2013年10月27日「キリストの前で、あなたのために」

20131027日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二2111

「キリストの前で、あなたのために」

 

「使徒」としてのパウロ

パウロは自己紹介する時に、いつも「キリストの使徒とされたパウロ」と紹介していました。コリントの信徒への手紙の冒頭でも、《神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ》と自分を紹介しています11節)。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味をもつ言葉です。つまりキリストのために、神さまから「遣わされた人」のことを言います。パウロは自分自身のことを、神さまから遣わされたキリストの「使徒」であると受け止めていました。

 

当時パウロは、どちらかというと、キリスト教会の中では少数派のグループに属していました。ですので必ずしもキリスト者の皆が、パウロの活動に賛同しているわけではありませんでした。パウロに批判的である人々の中には、そもそもパウロに「使徒」としての資格があるのかを疑問視する人もいました。確かに、パウロは十二弟子のペトロやヤコブのように、直接主イエスから弟子とされたわけではありません。パウロは直接生前のイエスとは会ったことはありませんし、よく知られていますようにパウロはキリスト者となる前は、キリスト教会を迫害していた人物でした。そのパウロが、十二弟子のペトロやヤコブのように自らを「使徒」と名乗っていることに納得ができない人々がいたのです。

 

反対者たちによる計画

パウロを疑問視していた一部の人々の間で、ある一つの計画が立てられました。パウロが建てた諸教会を訪問し、パウロではなく自分たちが指導者となる、という計画です。これ以上、パウロに諸教会を任せておくことができない、ということなのでしょう。

その計画において選ばれたのが、コリントの地にある教会でした。現在のギリシャの南に位置するこのコリントは、当時、地中海世界の交通の要でした。伝道の拠点としてパウロ自身もっとも重視していたのが、このコリント教会でした。パウロの反対者たちはこのコリント教会に着目し、この教会を自分たちに属する教会にしようと計画したようです。その計画に基づいて、幾人かの指導者がコリント教会に派遣されました。

 

その時、パウロはあいにくコリント教会にはおらず、小アジアに位置するエフェソにいました。パウロが不在の時に訪問する、というのも計画されたことであったのでしょう。コリント教会を訪れた或る指導者たちは、自分たちこそ「使徒」1113節)であると名乗りました。もしかしたら実際に生前の主イエスの教えを聞いたことがある人々なのかもしれません(参照:516節)。この指導者たちは自分たちこそ生前の主イエスにゆかりのある、まことの「使徒」であることを強調し、暗にパウロを批判し始めたようです。

 

来訪者たち

すでに述べたように、その人々は明確な意図をもってやってきていました。パウロの代わりに、自分たちがコリント教会の指導者となるという目的です。彼らは自分たちこそが「使徒」であるとし、その権威をもって人々にメッセージを語りはじめました。

しかしその指導者たちが語る言葉は、パウロが伝えた福音とはまた異なったものでした。パウロの語る福音を信じてキリスト者になったコリント教会の人々は、そのまったく異なった視点によるメッセージに動揺したことでしょう。それら教会の動揺も、もちろん、その指導者たちにとっては想定の上でのことでした。こうして教会に揺さぶりをかけ、教会を一度「壊してしまう」という意図をもっていたからです。そうして、コリント教会を自分たちの考えに合う教会に作り変えてしまおう、という計画でした。

 

この指導者たちが建てた計画は、はあまりにも強引な計画であるということができるでしょう。まるで、ある人が大切に育てていた草花を無断で引っこ抜いて、自分たちの植木鉢に植え替えようとするような、強引さです。パウロのコリント教会への想いも、コリント教会の人々の主体性というものも、まったく配慮されていません。

教会が大きく揺れ動く中、パウロはついにコリント教会の訪問を決意します。「パウロがやってくる」という知らせは、指導者たちの耳にも届いたに違いありません。これを聞いた指導者たちはどうしたでしょうか。彼らはさらに、パウロの来訪に合わせて、ある一つの企てを考え出したようです。

 

或る事件

パウロがコリント教会にやってきたとき、事件は起こりました。何があったのかは、パウロは手紙の中にはっきりとは記されてはいません。パウロにとっても、コリント教会に人々にとっても、衝撃を与える出来事が起こったようです。

 

おそらく、コリント教会の一人の教会員が、パウロに向かって使徒としての資格を糾弾する出来事が起こったのではないか、と考えられます。一人の教会員が、パウロと大勢の教会員の前で、「パウロには使徒の資格がない」と糾弾したのです。

またその人はパウロには使徒の資格がないと批判すると同時に、パウロの人格をも攻撃したようです。パウロは「弱々しく」「頼りない」人で、そもそも指導者としての資質が足りない101節、10節)、と。

 

本日の聖書箇所は、パウロがその出来事を後に回想しながら記した文章です。5節《悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです》。ここでは《その人》の名前は伏せられています。当人への配慮のためでありましょう。またその出来事のことはパウロとコリント教会に人々には自明のことであるのでその詳細の説明は省かれています。この出来事はパウロとコリント教会のすべての人に大きなショックと悲しみを与えた事件となりました。

