2013年10月20日「キリストの柔和さをもって」

20131020日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二12124

「キリストの柔和さをもって」

 

パウロは「弱々しい」人?

お読みしましたコリントの信徒への手紙二の著者は、使徒パウロです。よく知られていますようにパウロは、キリスト教の草創期において、非常に大きな役割を果たした人です。この使徒パウロという人物について、皆さんはどのようなイメージをもってらっしゃるでしょうか。たとえば、どんな困難にも屈しない「力強い」人というイメージを重ねている人は多いのではないかと思います。または、炎のような情熱を秘めた「熱い」人というイメージをもっていらっしゃる方もおられるでしょう。もしくは、福音について話し出したら止まらない、「雄弁な」人というイメージをもっている方もいらっしゃるかもしれません。

 

このような一般的なイメージに対して、このコリントの信徒への手紙二の中に、意外な言葉が書き留められています。いわく、《手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない》(コリントの信徒への手紙二1010節)。

 

これは、当時パウロをよく思っていなかった人々からの、パウロに対する批判の言葉です。パウロはその批判を手紙の中でそのまま引用しています。パウロの評判を意図的に貶めようとする人々の言葉ですので、それらを文字通りに受け取ることはできないのはもちろんのことです。ただ、「パウロは一見《弱々しい人》で《話もつまらない》」という批判は、意外という感じがします。

 

パウロがあまり「雄弁な」タイプではない、ということは、パウロ自身も手紙の中で認めていることです116節)。パウロは人と対話するとき、ゆっくりと、正確な言葉を選びながら話す人であったのかもしれません。一方で、パウロと対立していた人々はすぐれた弁論術を身に着け、それを誇りとしている人々でした。いわば、弁論のプロのような人々だったのでしょう。そのような人々からは、言葉を選びながら、あまり雄弁にではなく話すパウロの弁論や説教が、何とも《つまらない》ように見えたのかもしれません。

 

 また、パウロに対する批判の中で、特に意外であるのは、パウロが《弱々しい人》であるという批判です。先ほども一般的にパウロには「力強い」人というイメージがあるのではないかと述べましたが、実際はむしろ「弱々しく」「頼りない」印象を与える人であった、というのです。

 

 人を見てどのように感じるかは、その人それぞれです。パウロに批判的な人は初めから批判的なフィルターを通してパウロを見ていますから、本来「長所」であるところを「短所」として見てしまう、ということも大いにあり得るでしょう。ただ、パウロは一見「弱々しく」見える部分があったということは事実であるようです。

 

「弱々しい」「頼りない」と表現するとそれは短所のように思えますが、それを肯定的に「柔和さ」「おだやかさ」ととらえ直すと、それは長所となります。パウロという人物は、人によっては短所とも長所とも受けとれる、或る「柔和さ」を持った人であったようです。

 

大河ドラマ『八重の桜』の新島襄

このパウロの人となりについて想うとき、私がふと思い浮かべたのは、NHKの大河ドラマ『八重の桜』に登場する新島襄です。『八重の桜』を御覧になられている方はいらっしゃるでしょうか?この『八重の桜』において、オダギリジョーさん演じる新島襄は、紳士で、いつも穏やかに微笑んでいるような人物として描かれています。ドラマの中のこの新島襄の姿とパウロの姿とは、通じるものがあるように思いました。

 

ドラマの中の新島襄は、見る人によっては「頼りない」と感じるような演じ方がなされています。見ているうちに、次第に内に芯の強さを秘めた人であることが分かるのですが、一見「頼りなく」見える人物のように描かれているのです。ドラマの中でも、新島襄が同僚の先生たちから、同志社の学長としてのリーダーシップが足りない、と批判されるシーンがありました。確かに、ドラマの中の新島襄は、「力強く」生徒たちを引っ張ってゆくタイプではありません。

 

「弱々しさ」ともとれるこの新島襄の「柔和さ」は、どこから来るのでしょうか。私はそれは、彼の内にある、若者たち一人ひとりの自主性を尊重する想いから来ているのではないかと思います。ドラマの中の新島襄は、生徒たちに一方的に命令をすることは「決して」といっていいほど、しません。同志社の学長として、上から権威をもって従わせることは、ある意味簡単なことであるでしょう。しかしそれでは、生徒たちがまことには育っていかないと考えているのでしょうか。

ドラマの中の新島襄は、おそらく常に生徒の主体性を大切にしているので、見る人によっては「弱々しい」印象を与えるのではないかと思います。そうして普段は、ただニコニコしながら、若者たちを見守っている。しかしその「柔和な」姿勢こそ、実際は、深い決意と、大きな忍耐が伴うものではないかと思います。力ずくで従わせるのは容易いですが、相手の自発性を信頼して待つことは、なかなかできることではないからです。

 

私たちの日々の生活を省みてみますと、相手が自分の思うようにならないことに我慢ができないことがいかに多いでしょうか。つい、相手を無理やり自分の思い通りに従わせようとしてしまうことの、いかに多いことでしょう。相手の自主性を尊重する姿勢には、それら決意と忍耐と共に、その人に対する信頼が欠かせません。私たち一人ひとりの内に自ら成長してゆく力があることを信じていないと、そもそも、決意することも、忍耐することもできないでしょう。『八重の桜』に登場する新島襄は、教育者として、そしてキリスト者として、若者たち一人ひとりの内に神さまから与えられている力を信じているように思います。

