2013年11月10日「命から命に至らせる香り」

201311月10日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二21217

(詩編第16711節、使徒言行録22228節)

命から命に至らせる香り

 

聖書と香り

聖書の中には、さまざまな「香り」が出てくる、というと意外な印象を持たれるでしょうか。聖書には「無臭」というイメージがあるかもしれませんが、実際は、さまざまな香りで彩られています。

 

たとえば旧約聖書の『雅歌』という書には、全編にわたって、思わずむせかえりそうになるくらい、さまざまな草花、果物、香油の香りが登場します。雅歌41215節《わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。閉ざされた園、封じられた泉。/ほとりには、みごとな実を結ぶざくろの森。ナルドやコフェルの花房/ナルドやサフラン、菖蒲やシナモン 乳香の木、ミルラやアロエ さまざまな、すばらしい香り草。/園の泉は命の水を汲むところ レバノンの山から流れて来る水を》。

今読んだ数節だけでも、多くの香りが登場しています。日本に住む私たちにはなじみのない草花も登場していますが、これを読んだイスラエルの人は、どれほどの香りを思い起こすことでしょう。

 

 旧約聖書において、もっとも強烈な、またもっとも重要な香りとして登場するのは、祭儀において用いられる《焼き尽くす献げ物》の香りです。《焼き尽くす献げ物》とは、古代イスラエルの人々が神さまに対してささげていた犠牲の献げ物のことを言います。牛や羊などの家畜を犠牲の献げものとして、解体して、祭壇の上で跡形もなくなるまで焼くのです。その祭壇から立ち上る「香り」が、神さまへの献げものとなると考えられていました。動物の体そのものではなく、焼かれたその肉から立ち昇る「匂い」が神さまへの献げものとなる、とされていたところが古代イスラエルの独特なところです。古代イスラエルの神殿の周りにはおそらく、焼肉屋さんのような香り(!)がたちこめていたのでしょうね。

 

イエス・キリストと香り

《焼き尽くす献げ物》に代表されるように、旧約聖書において「香り」は、まず第一に、「神さまへの献げもの」として位置づけられていました。では、新約聖書においてはどうでしょうか。旧約聖書に比べると、新約聖書において「香り」はあまり目立たなくなっているようにも思えます。読んでいる中で気づかされることは、イエス・キリストのおられるところにまた香りも登場している、ということです。

 

たとえば、イエスさまがお生まれになったときに三博士たちからの贈られた《黄金、乳香、没薬》。この献げ物の内、乳香と没薬は「香り」に関わる贈り物です。

 

また、イエスさまが十字架に向かわれる前に、一人の女性がイエスさまにナルドの「香油」を注ぎかけた、というよく知られたエピソードがあります。この瞬間、《家は香油の香りでいっぱいになった》とのが福音書には記されています(ヨハネによる福音書123節)。新約聖書の中で、「香り」がもっとも前面に出てくる場面であるといえるでしょう。

しかしそれはただ、「良い香り」として登場しているわけではありません。イエスさまご自身がこの出来事を説明してこのようにおっしゃっています。《この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから7節)。つまり、この香りは、イエスさまの「埋葬」のための香りであったのだということが分かります。先ほど取り上げました三博士たちから送られた乳香と没薬もまた、埋葬に用いられることがある品でした。

 

新約聖書では香りはイエス・キリストと結びついているということを述べましたが、それは特に、イエス・キリストの「死と埋葬」と結びついているということが分かってきます。

 

埋葬と香り

亡くなった人の遺体に良い香りのする香油を塗るのはイスラエルの人々の昔からの埋葬の習慣でした。日本では奈良時代あたりから火葬が広まり、一般的になっていますが、イスラエルでは遺体はそのまま布にくるんで墓に納めるという仕方が一般的でした。

であるからこそ、「香り」が重要となります。香りは死の現実をやわらげ、それを「覆い隠す」役割も果たしてくれるからです。良い香りのする香油を塗り、香料を添えて布で遺体を包む(参照:ヨハネによる福音書193940節)ことは、また実際的には、遺体を清潔に保つと共に、遺体から生じる匂いを消すという意味合をもっていました。