 

教会を「分裂させる」ための企て

コリント教会を大きく動揺させたこの事件は、パウロとコリント教会を「分裂させる」ために、外部からやってきた指導者たちが意図的に企てた出来事だったのではないか、と考えられます。

指導者たちは次のように計画したのではないでしょうか。まず始めに、コリント教会の一人の教会員を自分たちの味方につける。自分たちがいかに力のある人物であるかを言葉巧みに印象付け、またパウロがいかに使徒としてふさわしくないかの否定的な情報を吹き込む。この指導者たちは他者を「説得」する能力に長けていた人々でした。弁論を得意とする複数の人に囲まれ、偏った情報を聞かされ続けたら、どんな人でも正常な判断力を失ってゆくことでしょう。そうしてその教会員に、パウロを糾弾するように仕向けるのです。

 

つまり、この度の事件はこの指導者たちが背後から扇動していた出来事であったのです。教会員の人が語ったパウロへの批判の言葉も、その人自身が判断したことというよりは、そっくりそのまま指導者たちから言われた通りのことだったのではないでしょうか。

教会員が面と向かってパウロを否定することは、パウロにも教会全体にも大きなショックを与えることになるでしょう。教会があたかも「分裂」してしまったかのような印象を、皆に与えることでしょう。その効果を計算しての、企てでした。実際にパウロはその出来事によって大きなショックを受け、コリント教会の滞在を途中で切り上げざるを得ない状態になってしまったようです。パウロもその場では混乱して、その一人の教会員の意見が、教会全体の総意であると誤解してしまったかもしれません。大きなショックを受けつつ、パウロはコリント教会を後にしました。

 

事情を知ったコリントの人々

エフェソに戻ったパウロは、嘆きに満ちた心で、コリントの教会へ手紙を書きました。4節《わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました》。パウロは涙ながらに、コリント教会に対する自分の想いを、激烈な調子で改めて伝えたようです。その手紙を書いたのは、4節後半《あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした》。パウロの真心のこもった手紙はコリントの人々の心を打ち、再び彼らに正常な判断力を取り戻させることに成功したようです。コリント教会の人々は、何かがおかしい、と気付き始めました。

この度の事件は何かがおかしい。何か、意図的に教会の交わりを「壊そう」とするような、悪意が働いているような気がする、と。そうして色々と調査する中で、この度の出来事の真相を突き止めるに至ったのではないでしょうか。

 

コリント教会の人々は全体会議を開き、この度自分たちの教会に起こった事件の真相を確認しあったのではないかと思います。そして事件の首謀者である指導者たちに、教会から出て行ってもらう旨を伝えた。指導者たちはコリント教会を立ち去ることとなりました。

また同時に、利用されてしまった教会員にも、皆の前で厳重な勧告を行ったのではないかと思います。場合によっては、しばらく皆と共に会食することを禁ずるような処置をとったのかもしれません。

そしてコリントの人々は、この度の事件はあの指導者たちが計画したことであって、教会全体が関わっていることではない、ということをパウロに釈明しました711節)。こうして、事件はひとまず、解決の方向に落ち着くこととなりました。

 

赦して、力づけること

パウロは手紙の中で、改めてこの度の事件を振り返り、利用されてしまったあの教会員のことを気にかけています。6節《その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です》。

自分が利用されていたことを知ったその人は大いに恥じ入り、自分のしてしまったことを悔いていることでしょう。もうそれ以上その人を責める必要はない、とパウロは述べます。7節《むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです》。その人が悲しみに飲み込まれてしまわないように、教会全体で、赦し、力づけるべきである、と。パウロももちろん、その人を通して深く心を傷つけられました。けれども、その人をもう恨んではいないようです。パウロはすでに、その人をパウロは赦しています。

一つには、ことの真相を理解した、ということがあるでしょう。その人はあの指導者たちによって利用されたのだということを、パウロはいまは理解しています。不正を行った張本人はあの指導者たちであって、その教会員はその不正を受けた被害者である、とパウロは受け止めていたようです(参照:712節)

 

あたたかく迎え入れること

パウロはすでにその人を赦していますが、その本人はいまだ自分のことを責めているでしょう。こんなことをしてしまった自分は「もう赦されることはない」と思っているかもしれません。教会の皆にも、主にも、そしてパウロにも、赦されないことをしてしまった、と。しかしそれは誤解です。私たちの犯す過ちで、赦されることのない過ちは存在しません。パウロは続く8節では、《そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください》と語ります。

ここでの「愛する」ということには、心情としてその人を「愛する」というだけでなく、その人を教会に改めて迎え入れるための具体的な決議をする、というニュアンスが含まれています。

もちろんコリント教会の人々も心情としては、いまだその人に対するわだかりは残っているでしょう。真相がはっきりしたとしても、いざその人を前にすると、やはり複雑な思いがあるでしょう。けれどもここで大切なのは、教会全体でその人をあたたかく迎え入れるための行動を起こすことです。いまは心情ではわだかまりはあっても、行動をもってその人をあたたかく迎えるということをしてほしい、とパウロは伝えます。それがいまは大事なことであり、そうすることによっていつしか、心の中のわだかまりも消えてゆくことでしょう。

