説教紙面 今週のメッセージ

20191117日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記2110

モーセとキリスト

 

 

出エジプト記2110節《レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。/彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。/しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。/その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、/そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。/開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。/そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」/「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。/王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、/その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

 

 

 

出エジプト記

 

ここ数週間、旧約聖書からメッセージをしています。1027日は創世記の天地創造物語、113日はアダムとエバの物語、先週10日はアブラハム物語を取り上げました。いまご一緒にお読みしましたのは、創世記の次の書、出エジプト記の第2章です。

 

出エジプト記はその名の通り、イスラエルの民がエジプトから脱出する物語、そして約束の地カナンを目指す物語です。英語では「エクソダス」と呼ばれます。

当時、イスラエルの人々はエジプトのファラオの支配の下で奴隷とされ、不当な重労働を負わされ虐待を受けていました。イスラエルの人々をその苦難から解放するために神から選ばれたのが、モーセという人物です。

 

本日の聖書個所は、モーセの出生を描いています。ナイル川にて、水浴びに来たファラオの王女がバピルスの籠に入れられた赤ん坊のモーセを見つけ、自分の子とするこの場面もよく知られているものですね。

 

出エジプト記はその後生み出されてゆく様々な物語の、いわば原型ともいうべき物語です。出エジプト記が示す世界観が後世に与えた影響は計り知れないものがあるでしょう。特に有名なのは、海が割れる場面や、シナイ山にて神がモーセに十戒をお与えになる場面などですね。映画の『十戒』をご覧になった方も多いことと思います。

 

 

 

神はイスラエルの民の叫びを聞き

 

出エジプト記を読む上で、重要な場面があります。モーセが神から召命を受ける直前の記述です。《それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は重労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。/神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた(出エジプト記22325節)

 

先ほど、イスラエルの人々が当時エジプトで奴隷とされ、重労働を課せられていたことを述べました。人々のその叫びが神に届き、神はその約束(契約)を思い起こされた、と出エジプト記は記します。

 

先週、聖書は「神と人間の約束の書である」ということを言いました。アブラハムに神から約束が与えられた場面をご一緒に読みました。出エジプト記においても、やはりこの約束が重要な主題となっていることが分かります。

 

非常に印象的なのは、神さまが約束を思い起こされる契機となったのが、イスラエルの人々の「叫び」であることです。奴隷状態で苦しむ人々の叫び、嘆きを神が聞き届けてくださり、約束を思い起こしてくださったこと、それがその後の物語の大切な枠組みとなってゆきます。

 

「神さまは私たちの叫びを必ず聞いてくださる方である。神は私たちのことを決してお忘れにならない。神は私たちのために、行動を起こしてくださる方である」。このことへの信頼が出エジプト記の根底に流れています。

 

 

 

モーセの出生の場面 ~他者の叫びを聞き、そのために具体的な行動を起こすこと

 

 本日の聖書個所であるモーセの出生の場面も、このメッセージをあらかじめ示唆していると受け止めることもできるでしょう。

 

出エジプト記2510節《そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。/開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。/そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」/「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。/王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、/その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」》。

 

籠の中に入っていた赤ん坊の泣き声を聞き、ファラオの王女は心動かされ、自分の子として育てることを決意します。命の危機にさらされていた幼子の叫びを聞き、憐れに思った王女は、自分の子とするという、具体的な行動を起こすのです。そのことによって、モーセの命は救われました。王女の勇気ある行動によって、神とイスラエルの民の約束の物語の扉が開かれてゆくのです。

 

 他者の叫びを聞き、そのために具体的な行動を起こすこと。この姿勢がいかに重要なことであるかが、冒頭の王女の振る舞いを通して、私たちにあらかじめ示されています。

 

 

 

私たちの心を切実に捉える出エジプトの物語

 

