2013年11月17日「心の板に書かれた手紙」

20131117日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二316

(エレミヤ書313134節、ヘブライ人への手紙81013節)

「心の板に書かれた手紙」

 

 聖書が指し示す“もう一つの現実”

最近はじめて聖書を読んでみた方がここにいらっしゃるとしましたら、聖書には一見、「~しなさい」という「命令」がずいぶんたくさん書かれているという印象を受けるかもしれません。たとえば、良く知られた御言葉に、《いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい》(テサロニケの信徒への手紙一51617節)というものがあります。使徒パウロの言葉ですが、これらの言葉を「命令」として受け止めるとしたら、大変なことになるのではないかと思います。

 

もちろん私たちはいつも喜びを感じて生活しているわけではありません。悲しみや、辛さや、不満をまた抱えながら生活しています。それが現実であるのにも関わらず、無理をしていつも喜んでいなければならないとすれば、それはすさまじい無理を自分に強いていることになります。

 

聖書において、「~しなさい」という「命令」で書かれている言葉は、ただ一方的に私たちに命令している言葉ではなくて、私たちに“まことの現実”を指し示している言葉である、ということができます。たとえば、引用した《いつも喜んでいなさい》という言葉は、「あなたはいつも喜んでいられるわけではない現実がある。しかしそれでもなお、あなたには消えることのない喜びがある」ことを指し示す言葉として受け止め直すことができます。たとえ私たちがいまはこの心に喜びを感じることができなくても、心の内にあるのはむしろ悲しみであっても、それでもなお、私たちには消え去ることのない喜びが与えられている。そのことをはっきりと指し示している言葉であるということができます。

 

聖書の中で、特によく知られた「掟」として、《互いに愛し合いなさい》という言葉があります(ヨハネによる福音書1334節)。イエス・キリストが私たちに伝えてくださったこの御言葉も、文章としては「命令」のかたちをとっていますが、ただ一方的な「命令」として、私たちに与えられているわけではありません。この言葉は、「あなたは愛することが“できる”」という神様からの確かな信頼に基づいています。

 

もちろん私たちは日々の生活において、いかに自分が愛することが“できない”か、痛感していることと思います。いかに普段自分が自分のことばかりを考えているか。自己中心的であるか。私たちは自分のことを振り返れば振り返るほど、そのことを実感します。しかし、それでもなお、わたしたちは愛することが“できる”者とされている――聖書は、私たちにこの“もうひとつの現実”を指し示しています。

 

 この“現実”とは、神さまの目から見た現実です。私たちの目から見ると、どれほど自分が愛のない人間のように思えても、神さまの目から見ると、私たちの内にはやはり、確かな愛が宿されている。聖書は私たちに、この「もうひとつの視点」を伝えています。私たちが自分の力では気づくことのできないこの“まことの現実”を、闇の中にともされ続けるともし火のように、私たちに指し示し続けているのが聖書です。

 

私たちは「キリストの手紙」

聖書の御言葉の中に、「私たちの心に神の掟が書き記されている」、という言葉があります(エレミヤ書3133節)。いまや神さまの言葉が私たちの心の内に書き記されているからこそ、私たちはその言葉を実行することが“できる”のです。

 

「愛しなさい」という言葉が、外から、一方的な「命令」として与えられているのだとすれば、その命令に従って愛そうとすると、必ず無理が出てくることでしょう。私たちにとって、「愛する」ことは、強制されてできることではないからです。しかし、「愛しなさい」という言葉が自分の心の内に記されているのであるとすれば、それはもはや命令ではなくなります。命令ではなく、自らの内の「促し」に基づいた行動となってゆきます。

 

《互いに愛し合いなさい》という掟はいま、私たち一人ひとりの心の中に書き記されています。では、私たちの心にその掟を書き記してくださった方はどなたでしょうか。

 

その方こそ、主イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちの心の最も深いところに、神の掟を記してくださいました。私たちが「命令」されてではなく、心から、互いに「愛する」ことができるようになるためです。

