説教紙面 今週のメッセージ

20181111日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:創世記18115

神はわたしに笑いをお与えになった

 

 

創世記18115節《主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。/目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、/言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。/水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。/何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」

その人たちは言った。/「では、お言葉どおりにしましょう。」/アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。/「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」/

アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。/アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。/

彼らはアブラハムに尋ねた。/「あなたの妻のサラはどこにいますか。」

「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、/彼らの一人が言った。

「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。/アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。/サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。/

主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。/主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」/サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 

 

 

「笑い」について

 

 皆さんはお笑い番組はお好きでしょうか。私は漫才やコントが好きで、よくYoutubeなどのインターネット動画サイトでも動画を観ています。緊張が続いた後などは、それら動画を観て、クスクス笑って、息抜きをしています。

 

私は生まれは京都、育ちは大阪で、実家ではよく家族みんなでお笑い番組を観ていたので、その影響も大きいかもしれません。私が大阪出身というと驚かれます。こう見えて一応(?)大阪人、関西人です。私と出会った方は、大阪人、関西人にもいろいろな人がいるんだなあ、ということを実感されると思います。私のように、あまりボケとツッコミをしない大阪の者もおります。

 

また、大阪弁が抜けてしまったことも影響しているのでしょう。大阪弁をしゃべる人はどこに行っても、何年経っても、大阪弁が取れないと言われます。しかし私は北海道での数年の生活の間に、大阪弁がかなり抜けてしまいました。よく言えば、それだけその地に順応していた、ということかもしれません。「何でやねん!」という言葉も、日常会話で久しく口にしていません。

 

現在、高校で週に一度聖書を教えています。生徒たちに、私が大阪出身だということ伝えると、「先生、関西弁でしゃべってください」と言われことがあるのですが、自分でもどのような発音がネイティブな発音なのか分からなくなってしまっていて、困ってしまう自分がいます。無理してしゃべると、たまにテレビで見かけるような、「偽物の関西弁をしゃべる人」のようになってしまいます。ネイティブな発音を回復させるには、地元で数カ月生活するなど、しばらくリハビリが必要かもしれません。

 

お笑い番組が好きという私の意外な(?)一面をお伝えしましたが、「笑う」ことは心身の健康にも良い、ということはよく言われていることですよね。笑うことはストレスの軽減になり、免疫力も高めると言われます。先ほど、私も緊張が続いた後にお笑い動画を観ているということをお話しました。私にとっても自分をリラックスさせる一つの方法となっています。

 

 

 

キリスト教と笑い

 

さて、「笑い」ということについて少しお話しました。キリスト教においては、どうでしょうか。キリスト教、というと、一般に生真面目なイメージがあるように思います。あまりキリスト教と笑いということは結びつかないと思う方も多くいらっしゃるかもしれません。

 

その名もズバリ、『キリスト教と笑い』という本があります(岩波新書、1992年)。宮田光雄という先生が書かれた本です。この本では、キリスト教は確かに真面目なイメージがあるけれども、聖書の中には様々なユーモラスな箇所がある、ということが言われています。そうして、「笑い」というものが、実は、聖書のメッセージの根本に関わる大切な事柄なのだと述べられています。

 

この本で重要な問いの一つとなっているのは、「イエスは笑ったか」という問いです。皆さんは、どうでしょうか。笑っているイエス・キリストをイメージされたことはあるでしょうか。微笑んでいるキリスト像というのはもちろん、絵画などでもご覧になったことでしょう。しかし、腹を抱えて爆笑されているキリストの絵(!)というのは確かに観たことはありませんよね。

 

この本で結論として述べられていることは、もちろん、イエス・キリストも笑った、ということです74頁)。聖書を読むと、確かに、「イエスは笑った」と明記されている文言はありません。それを根拠に、「イエス・キリストは笑わなかった」と主張される方もいます。けれども、聖書に書いていないからと言って、イエス・キリストは笑ったことがない、ということにはなりませんよね。私も、イエスさまはよく笑う方だったのではないか、と受け止めています。