もちろん、亡くなった人の体を良い香りで覆ってあげることは、残された人々の愛情の表現、哀惜の表現の一つでもあったでしょう。新約聖書には、主イエスが墓に葬られた後、主イエスのご遺体に香油を塗りに行こうと急ぐマリアたちの姿が記されています(マルコによる福音書1612節、ルカによる福音書2355節‐241節)。亡くなった主イエスへの愛のゆえ、マリアたちは香油をもって墓へと急いだのです。

 

「キリストの香り」

キリスト教会の中で用いられる言葉として、「キリストの香り」という言葉があります。私たちキリスト者は「キリストの香り」を運び、人々に届けるものである、というような使われ方をします。この言葉の由来の一つとなっているのが、本日お読みしましたコリントの信徒への手紙二215節です。15節《救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです》。

 

「キリストによって神に献げられる良い香り」という言葉を、直訳で言い直しますと、「神に献げられるキリストの香り」となります。私たちキリスト者は、神さまにささげられる「キリストの香り」である、というのです。

 

 クリスチャン一人ひとりを通して「キリストの香り」が立ち昇る――では、その「キリストの香り」とはどのようなものなのでしょうか……?著者パウロは手紙の中で続けて次のように述べています。16節《滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか》。

不思議な言葉です。その「キリストの香り」とは、ある人々にとっては《死から死に至らせる香り》であり、ある人々にとっては《命から命に至らせる香り》というのです。

このパウロの言葉から推測できますことは、ここで言われている「香り」とは、万人が「よい香り」であると受け止めるような香りではない、ということです。ある人々にとっては、その香りを嗅ぐのをできれば避けたいような香りでもある。

 

私たちに苦手な香りがあるとしたら、香りそのものが苦手だ、と言う場合と、その香りそのものは本来嫌ではなかったけれども、その香りが嫌な記憶を思い出させるためその香り自体が苦手である、という場合があるでしょう。たとえば、イスラエルの人々にとっては、埋葬に使用される香油の香りもそのような香りの一つであったかもしれません。もちろん、生活の中で楽しむ限りにおいてなら「良い香り」であるでしょうが、もしそれが大切な人の埋葬に用いられた香りであったのなら、以後好んでその香りを嗅ぎたいとは思わなくなるでしょう。その香りを嗅ぐたび、愛する人を葬った時の悲しみや辛さもまた、ありありと思い出してしまうからです。時に私たちの記憶をもっとも強烈に喚起するものが「匂い」です。

 

ここで言われている「キリストの香り」も、そのような香りなのではないかと思います。多くの人々にとってはむしろ、悲しみや辛さを思い出させてしまうような香り――。端的に言いますと、悲惨な「死」を思い出させてしまうような香りでありました。

 

十字架の香り

なぜなら、パウロが言う「キリストの香り」の「キリスト」とは、まず第一に、「十字架におかかりになったキリスト」であるからです。パウロは十字架におかかりになり、そこで亡くなられた主の姿を念頭において、これらの言葉を語っています。それゆえ、人によっては受け入れることができない香りであるとされているのでしょう。

 

十字架の上で亡くなられたイエス・キリストの姿は、ここでは、旧約聖書の《焼き尽くす献げ物》のイメージとも重ねあわされています。動物が焼き尽くされ、煙となって、犠牲の献げ物となるのと同じように、神の子イエス・キリストご自身が十字架の上で犠牲の献げ物となった。その香りが、キリストの香りである――強烈なイメージです。「良い香り」という表現では本来言い表せないような、強烈な表現です。

 十字架の上で悲惨な「死」を遂げた方から発される「香り」を、「良い香り」であると表現する。このパウロの強烈な表現の言葉を初めて聞いた人々は、びっくりしたのではないかと思います。いまでこそ十字架はキリスト教の大切なシンボルとなっていますが、当時、十字架刑は人々からもっとも忌み嫌われていたものでした。目にするのもおぞましい、忌み嫌うべきもの、それが十字架でありました。その十字架から発される「香り」を、当時、一体誰が好んで嗅ぎたいと思ったでしょうか。

