説教紙面 今週のメッセージ

2019714日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:使徒言行録11418 

キリストは、一人ひとりのために

 

 

使徒言行録11418節《そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。/「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。/その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。/そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、/わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』/すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。/こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。/そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。/すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。/彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。/あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』/わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。/そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。/こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」/この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した

 

 

 

人権について 

 

「人権」という言葉があります。私たちの社会において、とても重要な意味を持つ言葉です。もちろん皆さんもよくその意味をご存知だと思いますが、人権とは、「人間が、人間らしく生きてゆく権利」のことです。私たちが人間らしく、自由に、幸せに生きてゆくことができる権利ですね。英語ではHuman Rights(複数形)。この人権という概念は突然生まれたものではなく、これまで、長い時間をかけ、多くの人々の努力によって守り育まれてきたものです。

 

 

 

人権の4つのポイント

 

 人権には、大きく、4つの大切なポイントがあります。改めてご一緒に思い起こしてみたいと思います。

 

 人権の大切なポイントの一つ目は、人権は「生まれながらの権利である」ということです。人として命を与えられたその瞬間から、私たちには人間らしく生きる権利を有しています。まだ赤ん坊だから人権はない、ということには当然ならないわけですね。

 

 二つ目の大切なポイントは、人権は「すべての人に、等しく与えられている」という点です。人種、国籍、性別、性的志向、心と体の状態、年齢、職業などを超えて、すべての人に、平等に与えられている。そこに例外はありません。

 

 この2点のポイントは、1948年に国際連合総会で採択された「世界人権宣言」の第1条でもはっきりと文言化されています。《第一条 すべての人間は、生れながら自由で、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、同胞の精神をもって互に行動しなくてはならない》(『人権宣言集』、岩波文庫、1957年、403頁)

 

 そして、三つ目のポイントは、人権を「侵害することはゆるされない」という点です。すべての人に、生まれながらに与えられている人間らしく生きる権利を、私たちは互いに侵害しあってはならない。

 

もちろん、現実には、私たちの生きている社会においていまも様々な人権侵害が生じています。人種差別、民族差別、性差別、子どもや高齢者への差別、職業差別、障がい者差別、部落差別、在日外国人差別……。近年は差別の他に、ハラスメントや性暴力もはっきりとした人権侵害として取り上げられるようになりました。

いまこの瞬間も多くの人が、人権侵害によって傷つき苦しんでいます。しかし本来、人権を侵害することはゆるされないことである、そのことを私たちは改めて心に刻むことが大切であると思います。本来ゆるされないことが、いまも世界中で起こり続けている。だからこそ私たちは人権侵害の現実に向かい合い、少しでも私たちの周囲から人権侵害を減らすことができるよう、努力をしてゆくことが求められています。

 

 四つ目のポイントは、「それぞれの権利に優劣はない」という点です。一つひとつの権利に、優劣はありません。もちろん、役割分担として、自分は特にこの問題に深く関わる、ということはあるでしょう。と同時に、個々の権利は相互に関連しており、根底ではつながっていることを忘れないことも重要でありましょう。冒頭で述べましたように、人権とは、「人間が、人間らしく――自由に、幸せに――生きてゆく権利」であるからです。ある問題に誠実に取り組むことが、別の問題で苦しむ人を手助けすることにもつながってゆきます。

 

 

 

神がお与えになった権利として

 

「人権」について、改めてご一緒に思い起こしてみました。人権という私たちの社会においてなくてはならない考え方のルーツの一つに、聖書の言葉があります。人権という概念が守り育まれてゆく歴史の中において、聖書が大きな役割を果たしてきました。

 

先ほど、人権の大切なポイントとして、「生まれながらの権利である」こと、「すべての人に、等しく与えられている」ことを述べました。聖書を読んだ人々は、この生まれながらの権利は、神が与えてくださっているものだ、と受けとめてきたのです。私たち人間がそう考えた、というだけではなく、神ご自身が、与えてくださった。だからこそ私たちはその権利を互いに尊重しあってゆかねばならないのだ、と。

 

 

 

創世記1章の人間の創造 ~古代の人権宣言

 

 このことの根拠となった代表的な聖書個所を一つ、ご一緒に見てみましょう。旧約聖書の創世記の人間が創造される場面です。

創世記12627節《神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」/神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された》。

 