 

ちなみに、「イエスは笑ったか」ということに関連して書かれたミステリー小説にウンベルト・エーコの『薔薇の名前』という作品があります。中世末期の修道院において、「笑い」を否定する修道士が殺人を犯してゆく、という物語です。キリスト教において、「笑い」が否定的に捉えられていた時代というのも、確かにあったことと思います。

 

 

 

「笑い」と「嗤い」

 

「笑い」というものの中にも、色々な「笑い」がありますよね。人の心をホッと楽にする笑いもあれば、人の心を傷つけてしまう笑いもあります。字で表すと、「笑い」と「嗤い」があります。後者の「嗤い」は他者を「嘲笑う」というニュアンスを含んでいる、否定的な意味合いをもった笑いであるということができます。このような「嗤い」は、時に暴力にもなり得ます。最近は、テレビのバラエティー番組においても、その番組が提供している「笑い」が人を傷つける「嗤い」になってはいないかの問い直しがされ始めていますね。

 

 イエス・キリストは人を嘲笑したり、冷笑したりするようなことはなさらなかったでしょう。そのような意味では、確かにイエス・キリストは笑わなかった。イエス・キリストの笑いとはそのような「嗤い」ではなく、人を自由にし、救い、解放することにつながる笑いだったのだと思います。根本に、相手を思いやる心、愛がある笑いです。『キリスト教と笑い』という本においては、人の心を救う《解放としての笑い》が大切なものとして述べられています。言いかえれば、「ユーモア」というものです。イエス・キリストは、このような愛とユーモアにあふれた方だったであろう、と私も思います。ご自身もよく笑うし、周りの人々を笑顔にし、たくさんの笑いを与える方だったのではないでしょうか。

 

 

 

もう一つのまなざしをもって

 

《解放としての笑い》、すなわちユーモアが生まれるためのもう一つの大切なことがあります。それは、自分自身や目の前にある状況を「客観視する」ことです。もう一つのまなざし(第三のまなざし)をもって、自分と目の前にある状況を見つめ直してみる、ということです。

 

 私たちは苦しいとき、目の前にある状況しか見えなくなります。その時、笑いが生じることはありません。その苦しい状況と自分との間にいくばくかの距離が生じるとき、そこに笑い、ユーモアが生まれる隙間もまた生まれます。イエス・キリストは常に、物事をもう一つの視点で見つめていらっしゃった方であると思います。天からの俯瞰の視点です。だからこそ、主イエスの教えを通して、新しい笑いがその場に生まれることになったでしょう。苦しい状況しか見えなくなっていた人々の心が救われ、解放されるということが起こったのでしょう。

 

 私たちにとって、目の前の現実をもう一つの視点をもって客観視することは大切です。と同時に、イエス・キリストはご生涯の最期においては、その天からのまなざしを自ら放棄された、ということも心に留めておきたいと思います。受難の道において、主イエスは天からの俯瞰の視点を失ってまでして、私たちの苦しみをご自分のものとしてくださいました。ユーモアも笑いも失い、悲しみや苦しみ「しか見えない」状況にまで、ご自分を追いやられた(ゲッセマネの祈りはその主イエスのお姿を指し示しています。マルコによる福音書143242節)。そこまでして、私たちの苦しみ、悲しみを共にしてくださったのが、主イエスの十字架の道行きです。

 

 

 

《神はわたしに笑いをお与えになった》

 

 本日の聖書箇所にも、登場人物が「笑う」場面が出て来ました。創世記18章の、イサクの誕生がアブラハムとサラに予告される場面です(創世記18115節)

 

