた葦》と言われています。傷ついて、今にも折れてしまいそうになっている葦ということでしょう。もう杖として使えることもできないような、傷ついた葦。そのような傷ついた葦は、通常であれば、いっそ折って捨てられてしまうかもしれません。しかし、主イエスはその傷ついた葦を折って捨てることはなさらない方である、と言われています。

 

 続いて《くすぶる灯心》という言葉も出て来ます。聖書の時代、ともし火としては主に土製のランプが用いられていたそうです。灯油はオリーブ油、灯心として亜麻の糸を用いていたと言われています(参照:『新共同訳聖書辞典』、キリスト新聞社、354頁)。火が今にも消えそうなともし火の芯。そのような灯心は、通常であれば、いっそ吹き消されてしまうかもしれません。けれども、主イエスはそのくすぶる灯心を吹き消すことはなさらない方だ、と言われています。

 

 

 

私たちの心もまた

 

《傷ついた葦》、《くすぶる灯心》という表現に何か切実なものを感じるのは、私たち自身の内に、そのような部分を感じるからかもしれません。

 

まるで自分は傷ついた葦――少しでも力を加えられると、心がもうポッキリ折れてしまいそう。私たちは日々の生活の中で、そのように感じてしまう瞬間があるのではないでしょうか。

また、まるで自分は、消え入りそうな灯心――風が吹くと、今にも火が消えてしまいそう。心の中が、いまにも真っ暗になってしまいそう。そのような心境になることもあります。そのような中、何とか辛うじて、立っている、何とか辛うじて自分を保っているのです。

 

いっそ、自分で折ってしまえば、いっそ自分で吹き消してしまえば楽になるだろうか……とも思ってしまう瞬間もあるでしょう。そのような衝動を抑え、今日も懸命に、一人ひとりが生きています。

 

本日の聖書箇所において主イエスのもとに集った大勢の人々も、そのような心境であったのかもしれない、と想像します。それぞれが切実なる想いで、主イエスのもとに向かっていったのではないでしょうか。

 

 

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」

 

 イザヤ書の言葉は、主イエスはそのような私たちの痛みを受け止めてくださる方であることを伝えています。主イエスは私たちの切実なる想いを受け止めてくださる方である。私たちの一縷の望みを、主イエスは決して折って捨てることはなさらない、決して、吹き消して真っ暗にすることはなさらない。

 

 それは、神さまの目から見ると、私たち一人ひとりが尊い存在であるからです。神さまの目にかけがえなく大切なあなたという存在が、決して失われることがあってはならないからです。

 

イザヤの預言の言葉は、次の神さまの言葉を伝えています。本日引用されている42章の次の章に記されている言葉です。イザヤ書434節《わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》。

 

主イエスはこの神さまの言葉を私たちに伝えてくださっています。主イエスが伝えてくださる言葉は、多くの痛みを抱えている心だからこそ、よく分かるという部分があるのではないでしょうか。傷ついた葦のように辛い心であるからこそ、くすんだ灯心のように暗い心であるからこそ、この言葉が光の言葉として感じられます。

 

 

 

主イエスご自身が《傷ついた葦》、《くすぐる灯心》となられ

 

聖書が語るもう一つのことは、主イエスご自身が、《傷ついた葦》、《くすぶる灯心》になってくださった、ということです。とりわけ、ご生涯の最期、その十字架の道行きにおいて、主イエスは多くの痛みを負ってくださいました。

 

何か天の高みから言葉を伝えるのではなく、私たちとまったく同じお姿になって、私たちと同じように地に這いつくばって叫びながら、そうして最期には十字架にはりつけにされながら、命の光の言葉を伝えてくださいました。

 

新約聖書のヘブライ人への手紙にはこのような言葉があります。ヘブライ人の手紙5710節《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。/キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。/そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、/神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです》。

 

主イエスは生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈ってくださった、と記されています。主イエスが十字架にはりつけにされる前夜の、ゲツセマネの祈りを思い起こさせる言葉です(マルコによる福音書143242節)。主イエスは多くの痛みをその身に負ってくださいました。いまにも折れそうな、辛い心を。望みが見当たらない、暗い心を。だから、私たちの痛みをご自分のこととして分かってくださるのです。

 

 

 

私たちの内にともされる命の光の言葉

 

主イエスは私たちと共に痛み、呻きながら、《わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》という神さまの言葉を語りかけてくださっています。この言葉は、ここに集った私たち一人ひとりの内にともされています。決して消えない、命の光の言葉として。

 

この言葉は、どんなことがあっても、決して消えてしまうことはありません。たとえ私たち自身が、すべてが真っ暗になってしまった、すべてが「終わってしまった」と思っても。それでもなお、この命の光の言葉は私たちの内にともされ続けています。

 

 どうぞいまご一緒に、この命の光の言葉に私たちの心を開きたいと思います。