 

信仰者一人ひとりの自主性をこそ

パウロもまた、同様の姿勢でいる人でありました。パウロは牧会者として、信仰者一人ひとりの自主性を尊重する姿勢を、常に心がけていた人であったようです。この手紙を記した当時、コリント教会の内にはさまざまな問題が起こっていました。もちろん、パウロは教会が抱える問題が解決されることを願っていたでしょう。「こうしたら、より良くなってゆく」という考えももっていたと思います。しかしだからといってパウロは、それを強引に押し付けるという仕方はとりませんでした。「あなたがたは、~しなければならない」とか「あなたがたは、~すべきだ」などと押し付けることはしなかった。時には、あえて相手から距離をとってみる、という方法も取っていたようです。

 

本日の聖書箇所は、そのような状況において、パウロがしるした文章です。23節《神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントへ行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです》。パウロはこのとき、コリント教会に強引に介入するのではなく、訪問をしばし控えるという方法を取っていました。それは、コリント教会の人々への《思いやり》から、そうしているのだ、とパウロは語ります。言い換えますと、コリントの教会の一人ひとりの自主性を尊重する想いから、そうしているのだ、ということができるでしょう。コリント教会がより良くなってほしいというのがパウロの願いであっても、それを無理やり、相手の意思に反してまで強制はしないのです。パウロはそのことを、《神を証人に立てて、命にかけて誓います》とまで言って、強調しています。

 

客観的に見てたとえ相手にとって「よい」ことであっても、それを相手の意思に反して無理やりに強要してしまったら、その時点でその「よさ」は失われてしまいます。その人たちのことを思っての助言でも、もしそれを強要したら、その助言が本来もっていた「よい」意味は失われてしまいます。それは信仰に関する事柄であっても同様です。いや、私たちにとってもっとも大切な信仰に関する事柄であるからこそ、パウロはそれを強要することを差し控えました。

 

神さまに対する信頼は、すぐれた弁論を用いて相手を説得することで生じるものではありません。説得ではなくて、私たちが心から「アーメン(然り、その通りです)」と納得する時、神さまに対する信頼は生じます。その意味において、言葉を選んでゆっくりと話すパウロの姿勢は、伝道をする上でも、むしろ「長所」として主に用いられることが多かったのではないでしょうか。自分が一方的に語るのではなく、むしろ相手の心から自発的に湧き出てくるものを待つという姿勢こそ、信仰の事柄を伝える上で大切であると思うからです。

 

心からの信頼の言葉

続けて、パウロは語ります。24節《わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです》。ここでパウロは、コリント教会の人々の信仰を支配するつもりはない、とはっきりと語っています。むしろ、自分たちはコリントの人々の喜びのために協力する者である、と。パウロはあくまでコリントの人々の「同労者」であって、信仰を支配する権威をもっている者ではないのです。そのような権威は、私たちの誰ももっていません。その権威をもっておられるのは、主なる神さまのみです。

 

 またパウロは、《あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです》と述べています。パウロがこのようにコリント教会の自主性を尊重することができたのは、コリントの人々の信仰を心から信頼していたからです。コリントの人々が自分と共にキリストに固く結ばれている人々であることを、パウロは心から確信していました。

 

 このパウロが発したような信頼の言葉こそが、私たちの心を動かす、ということがあるのではないでしょうか。私たちが問題を抱えて悩んでいるとき、幾つもの失敗をしてしまったとき、一人の友が、「わたしはあなたを信じています」と言ってくれたら、どれほど力を得ることでしょう。ある人から発された心からの信頼の言葉こそが、私たちに立ち直らせる力を与えてくれます。コリント教会の人々も、教会にさまざまな問題が起こって自信を喪失している中、このパウロの心からの信頼の言葉を目にして、深く慰められたと想像します。

 

自由意志と愛

 先ほど、私たちの信仰を支配する権威をもっているのは、私たち人間ではなく、主なる神さまのみである、ということを述べました。私たちをイエス・キリストに固く結び付けてくださり、私たちに信仰を与えてくださったのは、他ならぬ、主なる神さまご自身です。パウロは21節でこのように述べています。《わたしたちとあなたがたをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です》。

 

では、神さまと私たちの関係はどうでしょうか。私たちの「主」である神さまは、私たちにご自分を「信じる」や「従う」ことを強要しておられるでしょうか――。いいえ、決して、強要なさってはいません。神さまこそ、私たち一人ひとりの自主性を尊重してくださっている方です。

 

「自由意志」という言葉があります。私たちはこの自由意志に基づいて、「よい」ことをする自由も与えられていますし、「悪い」ことをする自由も与えられています。私たちには、何をするにしても、自らの意思によってそれを選ぶことのできます。この自由意志を与えてくださった方こそ、神さまです。

 