アブラハムとサラのもとに、ある日、3人の天使が訪れます。天使の一人が、来年の今頃、妻のサラに男の子が生まれているでしょう、ということを予告します。アブラハムとサラの間には子どもがいませんでした。すでに高齢の自分たちに子どもが与えられるはずもないのに、と思ったサラはひそかに笑いました。ここでの笑いは、字で表すと、「嗤い」の方であったでしょう。自分自身を嘲る「嗤い」、現実に対する諦めがともなった、寂しい「嗤い」です。

 

しかし物語においては、その後、神さまが約束された通り、アブラハムとサラの間に子どもが与えられることとなります。奇跡が起こりました。男の子は、神があらかじめ語られた通り、「イサク」と名付けられました。ちなみに、「イサク」とは、「彼は笑う」という意味をもった名前です。

 

サラは《神はわたしに笑いをお与えになった。/聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう》と言って、神に感謝をささげました(同216節)。ここでの笑いはもはや諦めによる「嗤い」ではなく、感謝と喜びがもたらす「笑い」です。心からの「笑い」です。神さまは私たちにこの「笑い」を与えてくださる、その約束への信頼が語られている箇所です。

 

 イサク誕生物語で描かれる奇跡は、私たちの人生においては、実際には起こることは難しいでしょう。しかしだからと言って、この物語を荒唐無稽なものとして退けるのではなく、ここで語られている神さまの約束への信頼を私たちが汲み取ろうとすることが大切であるのだと思います。いつか必ず、神さまが私たちに心からの「笑い」を与えてくださるという約束への信頼です。イサク誕生物語とは、まさに新しい「笑い(イサク)」の誕生物語なのです。

 

 

 

「笑えない」現実の中で

 

 私たちがいま生きているこの社会は、「笑えない」現実が様々にあります。多くの人が、また私たち自身が、苦しみ、悲しみ、涙を流し続けている現実があります。

 

 また、笑いが起こったとしても、それは自身や他者を嘲笑する「嗤い」であることが多い状況があります。インターネットを開くと、そのような嘲笑的、冷笑的な言葉をたくさん目にします。そのような言葉を目にしているだけで、だんだんと自分もエネルギーが失われてゆくような気持になります。また気づかないうちにその否定的な「嗤い」に私たちも取り込まれてしまうということも起こり得るでしょう。

 

 そのような中にあって、私たちは人の心を自由にし、救い、解放してゆく「笑い」をこの社会に、私たちの間に取り戻してゆくことが求められているのではないでしょうか。その時、大切になるのは、自分自身を思いやる心、他者を思いやる心です。自分と他者を愛する心です。ユーモアというのは、この心から生じているものであると思うからです。

 

 そしてもう一つ大切なのは、自分の内にもう一つの視点を持つことです。自分と目の前にある現実をもう一つの視点で見つめ直そうとすること。聖書という書は、私たちが目の前にある現実を神さまの視点で見つめ直してみるよう励まします。その神さまのまなざしとは、私たち一人ひとりを大切な存在としてくださる、神さまの「愛のまなざし」に他なりません。

 

 

 

私たちが喜び、笑顔になることを願って

 

 聖書は、神さまが私たち一人ひとりを愛して下さっていることを語っています。私たちを愛するゆえ、私たちが泣くのではなく、笑うようになることを願ってくださっています。そしてその約束を希望として与えてくださっています。福音書の中には、このようなイエス・キリストの言葉もあります。《今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる(ルカによる福音書621節)

 

福音書の「福音」という言葉は、「良い知らせ」「喜ばしい知らせ」という意味です。福音書とは、喜びの知らせが書かれた書、という意味なのですね。神さまがイエス・キリストを通して、私たちに大いなる喜びを与えてくださった、それを記した書が福音書です。

 

喜びには、自然と、笑いが伴います。私たちは嬉しいとき、笑顔になります。私たちが喜び、満面の笑みになることを願って書かれている書が、福音書です。

 

 神さまの愛を信じ、私たちもまた愛とユーモアをもって生きてゆくことができますように。私たち一人ひとりが喜びをもって、笑顔を輝かせながら生きてゆくことができますよう、そのような社会を共に実現してゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。