説教紙面 今週のメッセージ

2019113日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書5111 

弟子への招き

 

 

ルカによる福音書5111節《イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。/イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。/そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。/話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。/シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。/そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。/そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。/これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。/とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。/シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」/そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った

 

 

 

ガリラヤ湖のほとり

 

いまお読みした聖書箇所は、ペトロやヨハネたちがイエス・キリストの弟子へと招かれる場面です。

 物語の舞台となっているのは、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖という湖です。本日の聖書箇所ではゲネサレト湖と表記されていますが、これはガリラヤ湖のことです。ペトロやヨハネたちはもとは漁師で、この湖で漁業を営んでいました。

 

ガリラヤ湖は上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしています。その大きさは南北に21キロメートル、東西に13キロメートル。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって、町から町へ移動をすることができました。

 

私はガリラヤ湖を実際に訪ねたことはまだありません。ぜひ一度訪ねてみたいものですが、写真などで見ますと、何だか懐かしいような気持になります。太陽の光に輝く水面、水面を進む小舟。野の花が咲き誇る丘陵……。国籍を超えて、この景色を見ると誰もが故郷に帰って来たような気持になるのではないでしょうか。

 

ガリラヤ湖には多くの魚が棲んでおり、漁業もさかんです。スライドに映している魚はガリラヤ湖に生息する魚で、その名もセント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペトロの魚)と呼ばれています。こちらも、もしガリラヤ湖を訪ねることがあったらぜひ一度食べてみたい(?)ものですね。

 

 主イエスはこの湖のほとり、または湖のすぐ傍らの丘陵地で、よく教えを述べられていたようです。主イエスが有名な山上の説教を語ったのも、湖を取り囲む丘陵地です。本日の聖書箇所にも主イエスがペトロの舟に乗って人々に教えを語る場面が出て来ましたね。主イエスにとっても、お気に入りの場所であったのかもしれません。

 

 

 

弟子への招き ~人間をとる漁師になる

 

 新約聖書でもなじみの深いこのガリラヤ湖。先ほど述べましたように、ペトロやヨハネたちが弟子に招かれたのも、この湖のほとりにおいてでした。

 

 その日、主イエスは、集まって来た人々にメッセージをお語りになった後、ペトロに《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》とおっしゃいました54節)。ペトロたちはその時すでに漁を終え網を洗っていたのに、もう一度漁に出るようにとおっしゃったのです。ペトロはこの方は何を言っているんだろう、と不可思議に思ったことでしょう。その日は夜通し漁をしていて、何もとれなかったのに……。《先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう5節)。しぶしぶ(?)ペトロは主イエスの言葉に従い、沖に漕ぎ出します。そして主イエスの言葉の通りに網を降ろしてみると、おびただしい魚がかかり網が破れそうになった、と福音書は語ります。ペトロはもう一そうの舟にいる仲間にも手を貸してもらいますが、二そうの舟は魚でいっぱいになって、沈みそうになります。

 

 そのときペトロの内に湧き上がったのは恐れでした。畏怖の念、ということができるかもしれません。ペトロは主イエスの足もとにひれ伏し、《主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです》と言います8節)。すると主イエスは《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる》とおっしゃいました10節)。舟を陸に引き上げたペトロたちは主イエスの弟子となり、主イエスの後に従ってゆくこととなります。

 

 この物語は一種の「奇跡物語」ということができますが、印象的なのは最後の主イエスの言葉ですね。《あなたは人間をとる漁師になる》。ここでの「とる」は「生け捕る」というニュアンスを含む言葉であるそうです。別の聖書(岩波訳聖書)では、《今から後、あなたは人間を生け捕ることになるだろう》と訳しています。

もちろんこれは、人を「無理やり連れてゆく」という意味ではありません。そうではなく、人々を「招き入れる」という意味でこの言葉が使われているのでしょう。

 

 招き入れようとしている場所とは、「神の国」です。「あなたは人間をとる漁師になる」という言葉には、「魚を網の中に招き入れるように、あなたは人々を神の国に招き入れる漁師になる」というメッセージが込められています。 このメッセージに心動かされたペトロたちは主イエスの後に従ってゆきます。

 

 

 

神の国 ~一人ひとりが大切にされている場

 

 では、「神の国」とはどのような場所のことを言っているのでしょうか。様々な受け止め方ができるでしょうし、様々な表現の仕方をすることができることと思います。

 

 たとえば、伝統的には神の国を「神さまの支配、キリストの支配が満ちる場所」と形容してきました。この神の国を「神さまの愛が満ちる場所」と表現することもできるでしょう。私としては、これまで、この「神の国」を「一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」と表現してきました。よりシンプルに言うと、「一人ひとりが大切にされている場」ということです。神さまの目にかけがえのない一人ひとりが大切にされる場、それが神の国だと受け止めて来ました。