私たち人間存在にこの自由意志があるという事実そのものが、神さまが私たちに信仰を強制しておられないことの証拠です。もし神さまが私たちに「忠実さ」を強要しているのであれば、そもそも私たちを「善」しか選べない、ロボットのような存在に創ったはずです。しかし、神さまはそうはなさらなかった。

 

 なぜでしょうか。それは、私たちを「愛しておられる」からです。私たちを愛するゆえ、神さまは私たちに自由意志をお与えになったのだ、と理解することができます。

他者を愛することの大前提として、相手の自由な意思を尊重する、ということがあります。それは神さまと私たちの関係性においても、いや、神さまと私たちの関係性においてこそ、その通りなのです。

神さまが私たちに自由な意思を与えてくださいました。そのことによって私たちは、神さまを「愛する」こともできるし、「愛さない」こともできる。神さまは私たちにその自由を与えてくださいました。その事実そのものが、神さまから私たちへの愛の証しです。

 

キリストの柔和さ

《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる》(マタイによる福音書1128-29節)

 神さまの御子イエス・キリストは私たちにそう語りかけておられます。この招きの言葉において、主イエスはご自身の本質を「柔和で謙遜な」という言葉で表現されています。

 

「柔和さ」――まことに、イエス・キリストこそ「柔和」な方であるということができます。このイエス・キリストの柔和さは、愛から生じています。主イエスは私たちをまことに「愛しておられる」からこそ、柔和であられるのです。

 

 主イエスは私たちの自由意志を尊重し、私たち一人ひとりの主体性を尊重してくださっています。それは言い換えますと、いま・この瞬間の私たち自身を、“あるがまま”に受け入れてくださっている、ということです。自由意志をもっている私たちは、善良な部分だけではなく、「罪」と呼ばれる部分をもっています。私たちが自ら「罪」や「過ち」を犯しても、それら過ちを含めた私たちそのものを、主イエスはいまこの瞬間、受け入れてくださっています。ここに、愛があります。

 

 私たちは日々の生活において、他者から、「あなたは、~であらねばならない」「あなたは、もっと~であるべきだ」と、いかに多くの場面において強制されていることでしょうか。学校において、職場において、家庭において、「あるべき理想の姿」をどれほど強制されていることでしょう。他者から強要され、そしてまた自分で自分にそのように強要しています。私個人でいうと、「あるべき牧師の姿」というものを、どれほど自分自身に強要していることでしょうか……! 私たちは多かれ少なかれ、「自分ではない“誰か”にならねばならない」という《重荷》を自ら負い続けており、慢性的な疲れを感じています。それはどんなにすぐれた人物と言われる人であっても、またそうなのではないでしょうか。

 

 イエス・キリストは、そのような私たちを、ご自分の「柔和さ」の中に招いてくださっています。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》――。

 このキリストの柔和さの中では、私たちはもはや、「自分ではない“誰か”」になる必要はありません。美しさも醜さも、善も悪もすべて含んだ“あるがまま”のわたしとして、キリストの柔和さの中で安らいでいることができます。キリストの前では、どんなにすぐれた人物であっても不完全者な存在です。しかし、その不完全である私一人ひとりが、いまこの瞬間、“あるがまま”にゆるされています。それは使徒パウロであっても、同様です。パウロもまた弱さをもった一人の人間であることに変わりはありません。パウロであったとしても、いつもどんな時も他者に対して柔和でい続ける、ということはできなかったでしょう。また時にその柔和さが「偽りの柔和さ」となってしまい、相手と面と向かって対決することを避けてしまったという場面もあったかもしれません。そのパウロもまた、キリストの柔和さの中でその不完全さをゆるされ、生かされている一人の人間であるのです。

 

一人ひとりに、神さまの霊が

この平安が与えられてはじめて、私たちの内に「より良い」自分へと成長してゆきたいという願いが生じます。“あるがまま”に自分が受け入れられている穏やかさと静けさの中で、未来へ向かって芽を伸ばそうとする命の息吹をもまた、自らの内に感じることができるようになるでしょう。

 

神さまは、私たち自身の内に、おのずから成長してゆく力があることを信じてくださっています。これは考えてみますと、驚くべきことです。神さまの方から、この私たちを信頼してくださっているのですから……。パウロは22節でこのように述べます。《神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました》。

 

神さまは私たち一人ひとりの心の内に、神さまの“霊”(聖霊)を与えてくださいました。私たちの内におられるこの神の霊が、必要なことはすべて、教えてくださいます(ヨハネによる福音書1426節)。神さまは、私たち一人ひとりに、この内なる“霊”の教えに従っておのずから成長してゆく力があることを信じてくださっています。

 

私たちが自分自身を信じるよりもはるかに深く、神さまはその私たちの力を信じてくださっています。神さまの方から、私たち人間を信じようとしてくださり、大きな望みをかけようとしてくださり、であるからこそ、私たち一人ひとりの心に聖霊を与えてくださいました。

 

パウロの愛の賛歌にあるとおりです。神さまの愛は、《すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》(コリントの信徒への手紙一137節)。

共に父なる神さまにお祈りをおささげいたしましょう。