 

 本日の御言葉に、次の言葉があります。コリントの信徒への手紙二33節《あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です》。

 

 パウロは、私たちは一人ひとり、「キリストの手紙」であると告げます。イエス・キリストによって書かれた手紙であるというのです。私たちの心の中に、キリストを通して、神の言葉が記されているからです。

 

ただし、手紙は書かれただけでは手紙とはなりません。手紙は誰かに宛てて書かれ、誰かに手渡されてはじめて手紙の役割を果たします。私たちの心の内に書き記された神さまの言葉もまたそうでしょう。それらの言葉は、誰かに伝えられることを待っています。

 

工藤直子さんの詩「あいたくて」

 わたしがふと思い出したのは、詩人・工藤直子さんの「あいたくて」という詩です。教科書で取り上げられることもあるので、ご存じの方も多いかもしれません。

 

《あいたくて

 だれかに あいたくて/

 なにかに あいたくて

 生まれてきた──

 そんな気がするのだけれど

 

 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのか──

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから

 

 あいたくて》。

 

 私たちが幼い頃から感じ続けていた、普段言葉にはできないけれど確かに感じている事柄が、見事に、美しく表現されている詩です。詩の言葉にありますように、私たちは日々の生活の中で、《おつかいの とちゅうで/迷ってしまった子どもみたい》に《とほおに くれて》います。自分が誰なのか、何をしにここにいるのか、よく分からなくなってしまっています。しかしそれでも、《手のなかに/みえないことづけを/にぎりしめているような気が》します。《だれかに あいたくて/なにかに あいたくて/生まれてきた──/そんな気が》します。

 

 この感覚は、私が自分の内に神さまの言葉が書き記されているということを思うときに感じる感覚と共通しているように思います。

 

 普段の私は、自分が誰なのか、何をしにここにきているのか、よく分からなくなっていることがあります。しかしそれでも、神さまからあずかった大切な《ことづけ》を握りしめているような気がします。それを大切な誰かに伝えなくてはならないという強い「促し」を感じます。

 

 それは私たち一人ひとりが、「キリストの手紙」であるからと考えると、しっくりと来るように思います。私たちの内には大切な神様の言葉が書き記されていて、まだ見ぬ誰かにそれが読まれることを待っているのです。大切な誰かに読んでもらうことを願っているのです。

 

 それが誰なのか。それがいつなのか――。それはきっと一人ひとりによって異なることでしょう。すでに出会っているかもしれませんし、まだ出会っていないかもしれません。しかし一人ひとり、出会うべき大切な存在が与えられているはずです。そのすべてを知っているのは、ただ神さまお一人だけです。

 

私たちの内に宿されている愛は、具体的な誰かを目の前にしたときこそ、愛となって現れます。それまでは愛は、いわば、眠っているような状態です。愛は、愛となって目覚めはじめるその時を、ずっと待ち続けています。

 

心の板に書かれた手紙

  パウロは、私たちが「キリストの手紙」であることの説明として、さらに次のように述べています。《墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です》

 

 ここに《石の板》という言葉が出てきました。この《石の板》とは、旧約聖書においては、モーセに手渡された《石の板》のことが言われています。この《石の板》には、十戒をはじめとする神さまの言葉(すなわち律法)が書き記されていました出エジプト記3118節)

旧約聖書においては、神さまの言葉は《石の板》に、文字として、書き記されているものでした。しかしいまや、神さまの言葉は私たちの《心の板》に記されている、とパウロは語ります。

 

このことは、パウロが考え出した表現ではなく、旧約聖書の時代にすでに「預言」として言われていたことです。預言書のひとつであるエレミヤ書に、次の言葉があります。

《来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる》エレミヤ書3133節)