 大昔に書かれた物語である出エジプト記がいまも多くの人々の心を打つのは、エジプトで苦難を経験していたイスラエルの人々の状況といまの私たちの状況がどこか重なり合うからではないでしょうか。もちろん、私たちはエジプトで重労働をしているという環境にはありませんが、それぞれが、何らかの苦しみ、困難を抱えつつ、懸命に生きています。心の重荷につぶされそうになる中、思わず叫ばずにはおられなくなる、そのような心境になることもあるでしょう。

 

 この痛みを誰かに理解してほしい、という想いを私たちはもっています。しかし一方で、なかなか周囲に自分の痛み、苦しみを分かってもらえないことが多いものです。自分の苦しみを聞いてもらえない。受け止めてもらえない。また、自分自身、この苦しみをどう表現してよいか分からない、ということもあるでしょう。そうして私たちは心の中では激しく叫び声を上げながらも、周囲に対して沈黙をするのです。

 

 また私たちはその苦しみの中で、本当に神さまが私の叫びを聞いてくださるのか? 神さまは自分のことを忘れておられるのではないか? そう疑問を抱いてしまう瞬間もあるのではないかと思います。

 

 そのような私たちに語りかける物語であるので、出エジプトの物語はいまも私たちの心を切実に捉えて離さないのではないでしょうか。苦しみの中で、それでも、この物語が語るメッセージに一縷の望みを託すようにして――。「神さまは私たちの叫びを必ず聞いてくださる方である。神は私たちのことを決してお忘れにならない。神は私たちのために、行動を起こしてくださる方である」。

 

 

 

モーセとキリスト ~新しい出エジプト

 

 出エジプト記においては、イスラエルの民の叫びをお聞きになった神は、モーセという一人の人物を選び、エジプトに遣わしてくださった。それが「出エジプト」の出来事の始まりです。

 

 旧約聖書における最重要人物の一人であるモーセ。新約聖書においては、モーセに替わる存在が現れます。その方が、イエス・キリストです。神は私たちの叫びを聞き、その独り子を世界にお遣わしになってくださった――。これが、新約聖書が語る救いの物語の始まり、クリスマスの出来事です。福音書の物語は「新しい出エジプト」と呼ばれることもあります。

 

 あと2週間ほどで、教会の暦でアドベントに入ります。アドベントはクリスマスを待ち望み、準備を整える時期です。このアドベントは、神さまの約束への信頼を新たにする時期でもあるでしょう。「神さまは私たちの叫びを必ず聞いてくださる方である。神は私たちのことを決してお忘れにならない。神は私たちのために、行動を起こしてくださる方である」。独り子が遣わされたクリスマスは、この約束が実現された日だからです。

 

 

 

主は共に苦しみ、叫び、涙を流しながら

 

 新約聖書は、そのようにして私たちのもとに来てくださったイエス・キリストもまた、その生涯において苦しみを受けられたことを語ります。

 

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。/キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。/そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、/神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです(ヘブライ人への手紙5810節)

 

新約聖書は、イエス・キリストもまた私たちと同じように、生前、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら懸命に祈られたことを証しています。主イエスは私たちの経験するあらゆる苦しみを知っていてくださる方であり、私たちと共に苦しみ、叫び、涙を流してくださっている方です。そのことを通して、「神は私たちのことを決して忘れてはいない。神は私たちのこの叫びを聞いておられる」ことを伝え続けてくださっているのだと信じています。

 

 

 

他者の苦しみの声に耳を傾け、具体的な行動を起こしてゆくことができますように

 

私たちは、様々な痛みや苦しみを経験しているからこそ、他者の痛み苦しみに敏感になることもできるのではないでしょうか。

 

アドベントが近いこの時、神さまが私たちの叫びを必ず聞き届けてくださり、行動を起こしてくださることへの信頼を新たにしたいと思います。そして、私たちもまた、他者の苦しみの声に耳を傾け、具体的な行動を起こしてゆくことができますようにと願います。