説教紙面 今週のメッセージ

2020329日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヨハネによる福音書122036

十字架の光

  

 

ヨハネによる福音書122036節《さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。/彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。/フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。/イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。/はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。/自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。/わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」/

 

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。/父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」/そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。/イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。/今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。/わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」/イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。/すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」/イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。/光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

 

 

326日深夜1時ころ、私たちの愛するKさんが天に召されました。77歳でした。突然の知らせに、皆さんも驚きと悲しみの内におられることと思います。昨日10時より、花巻教会にてご葬儀が執り行われました。ご遺族の皆さまの上に、またKさんにつながるお一人おひとりの上に、神さまからの慰めとお支えがありますよう、お祈り申し上げます。

 

この3週間ほどは、風邪気味で少し体調を崩しておられて、大事をとって礼拝をお休みされていました。先週の日曜日にはKさんからお電話もいただき、「次の日曜日には礼拝に行きます」とおっしゃっていました。いつも通りのお声で安心していたところ、木曜日のお昼に亡くなったとの知らせを受け、私も大変驚きました。31日の礼拝がKさんの最後の礼拝となりました。

 

Kさんは教会において率先して様々なご奉仕をしてくださり、教会を支え続けてくださいました。心より感謝しております。

 

現在の会堂を新築する際は、Kさんを中心に毎週礼拝後に食事を作り、その昼食代金を会堂建築のために献金してくださっていたとお聞きしています。昨日お嬢様に伺ったところ、レシピの本も買って、今日は何を作ろうかととてもはりきって毎回食事を作って下さっていたとのことです。

また毎年11月に開催している教会バザーでは、おいしいカレーの作り方を教会員の方々に教えて下さったり、有志の皆様と朝早くから販売するケーキのご準備をしてくださっていました。Kさんたちが作って下さったケーキは、教会関係者や地域の皆様からも毎年大変好評でした。

 

前任の山元先生のご長男が幼い頃、お連れ合いが礼拝で奏楽の奉仕をするときは、Kさんがご長男をおんぶして礼拝に出席されていたとお聞きしています。この度、山元先生からもメールをいただきましたので、ご紹介いたします。《いつも、教会にいらして率先してご奉仕しておられるお姿を思い出します。また、妻が奏楽の奉仕をするとき、長男をおんぶしながら礼拝に出席しておられ、花巻のおばあちゃんとご自身で言われていたこともとても懐かしいです。…葬りのすべての式が守られますよう、お祈りしています》。

 

礼拝前に教会の周囲の草むしりをしてくださるなど、人の目には見えないところ、見えづらいところで、教会を支え下さいました。ご本人はあまりご自分のお話はなさらず、人前に立って何かをするということも好まない方でしたが、まさに縁の下の力もちとして、当教会を支え続けて下さいました。

 

ご葬儀では、旧約聖書から詩編139編の御言葉を、新約聖書からコリントの信徒への手紙二4章の御言葉を朗読しました。

 

詩編13916-18節を改めてお読みしたいと思います。《胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。/あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。/数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる》。

 

ここでは、神が私たちのすべてを知っていてくださることが語られています。私たちがまだ母親のお腹にいるときから、神さまは私たちを知っていて下さり、見ていてくださった。私たちの生きてきた日々はすべて、神さまの書に記されている、記憶されていると語られています。

 

Kさんは人の前に立って何かをするということはあまり好まず、人知れず、目立たないところでご奉仕をしてくださることが多かった方でした。人には知られなくても、しかし、神さまは知っていて下さる。神さまはKさんのすべてを知り、見ていてくださったのだと思います。

 

Kさんにはご自分に厳しい一面があったように思います。特に信仰に関して、ご自分に対しては厳しい一面も持っていらっしゃいました。ご本人には「自分なんか……」という想いがあったのかもしれません。けれども、神さまの目から見ると、この世に生を与えられてから天に召されるまでずっと、Kさんはかけがえのない、愛する子であったのだと信じています。人には話さなかった秘めた想いも、神さまへの信仰と愛も、神さまはすべて知っていて下さったのだと私は信じています。

 

 もう一つの聖書の言葉。新約聖書コリントの信徒への手紙二41618節。最後にこのような言葉がありました。《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。

 