 

手の中の香油 ~埋葬の香りから、復活の香りへ

 もし、十字架の「死」ですべてが「終わり」であったのなら、誰もその香りを嗅ぎたいとは思わないことでしょう。けれども、十字架の「死」の先に復活の「命」があるからこそ、私たちはそれが《命から命に至る香り》である新しく受け止め直すことができます。

 

 マリアたちは主イエスが葬られた後、安息日をはさんだ明け方、香油をもって墓へと急ぎました。しかし、行ってみると墓は空でした。驚くマリアたちに、白い衣を着た若者が伝えます。《驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である(マルコによる福音書166節)

 この瞬間を境に、マリアたちの手の中にあった香油は、埋葬の悲しみを思い出させる香りではなく、新しい命の希望を思い出させる香りとなったことでしょう。復活の出来事を通して、同じ「香り」が、まったく新しい記憶を喚起させる香りへと、変えられたのです。

 

もちろん私たちには、思い出したくない香り、思い出したくない記憶があることでしょう。愛する人の死に立ち会った時、私たちは「香り」を通して、死の現実を突き付けられることもあると思います。私たちの存在が「死から死に至る」だけのものであるのなら、私たちはその香りを半永久的に自分の記憶の奥底に埋葬しておきたく思って当然のことです。

 けれども、私たちの存在がイエス・キリストを通して「命から命に至る」と知らされているからこそ、私たちはその香りを、私たちを永遠の命へと結びつける香りとして、自らの内に位置づけしなおすことができます。私たちが「死」の香りだと思ったその香りは、すべてが「終わってしまった」ことを示す香りでありませんでした。そうではなはなく、「新しい命を約束する」その香りであったのだと、いま、私たちは新しく受け止め直すことができます。

 

「死は終わりではない」

 パウロは14節で次のように語ります。14節《神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます》。

 パウロは神に感謝し、自分たちがキリストの勝利の行進に連なっていると述べます。主イエスが「死」に勝利された、その喜びの行進です。ここでは、華々しい勝利の凱旋行進のイメージが用いられています。ただし、その勝利は、イエス・キリストの十字架の死によってもたらされたものである、ということを、私たちは心に刻みたいと思います。

 

 イエス・キリストは私たちとまったく同じように死を経験してくださり、同じように墓に横たわってくださいました。私たちとまったく同じようにその体は、死の香りに覆われました。その香りは、私たちが死んだときにやはり私たちを覆うであろう、その「香り」です。主イエスはその死からよみがえられることによって、その死の香りを、永遠の命を約束する香りへと変えてくださいました。

 

私たちはいつか必ず、死を迎えます。私たちは死にゆく者です。しかし、よみがえられたイエス・キリストを通して、この死にゆくはずの私たちから発される香りもまた、《命から命に至る香り》であると新しく宣言することができます。「死は決して、終わりではない」――キリストの香りはいま、はっきりと、私たちにそのことを告げ知らせています。

 

命から命に至る香り

 土の中で朽ちてゆく種から漂う「香り」があるとしたら、果たしてそれは「死」の香りでしょうか。朽ち果ててゆく種は、その内に未来の芽を宿しています。春が訪れるとその種から、新しい芽が萌え出ます。私たちの目には朽ちて無くなってゆくように思えても、一粒の種は新しい命をその内に宿しています。

私たちの身体もまたそうです。私たちから発される香りは、たとえ私たちからは「死」の香りのように思えても、神さまの目から見るとそうではありません。それは、「新しい命」へとつながっている香りです。

 

朽ち果てた種から新しい芽が生え出るように、いつか時が来たるとき、イエス・キリストに結ばれたこの身体から、新しい命が現れ出る410節)。聖書はそう告げています。命の香りに包まれながら、私たちはまた再び愛する人々とも出会うでしょう。

 

最後に、使徒言行録22527節の御言葉をお読みいたします。《わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。/だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。/あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。/あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる》。

 

 私たちに、命に至る道を示してくださった父なる神さまに、共に感謝のお祈りをおささげいたしましょう。