説教紙面 今週のメッセージ

2017917日 花巻教会 主日礼拝説教・教会学校と合同

聖書箇所:マタイによる福音書124650

「神の家族」

 

 

マタイによる福音書124650節《イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。/そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。/しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」/そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。/だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 

 

新しい家族のかたち

 

いまお読みしました聖書の個所には、イエスさまのお母さん――マリアさん――と兄弟たちがイエスさまに会いに来た場面が記されていました。その日、マリアさんと兄弟たちは、イエスさまに何か話したいことがあって訪ねにきたようです。

 

「先生、お母さまとご兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられますよー」と呼びに来た人に対して、イエスさまはこうおっしゃいました。

「わたしの母とはだれですか。わたしの兄弟とはだれですか」。

 不思議な言葉です。イエスさまを呼びに来た人はキョトンとしたことでしょう。イエスさまはそばにした弟子たちを指さして、さらにこうおっしゃいました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいます。誰でも、わたしの天の父――天の神さまのことですね――の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」。

 

 イエスさまは、神さまが私たちに願っておられること(御心)を実際に行なっている人が、自分の家族なのだ、とおっしゃったのですね。イエスさまは血のつながりだけではない、新しい家族のかたちを私たちに示してくださったのです。

 

 

 

「どの家の生まれの、誰々の子」ではなく、「一人の人間として」

 

もちろん、イエスさまのこの言葉は、私たちが自分の家族を大切にしなくてもよい、という意味ではありません。自分の家族を大切にすることは、とても大事なことです。

 

イエスさまのこのメッセージを理解するには、少しイエスさまが生きておられた時代の社会の状況を知る必要があります。

 

イエスさまが生きておられた時代の社会においては、「どの家の生まれで、誰の子か」ということが非常に重視されていました。「どの家の生まれの、誰々の子」ということが、人を判断する第一の要素となっていました。イエスさま自身も故郷の人々からは、ナザレ村の大工ヨセフの子、マリアの子、とみなされていました。

 

 このような社会で何かが問題となり得るのか、と言いますと、「どのような家に生まれたか」「誰の子か」ということで人の価値が決められてしまう、ということです。「どこの家の子ども」「誰の子ども」ということばかり問題にされ、その人自身のことを見てもらえない状態。想像してみると、それはとっても辛いことですよね。

 

 そのような社会の状況にあって、イエスさまはまったく新しいまなざしをもって、一人ひとりを見つめてくださっていました。イエスさまは「どこの家の子ども」か「誰の子ども」かということでは、人を見ておられなかったのですね。また、「どの国の生まれ」か、「どのような職業」か、「男性」か「女性」か、ということでも、人を判断なさいませんでした。イエスさまは目の前にいる人を「一人の人間」として見つめ、その存在をまるごと受け入れてくださっていました。

 

 

 

神の家族

 

 そしてそのまなざしは、天の神さまのまなざしにつながっているものです。神さまは私たち一人ひとりを、かけがえのない=替わりがきかない、貴い存在として見つめてくださっています。イエスさまはこの真理を私たちに伝えてくださいました。

 

 神さまから見て、一人ひとりがかけがえなく大切であるように、私たちもまた互いを大切にすること――これが、神さまの願いです。

 

 この神さまの願いを実行しようとする人はみな、イエスさまの兄弟、姉妹、また母なのだ、とイエスさまはおっしゃってくださいました。神さまの願いを心に宿し、この願いを実現しようとする人はみな、血のつながりを超えて、「神の家族」なのです。

 

 イエスさまはこの大切なメッセージをその場にいた人々に伝えるため、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいます。誰でも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」とおっしゃってくださいました。

 

 

 

イエスさまの愛に結ばれて、一人ひとりがかけがえのない存在として

 

新約聖書のガラテヤの信徒への手紙という書には次の一節があります。《そこでもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女(原文では『男と女』)もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです328節)

 

これは、キリスト教が誕生して間もない頃、洗礼(バプテスマ)を受ける際に実際に用いられていた告白文であると言われています。イエスさまに結ばれている人は、もはや、国籍や人種からも、社会的な身分からも、性別や家庭の役割からも自由であることが宣言されています。

 

イエスさまはあなたを「生まれ」では判断せず、職業でも判断せず、社会的な身分でも判断せず、性別でも判断せず、家庭での役割でも判断されません。ただ、あなたをあなたとして、あるがままに受け止めてくださっています。あなたという存在を、世界にただ一人の、かけがえのない=替わりがきかない存在として受け入れてくださっています。「クリスチャンである」ということは、このイエスさまの愛といつも固く結ばれていることを意味しています。

 

イエスさまに結ばれて、一人ひとりが、かけがえのない「私」になってゆくこと。そうして互いに互いをかけがえのない存在として大切にしてゆくこと。これが神さまの願いです。

 

私たちはそれぞれ、神さまの前に立つときは、ただ「一人」です。でも、「独りぼっち」で生きているのではありません。共にキリストに「一つ」に結ばれ、その愛の中で共に生かされています。神さまの家族として、共に生かされています。

 

 本日はこれから洗礼式が行われます。神さまが中村徹さんを生まれる前から愛し、いつも共にいて、今日この日まで支え続けてくださったことを心より感謝いたします。

どうぞこの洗礼式を通して、神さまが中村徹さんをかけがえのない存在として愛してくださっていることを、また、ここに集った皆さん一人ひとりを愛してくださっていることを、ご一緒に心に刻みたいと願います。