2013年11月24日「心を覆いを除かれて」

20131124日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二3717

(出エジプト342935節、使徒言行録9119節)

「心の覆いを除かれて」

 

はじめに

新約聖書のある個所を読む時、その前提となっている旧約聖書の言葉を読むと、より理解が深まるということがあります。または、その前提となっている旧約聖書を踏まえていないと、よく理解ができないという新約聖書の言葉もあります。本日のコリントの信徒への手紙二の聖書箇所はそのような箇所です。ここでは、旧約聖書のある部分が、前提として語られています。ですので、その前提となっている箇所が分からないと、パウロがそれを踏まえて何を語られようとしているのかもよく分からなくなります。

 

たとえば7節に、《モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光》という言葉があります。手紙の宛先であるコリント教会の人々は、この言葉だけで、パウロが旧約聖書のどの部分を引用しているのか、ピンときていたようです。しかしパウロたちのように旧約聖書の言葉になじんでいるわけではない、現代の日本に生きる私たちには、必ずしも自明の言葉ではありません。ですので、まずは、パウロが旧約聖書のどのような箇所を前提としているのか、ごいっしょに読んでみたいと思います。

 

モーセの顔の光

 花巻教会の水曜日に行っている祈祷会では現在、旧約聖書『出エジプト記』を読んでいます。ここでパウロが前提としているのも、この『出エジプト記』に記されているある場面です。

 

 この『出エジプト記』の342930節にこのような一節があります。《モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。/アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった…》。

 ここで、モーセの顔の肌が光を放っていた、という言葉があります(モーセというのは映画『十戒』にも主人公として登場する、旧約聖書を代表する人物です)。モーセがシナイ山で神さまと対話をしている間、その顔が光を放つようになったというのです。不思議な場面です。

 

 モーセの顔はなぜ光を放って見えたか。それは、神さまと対話していたからです。神さまの栄光の光が、モーセの顔に反射して、人々に輝いて見えたのでした。太陽の光を反射して、月が夜空に輝いているような状態です。

 

パウロはこの印象深い箇所を引用して、コリントの信徒への手紙二37節で、次のように語っています。78節《ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、/霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか》。

 

前提となっている箇所を確認してもなお難しい(!)文章ですが、この文章の中に、《モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光》という表現があります。モーセの顔が栄光で輝いていたので、イスラエルの人々は彼の顔を見つめえないほどであった。

パウロはモーセの顔の輝きを私たちに思い起こさせながら、それをも超えるさらなる輝きが、自分たちには映し出されている、と語ります。あのモーセの栄光よりも、はるかに優れた栄光10節)が、いまや自分たちには与えられているというのです。

 

律法に仕える務めと、福音に仕える務め

モーセが託されていた栄光ある務めとは、十戒をはじめとする「律法」に仕える、という務めでした。7節に《石に刻まれた文字》という表現がありましたが、それは石の板に記された律法を指し示しています。絵画でもよく、十戒をはじめとする律法が書かれた二枚の板を手にもつモーセの姿が描かれています。モーセは律法を人々に取り次ぎ、それを守らせる役割を担っていたのですね。それは選ばれたモーセのみがなすことができる、栄光ある務めでした。

 

しかし、イエス・キリストがこの世界に遣わされたことによって、モーセのその務めはついに役割を終えたのだ、とパウロは考えていました。かつてもっとも栄光あることとされたその務めは、もう役割を終えた。これからは私たち一人ひとりが、さらなる栄光ある務めにつくようにと招かれている。

それは、イエス・キリストの「福音」に伝える、という務めです。

 

福音――「よい知らせ」。

イエス・キリストがもたらしてくださった福音は、律法のもっていた栄光をはるかに凌駕するものでした。律法が夜空に輝く月であるとすると、福音は、それを照らす太陽の光のようなものです。夜は去り、ついに朝の光が私たちを照らすときがきたのです。朝が来て、月はその役割を終えました。

 

心に記された律法

「福音」の内容というのは、私たちの言葉では言い尽くせないものです。世界のすべてを照らし出す朝の光を、私たちが把握しきれないように。しかし、何が新しくなったか、たとえばその一つのことを取り上げるとしましたら、「律法はもはや石の板にではなく、私たちの心の板に記されている」ということがあります(3節)。もはや「~しなさい」という命令されてではなく、私たちは自らの心に記された律法によって行動してゆく者とされているのです。互いに命令し合うのではなく、互いが心からの想いによって行動する者とされている。わたしたちはいまや、それが「できる」者とされている――イエス・キリストは、私たちにこの喜びの務めを与えてくださいました。

