説教紙面 今週のメッセージ

2021725日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二514節‐62

キリストと結ばれる

 

 

キリストと結ばれる人は、新しく創造された存在

 

 いまお読みした聖書の言葉の中に、《だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二517節)という言葉がありました。

 

 イエス・キリストと結ばれた人は、まったく新しく創造された存在となっていることを語る言葉です。イエス・キリストを通して、いまや古いものは過ぎ去り、新しいものが生じているのだと手紙の著者であるパウロは力を込めて語ります。

イエス・キリストを通して、それほど決定的な出来事が起こった。私たちに、この世界全体に、いわば180度の大転換が起こった。パウロはそのことへの確信を込めて、これらの言葉を手紙に記しています。

 

 

 

「少しずつ変わる」ことの大切さ

 

 このことを踏まえた上で、本日はまた違った観点からお話をしたいと思います。それは、「少しずつ変わる」この大切さ、という視点です。

 

友人が教えてくれたのですが、臨床心理士の河合隼雄さんがその著書の中で、「ちょっと変わる」ということはすごいことだ、ということを述べておられるそうです。

 人が「ちょっと変わる」ことはすごいこと、大変なことであると河合さんは述べます。一方で、「180度変わる」のは、実はそんなに大変なことではない。180度の変化は割合生じやすく、そしてまた180度の変化は元に戻りやすいと河合さんは述べておられます。

 河合隼雄さんはこれを風見鶏のイメージでたとえています。屋根の上に取り付けられていて、風向きによってクルリと向きをかえる風見鶏ですね。風見鶏は、風向きによってクルッと180度向きを変える。風見鶏にとって、180度向きを変えることは平気である。でも風見鶏が5度だけ向きを変えようと思ったら、とてつもなく大変なことだ。そのように、私たちも「ちょっと変わる」というのはすごいことなのだと河合隼雄さんは述べています(『河合隼雄のカウンセリング講座』、創元社、2000年)

 

 考えてみれば、確かにその通りだなあ、と思わされます。私たちは普段180度変わることを目指しがちだし、自分が180度変わったと思いたいものです。

ではなぜ180度変わったと思いたいかというと、その方が自分にとって楽だから、という部分があるのかもしれません。河合隼雄さんが述べるように、私たちにとって少しずつ変わることは大変なことでもあるからです。

 

私たちはそれぞれ、さまざまな課題を持っています。家族との関係、学校や職場での人間関係。心と体のこと、仕事のこと、将来のこと……。「少しずつ変わる」とは、それら具体的な課題に一つひとつ向か合い、取り組んでゆくことを意味しています。それらの作業は確かに私たちにとって、時に重たいものですね。「180度変わる」場合は、それらの面倒な作業を一気に飛び越えてゆくことができるので、私たちにとって魅力的なのです。しかしその180度の変化は少しずつ変わる過程を経ていないので、何かのきっかけでまた元に戻りやすいものであるのかもしれません。

 

 

 

焦らず、ゆっくりと

 

 先ほど、「イエス・キリストと結ばれた人は新しく創造された存在である」との聖書の言葉をご紹介しました。キリストに結ばれた私たちは「新たなる存在」へと急に生まれ変わるというより、少しずつ変わってゆくことが大切なのではないでしょうか。必ずしも一気に180度、これまでの自分から新しい自分へと変化しなくてもよいのです。

 

もちろん、イエス・キリストと出会ったことによって、一気に自分自身とその生き方が180度変わったという方もいらっしゃるでしょう。それはとても素晴らしいことです。と同時に、多くの場合、一気に180度変わることはあまり起こらないのではないでしょうか。むしろ、焦らず、ゆっくりと、自分の目の前にある具体的な課題に向き合い、1度ずつでも0.1度ずつでも変わってゆこうとする姿勢が求められているように思います。またそして、その少しずつ変わってゆく過程の中にこそ尊いものがあり、また生きてゆくことの喜びもあるのではないでしょうか。

 

 イエス・キリストは私たちといつも共にいて、より良い在り方へと少しずつ変わってゆくその力を私たちに与えてくださる方です。「あなたにはそれができる」、と主イエスは私たちを励まし、力づけてくださっています。

 

 

 

キリストに結ばれ、「かけがえのない私」になってゆく

 

 旧約聖書の創世記1章には、神さまがご自分にかたどって人間を造られたとの記述が出て来ます。《神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された(創世記127節)。神さまの目に、私たちの存在がかけがえなく尊いことを示す表現です。

 かけがえがないとは、替わりがいないということです。私たちは神さまの目に、かけがえがない=替わりがきかない存在。だからこそ、大切であるのです。

 

「新たなる存在」になるとは、いまの自分とは何か別の存在になることではないのだと思います。そうではなく、より自分らしい自分になってゆくことであるのだと受け止めています。神さまは私たち一人ひとりをご自分にかたどって、かけがえのない=替わりがきかない存在として創造してくださいました。神さまの目に大切な、「かけがえのない私」になってゆくこと。そうして喜びをもって生きてゆくこと。そこに、神さまの願いがあるのだと私は信じています。

 

時に、私たちは自分が大切な存在であるとは思えなくなってしまうことがあります。そのようなときは、私たちは一人ひとり、《神にかたどって創造された》大切な存在なのだという真理をご一緒に思い起こしたいと思います。そうしてその神さまの目に大切な自分にふさわしい生き方ができるよう、少しずつであっても、より良い方向へと向かってゆきたいと思います。

 

 本日はこれから、Oさんの洗礼式を執り行います。神さまがこれまでのOさんの歩みを支えて下さり、そうして今朝、洗礼式へと導いて下さったことを感謝いたします。

 

 キリストに結ばれた私たちが、より私らしく生きてゆくことができますように、キリストの内にいるその恵みと喜びを共にしてゆくことができますよう、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。