この創世記の個所は必ずしも人間の起源についての科学的な事実を記しているわけではありませんが、聖書が人間をどのように捉えているかが端的に表されている個所だと思います。

 

神は御自分にかたどって人を創造された》という一文がありました。神は御自分に似せて、御自分のかたちに人を創造された。それほどまでに、一人ひとりの人間は神さまの目からみて貴い、ということがここで言われています。 

 

この創世記の記述は、当時としては非常に革命的なものであったことと思います。旧約聖書が記された古代オリエントの世界では、一国の王が「神」と等しい存在とみなされていたからです。王こそ神の姿に似せて創られた存在である。国民はこの王を崇拝し、忠実に仕えねばならない。そのような考え方が当たり前である時代にあって、ここでは、身分の差は関係なく、すべての人が、等しく、神の姿に似せて創られたことが宣言されています。

 

神の目から見ると、王も奴隷もない。神さまの目から見て、「すべての人が生まれながらに平等であり、価値がある」ことを宣言しているのがこの箇所です。いわば、古代の「人権宣言」と呼べる、記念碑的な箇所ではないでしょうか。

 

 

 

「神は人を分け隔てなさらない」

 

 先ほどお読みした使徒言行録11章の少し前のところに、このような言葉が記されています。使徒言行録103435節《そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。/どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。…」》。

 

「神は人を分け隔てなさらない」、言い換えれば神は人を差別されない、人に優劣をつけない方であることが語られています。神さまの目から見て、一人ひとりが、生まれながらに、かけがえなく大切な存在である――。これが、聖書の中心的なメッセージの一つです。

 

たとえ私たちの目から見て、時に自分自身に価値がないように思えても、ある人のほうが秀でていて価値がある人のように見えても、神さまの目から見ると、そうではない。神さまから見ると、一人ひとりが、かけがえなく、大切な存在である。私たちはいま一度、このことを思い起こし、心に刻んでゆくことが求められているのではないでしょうか。多くの人が傷つき、苦しみを覚えているいまこそ、私たちはこのことをご一緒に思い起こしたいと切に願います。

 

 

 

キリストに結ばれ、自由に

 

もう一つ、聖書の言葉をご紹介したいと思います。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙という書の中の一節です。この言葉は、キリスト教会が誕生して間もない頃、洗礼式において読み上げられていた言葉の一つだと言われています。洗礼式は皆さんもよくご存じのように、クリスチャンになる際に行われる儀式です。

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤの信徒への手紙328節)

 

この一文において印象的なのは、イエス・キリストに結ばれている者はもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もない、と宣言されているところですね。クリスチャンになるということは、民族や国籍からも、社会的な身分からも、性差からも自由となることなのだと語られています。

 

この言葉は、現代に生きる私たちにとってもなお、新しさを感じさせるものです。ましてや2000年前に生きていた当時の人々にとっては、どれほど衝撃的で新しいものあったことでしょうか。またそして、だからこそ、このメッセージは周囲から差別を受け、人権が侵害される苦しみを味わっていた人々の心を真っ先に捉えた、ということがあったのだと思います。キリストに結ばれているあなたは、もはや民族や国籍からも、社会的な身分からも、性別からも自由である。そう宣言されて洗礼を受けることが、どれほどの喜びとなり、解放となったことでしょう。

 

 

 

あなたを「一人の人間」として ~一人ひとりが人間らしく、自分らしく

 

神さまは人を分け隔てなさらない。神さまの目から見て、一人ひとりが価高く、尊い存在である――。これが聖書の根本のメッセージです。

 

神さまはあなたを生まれでは判断せず、民族や国籍でも判断なさらない方です。性別や性的志向でも判断なさらない。心と体の状態でも判断なさらない。年齢で判断せず、職業でも、社会的な身分でも判断なさらない方です。そうではなく、あなたを「一人の人間」として受け止めてくださっている方です。一人の人間として、そして、世界にただ一人の、かけがえのない「あなた」として、受け止めてくださっている方です。「クリスチャンである」ということは、この神さまの愛といつも固く結ばれていることを意味しているのだと私は受け止めています。

 

 どうぞ私たちが人間らしく、自分らしく生きてゆくことができますように。一人ひとりが喜びをもって、幸せに生きてゆくことができますように。一人ひとりが大切にされ尊重される社会を少しずつ実現してゆくことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。