具体的な決議と言いますのは、たとえば共に会食に与ることを禁止していたのなら、本日をもってそれを取りやめる。そして今までと同じように、その人が教会の交わりに入ることができるような、思いやりをもった決議をすることが大切なことであるとパウロは伝えます。それがここで、具体的に「愛する」ということであるのです。

 

続けて、パウロは語ります。10節《あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです》。少し分かりづらい文章になっていますが、ここでパウロは二つのメッセージを送ろうとしているようです。一つは、教会員の全体に向かって、「どうかその人を赦してあげるように」というメッセージです。もう一つは、他ならぬ過ちを犯したその人に向かっての、「私はあなたを赦しています」というメッセージです。この二つのメッセージが込められているので、少し複雑な文章になっているのではないかと思います。

手紙の言葉がその人にも届けられることを願って、パウロは記しています。当時、パウロの手紙は大勢の人の前で朗読されていたようです。あの人も、会堂のどこかで、そっと耳を澄ませているかもしれない。パウロはその人本人に向かって、自分がもうすでに「赦している」ことを伝えたかったのではないかと思います。

 

サタンの意図に気づく

もちろん、パウロも一人の人間です。初めからそのように平安な心境でいられたわけではないでしょう。コリント教会からエフェソに戻って間もない頃は、激しい憤りを感じたこともあったのではないかと思います。怒りによって眠れない夜もあったかもしれません。パウロであっても、否定的な想いに囚われる時もあったことと思います。「もういやだ」、「疲れた」、「ゆるせない」、「全部無駄だったのではないか」「もうすべて投げ出してしまいたい」……。パウロ自身の心を、次第に否定的な想いと暗闇が支配し始めていたこともあったかもしれません。

 

 私たちもまた、否定的な想いに囚われることがあります。私たちはその時、大切であったはずのものを自ら傷つけたり、壊してしまいたいという衝動に囚われることがあります。パウロは、私たちを支配しようとするこの破壊的な衝動は、サタンによる働きかけである、と受け止めていました。

 

 聖書において、サタンの働きとは、「分離を引き起こす力」として描写されています。サタンの意図とは、私たちが互いに敵対し合い、分裂してしまうことです。私たちが誰かに対して怒りを覚えるほど、サタンは(いいぞ、もっと怒れ)とけしかけます。たとえば、パウロが自分を傷つけた教会員に対して怒りを覚えるほど、サタンは(いいぞ、パウロよ、もっと怒れ。教会のつながりなど破壊してしまえ)とけしかけたでしょう。自分が最も大切にしようとしていたものを、自ら壊そうとしてしまう。パウロはそれこそが、サタンの働きかけであることに気が付いていました。

 

11節のパウロの言葉は、このような自らの経験を踏まえて記された言葉であるということができます。11節《わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです》。サタンは、キリスト者同士が互いに赦しあわずに「分裂する」ことこそ、目論んでいます。それが、サタンの意図です。「あの人をゆるせない」と私たちが互いに敵対すればするほど、サタンの思うつぼとなります。

 

この意味において、この度の事件のまことの首謀者とは、「分離を引き起こすために働く」サタンであったということができるでしょう。あの指導者たちも他者を利用しているつもりでいて、知らずしらずサタンに利用されていたのです。

 

キリストの前で

 改めて10節の後半をお読みしますと、《キリストの前であなたがたのために赦した》という言葉があります。ここで私たちにとって大切であるのは、《キリストの前で》という言葉です。サタンの働きが「分離を引き起こす力」であるとすると、キリストの働きと、「分離したものを、再び結び合わす力」です。イエス・キリストは、私たちの目から見ると修復不可能に思える、あらゆる分裂を結び合わしてくださいました。私たちの間にある敵意という隔ての壁を取り除き、平和を実現してくださいました(エフェソの信徒への手紙21416節)

 

私たちが破壊的な力に同化するのではなくて、平和をつくりだすこのキリストの力に結ばれることが、大切です。そして現実にいま、私たちはこのキリストの力に結ばれています。このキリストの力こそ、私たちの心の中の最も深みに宿っている力です。私たちがこの“まことの現実”を思い起こすことによって、暗闇はその力を失い、“まことの現実”であるキリストの光と平和が、私たちの心の中を満たしてゆきます。パウロもこのキリストの平和に結ばれている自分を確認することによって、再び心に平安を得たのではないでしょうか。

 

「すべてを結び合わせてくださる」このキリストの前に立ち、その光に照らされることによってこそ、私たちは互いに赦しあう道へとその一歩を踏み出すことができます。もちろん、和解が起こるには時間がかかることでしょう。しかしキリストの前に立つことによって、少なくとも私たちは、大切な関係を衝動的に壊してしまう状態から、一歩外へ抜け出ることができるでしょう。そして、冷静さと思いやりをもって、忍耐強く自分自身と他者を見つめることができるようになってゆきます。

ここに集ったお一人おひとりの上に、キリストの光と平和が、今日もこれからも、いつまでも、ありますように。