 

主イエスは「神さまの目に、私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い存在」であることを伝えてくださっています。私たちがその福音の真理を受け止め、互いに互いを大切にしてゆく。その中で実現されてゆくもの、それが「神の国」であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 そうしますと、この「神の国」の実現は、私たちの働きを通して実現されてゆくものだということになります。私たちが互いを大切にすることを通して、神の国は少しずつ実現してゆくのです。ペトロたちが主に弟子として招かれたように、神の国の実現のために、私たち一人ひとりが招かれています。

 

 

 

「人間の大切さ」が見失われる中で

 

 互いに大切にしあうこと、それは当たり前と言えば当たり前のことです。一人ひとりの存在が大切、これも、当たり前と言えば当たり前のことでしょう。私たちはこのことをいま改めて語る必要はあるのでしょうか。

 

 私はやはり、むしろいまこそ、私たちはこのことを改めて考えてゆくことが求められているように思います。というのも、いまの私たちの社会は、「人間の大切さ」ということがどんどん見失われていってしまっているように思うからです。一人ひとりの存在が大切という「当たり前」のことが見失われつつある。そのような中で、私たち自身、気が付くと他者を思い遣ることを見失ってしまっていることがあります。

 

 先ほど、ガリラヤ湖についてご紹介しました。ガリラヤ湖をはじめ、福音書の舞台となっているガリラヤはとても美しい地です。しかし、美しい地であると同時に、ガリラヤは人々の痛みに満ちた地でもありました。主イエスが生きておられた当時のガリラヤについて記された文献を読みますと、ガリラヤに生きる人々が貧困と差別とに苦しめられていたことが分かります。

 

 ガリラヤの人々は当時、何重もの不条理な税に苦しめられ、また中央からの理不尽な差別に苦しめられていたそうです。ガリラヤの人々の多くが、人間らしい当たり前の生活をすることができないでいました。「人間の大切さ」ということが見失われていた社会であったということができるのではないでしょうか。

 

そのような状況が続いてゆくと、私たちの内からは自尊心は失われ、生きる力が奪われてゆきます。生きる喜びも、希望も、奪われてゆきます。多くの人が暗闇の中を歩むような想いで日々を過ごしていたのではないかと想像します。ペトロたちはそのような環境で生まれ、育ち、漁師として懸命に生きていました。主イエスもそうです。主イエスもそのような環境でお生まれになり、ガリラヤに生きる人々の苦しみをつぶさに御覧になりながら、成長されていったのです。

 

 

 

神さまの尊厳の光のもとに人間を「取り戻す」

 

「人間の大切さ」が見失われた社会。そのような社会で生きるペトロたちに対し、主イエスは「人間をとる漁師になる」という招きの言葉を発されました。別の訳では《今から後、あなたは人間を生け捕ることになるだろう》。

 

私たちがいま生きる社会もまた、「人間の大切さ」が見失われつつあります。日々のニュースを見ても、いかに人が軽んじられる社会となってしまっているかを痛感させられます。たとえば、人よりも組織の利益や都合が優先される、少数の人が多数のために犠牲とされるということが至るところで起こっています。

 

「人間を生け捕る」という言葉の中に、人を生かすという意味合い、人々が活き活きと生きてゆくことができるという意味合いを本日はご一緒に見出したいと思います。「人間の大切さ」が見失われ、人々の尊厳がないがしろにされその生命が傷つけられている現実の中にあって、一人ひとりの生命と尊厳を守るために「人間を生け捕る」。神さまの尊厳の光のもとに、人間を「取り戻す」――そのために共に働くよう、神さまは私たちを招いてくださっています。

 

 

 

仲間と共に、主と共に

 

 主イエスから招きを受ける前、ペトロたちは疲れ切っていました。夜通し苦労しても、何もとれない。私たちもまた、ペトロたちと状況は違っても、疲れを覚えることが多いのではないでしょうか。生きてゆくことの大変さ。努力しても状況が改善されない徒労感……。あきらめに囚われているペトロに、主イエスはもう一度舟に乗って沖へ漕ぎ出すように励まされました。

 

 私たち自身は、確かに、時に疲れてしまうことがあります。あきらめを覚えてしまうことがあります。しかしペトロは一人で沖へ漕ぎ出したわけではありませんでした。仲間たちが傍らにいました。そして主イエスも共にいて、ペトロを見守ってくださっていました。私たちは一人で歩んでいるのではありません。大切な仲間と共に、主と共に、歩んでいます。

 

一人ひとりが活き活きと喜びをもって生きることができる社会を少しずつ実現してゆくために、共に歩んでゆきましょう。