 このエレミヤ書の言葉の中に、《わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す》という言葉があります。パウロはこの預言が、イエス・キリストによって、いまや成就したのだと考えていたのです。イエス・キリストが私たちの心の中に神さまの言葉を書き記してくださいました。ですので私たちはもはや、互いに「主を知れ」と言って命令しあうことはありません。すでに一人ひとりが、自らの内に神の言葉をもっているからです。この新しい状況においては、一人ひとりが、自らの内にある神の言葉の促しに従って行動をしてゆくこととなります。イエス・キリストによって、私たち人類の歴史に、この大転換が起こったのです。このまったく新しい神さまと私たちの関係性は、《新しい契約》という言葉で呼ばれています。

 

 パウロは6節で、次のように述べています。6節《神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします》。

 

 私たちにはこの《新しい契約》に仕えるのにふさわしい者とされているのだとパウロは語ります。私たちは文字で書かれた言葉ではなく、私たちの心の中に生きて働く、霊の言葉に仕える者です。パウロは《文字は殺しますが、霊は生かします》と語ります。もし私たちが神さまの言葉を文字で書かれた言葉としてのみとらえ、一方的に「命令」しあうなら、それは互いの心を深く傷つけ損なうものとなってしまうでしょう。しかし私たちが神さまの言葉を自らの心の内に記されたものとしてとらえ、互いにその言葉に導かれて生きてゆくことを願うなら、それはお互いを「生かす」ものとなってゆくでしょう。

 

 そして私たちは、イエス・キリストを通して、それを現実に行ってゆくことが“できる”者として、新たにされています。どれほど自分自身にその力がないように思えても、その資格がないように思えても、神さまの目から見ると、私たち一人ひとりが「ふわさしい」者とされています。

 

 忙しい生活の中で、ふと立ち止まって自分の心に耳を澄ませてみると、雑多な想いのさらにその向こうに、何かからの、誰かからの「呼び声」を私たちは感じることがあります。大切な誰かに、大切な何かを伝えなくちゃ、という強い「促し」を感じることがあります。それは私たち一人ひとりが、誰かに届けられつつある、また読まれつつある「キリストの手紙」であるからです。

 

「球根の中には」

先ほど教会学校のメッセージの後に、『球根の中には』という讃美歌を歌いました。《球根の中には 花がひめられ、さなぎの中から 命はばたく。寒い冬の中 春はめざめる。その日、その時を ただ 神が知る》。この讃美歌を歌うと、大切な何かを思い出すような気持になることがあります。自分自身の内に宿されている大切な何かを、思い起こすような気持になります。

 

ここではそれは「命」と表現されています。球根の中に秘められた花のように、さなぎの中に秘められた新しい命のように。寒い冬のただ中で目覚める春の息吹のように。私たちの心の内には、神さまからの「命」の言葉が、種として宿されています。

 

それはいまだ完全には芽を出してはいないかもしれません。けれども、雪の下の球根のように、芽を出すときを待っています。自らの内の強い「促し」に導かれ、時が来た時、それは芽を出します。讃美歌では《その日、その時を ただ 神が知る》と歌います。

 

ここで「命」と表現されていることは、「愛」という言葉でも言い換えることができるかもしれません。《球根の中には 愛がひめられ、さなぎの中から 愛ははばたく。寒い冬の中 愛はめざめる。その日、その時を ただ 神が知る》。

私たちの目から見ると、雪の下に放り出された球根でしかないように思えても、神さまの目から見ると、それは確かに未来の芽を宿しています。私たちの目から見ると、私たちには愛がないように思えても、神さまの目か見ると、私たちの内には、確かに愛が宿されています。私たちが自分の力では気づくことが出来ないこの世界の“まことの現実”を、神さまは聖書を通して、私たちに伝えようとしてくださっています。

 

聖書は私たちに伝えます。私たちは一人ひとり、神さまの言葉が記された「キリストの手紙」です――。このことを“まことの現実”としていま新しく、共にこの心に受け入れたいと願います。

共に父なる神さまにお祈りをおささげいたしましょう。