 見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。Kさんもまた、幼い頃より、この見えないものに目を注ぐ姿勢を実行してこられたのではないでしょうか。

 

 見えるもの、形あるものはいつかは過ぎ去ります。しかし、消え去らないものがある。目に見えないものは永遠に存続するのだと述べられています。目に見えないけれども、永遠に存続するものとは何でしょうか。それは、愛であると聖書は語っています。そしてその愛から、信仰と希望とが生まれ出ます。

 

生まれる前から私たちを愛して下さっている神さま。その神さまは、私たちがこの生涯を終えるときも、その後も、変わらず、永遠に私たちの愛して下さるでしょう。その永遠の命の中で、私たちを抱き留め続けて下さるでしょう。

私たちの目に、Kさんのお体は見えなくなりました。しかし、この先、神さまのもとでKさんと再び会うことができると信じています。

Kさんにつながるお一人おひとりの上に、神さまからの慰めとお支えがありますようお祈りいたします。

 

 

 

一粒の麦死なずば……

 

本日の聖書箇所に、よく知られた「一粒の麦」の御言葉が出てきました。ヨハネによる福音書1224節《一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ》。

 

 この地に落ちて死んだ一粒の麦は、十字架におかかりになって亡くなられたイエス・キリストご自身を指し示しています。主イエスは受難の道を歩まれ、最後に十字架におかかりになってお亡くなりになりました。

 

 地に落ちて死んだ一粒の麦。小さな一粒の麦は、通常、まったく人の目に留めることもないでしょう。誰からも顧みられることはないかもしれません。しかし、その一粒の麦が死ぬによって、多くの実が結ぶようになったのだとここでは語られています。その死によって、多くの人が生きるようになったのだ、と。私たちが永遠の命に結ばれるため、主イエスは十字架におかかりになってくださったのだと福音書は語ります。

 

 

 

十字架の光 ~闇の中の光

 

 聖書が指し示す十字架の光は、人の目には気づかれにくいものであるのかもしれません。十字架にはりつけにされた主は、最も無力な姿でそこにおられます。誰の目にも留められないような惨めな姿で、そこにおられます。

 

十字架の光は、盛大な光というより、暗闇の中にともる光であると言えるのではないでしょうか。地に落ちた一粒の麦のように、人の目には気づかれにくい光です。しかしこの光こそ神さまの光であり、決して消えることのない光です。私たちを永遠の命と結び合わせて下さる光です。

 

 

 

キリストの光にこの心を照らされながら

 

 私たちはいま、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。イエス・キリストのご受難と十字架の死を心に留めて過ごす時期です。

 

この受難節のさ中、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により、多くの方々が困難の内にいます。現在、私たちの世界も「受難」の時にあるということができるでしょう。いま病いの中で懸命に治療をしている方々の上に癒しがありますように、また医療に従事しておられる方々の上に主のお守りがありますよう祈ります。人々の命と安全が守られますように、また生活が守られますように祈ります。私たちも祈りをあわせてゆくと共に、改めて日常生活の中で感染の予防を徹底してゆきたいと思います。

 

世界的に感染がより拡大する中、この先どうなってゆくのか、なかなか先が見えない状況にあります。対応策として都心部などでもこの週末は外出の自粛要請が出されています。一方で、この先、様々な対応がより長期化してゆくことを念頭に置く必要が出てくるかもしれません。今回の出来事は私たちの心に暗い影を落とし、まるで社会が薄暗闇に覆われてしまっているかのようです。

 

暗闇のあるところ、しかし、そこに主は共におられます。闇の中の光、私たちの一歩一歩を照らす光として――。

 

先のことは見えなくても、主は今日という日を、光で照らしてくださっています。いまこの瞬間を命の光で照らし出してくださっています。この先どうなるのか、確かに、私たちには未来を正確に予測をすることはできません。私たちの希望通りに物事が進んでゆくわけでもありません。先のことは分かりませんが、しかし私たちは今日という日を大切に生きることはできます。今日できることをなし、互いに互いを思い遣りながら過ごすことはできます。この積み重ねが、私たちの未来に確かな希望をも、もたらしていってくれることでしょう。

 

キリストの光にこの心を照らされながら、この受難節の中を、一歩、また一歩と共に歩んでゆきたいと願います。