 

命令されてなしたことは、長続きはせず、いつかは消え去ります。しかしそれが心からの願いによってなされたことであれば、いつまでも消え去ることはないでしょう。モーセの顔の輝きはいつかは消え去るでしょう。しかし、イエス・キリストによってもたらされる光は、いつまでも消え去ることはありません。

 

モーセの顔の覆い

1213節《このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、/モーセが消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません》。

 

 パウロは、このような希望を抱いているので、自分たちは確信に満ちあふれてふるまっている、と語ります。そして、ここでパウロは、自分の顔に「覆い」をかけたようなことはしません、と続けます。これも一見、何を言おうとしているのかよく分からない言葉です。この言葉も、先ほどの『出エジプト記』が前提となっています。モーセの顔が光を放っていたという場面は、次のように続きます。出エジプト記343235節《その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。/モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。/モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。/イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた》。

 

 モーセが顔の輝きを隠すため、顔に「覆い」を掛けたというエピソードを、パウロは引用しているのですね。モーセは神さまから律法を受け取るとき、またその律法を人々に命じるとき、その光栄ある務めを表すように、顔が光を放っていました。人々に律法を命令しないときは、顔に覆いがかかっていました。

 

 ここでパウロは、独自の解釈の仕方をしています。モーセは《消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けた》というのです。モーセの顔の輝きも、いつかは消え去ってしまう。光栄ある務めもいつかは終わる。モーセはその輝きの「終わり」を、イスラエルの人々に見せたくなかったのだ、と。

 

終わりとはじまり

 確かに、「終わり」というものは悲しいものです。そしてその「終わり」の後に「はじまり」が訪れないのであれば、私たちはその「終わり」を見たいとは思わないでしょう。

 一つの時代が終わるとき。確かに私たちは一抹の淋しさ、悲しさを覚えます。しかしよく耳を澄ませてみると、次の時代の足音をも、私たちは聴き取ることができます。

 

 それはまた、私たちの生涯も同様です。

 もし私たちの人生が、「死で終わり」であるのなら、私たちはその最期を見たいとは決して思わないでしょう。私たちの存在が、ただ「消え去る」ものであるなら、私たちはその「終わり」に覆いをかけて隠したく思うことでしょう。

 しかしイエス・キリストが私たちに伝えた福音は、「死は終わりではない」ということを私たちに告げています。死は確かに私たちすべてに訪れます。しかし死は「終わり」であると同時に、「はじまり」でもあります。「終わり」の悲しみを抱きながらも、同時に「はじまり」の希望をも、抱いていることができます。

 

 モーセに象徴された、栄光ある時代は終わりを告げました。一つの時代が終わりました。しかしそれは新しい時代の幕開けでした。栄光ある時代よりもはるかに光り輝く、新たな栄光の時代が訪れたのです。だからこそ私たちはもはやその「終わり」に覆いを掛け、喪に服し続ける必要はなくなりました。

 

方向転換

 では新しい時代とはどのような時代か。それは、「石の板に記された律法に命令されてではなく、心に記された律法に従って、自ら考え行動してゆく者となる」という時代です。律法を命令することは、もはや光栄ある務めではないのです。むしろいまや、律法を命令しあうとき、私たちの顔には覆いがかかっている、という状況になっています。

 

夜は終わり、ついに朝が来ました。朝が来たからには、私たちは朝の身支度をせねばなりません。しかしいまだ多くの人々はいまだ夜のままの意識でいる、とパウロは心を痛めていました。

 

 ではどうすればいいか。パウロの答えはシンプルなものです。16節《主の方に向き直れば、覆いは取り去られます》。イエス・キリストのおられる方に向き直れば、覆いは取り去られる、というのです。命令されて生きるのではなく、心の中の掟に従って生きる方へ私たちが「向き直る」とき、心の覆いは取り除かれます。

 

内なるキリストに誠実であること

 しかしこれも、「イエス・キリストを信じなさい」と有無を言わさず強要するとすれば、それは命令になってしまうでしょう。それがどんなに「よい」ことであると本人が確信しているとしても、その時点で、それは(パウロが用いる意味での)「律法」になってしまいます。

 むしろ、「あなたの心の内に“すでに”おられるキリストに誠実でありなさい」と表現したほうが適切であるということができます。なぜなら、私たち一人ひとりの心の内に、“すでに”キリストはおられるからです。私たち自身の想いとなって、願いとなって、キリストはすでに私たちの内におられます。

 

 この新しい状況において私たちに求められているのは、「キリストを信じるか否か」ということよりもまして、「内に“すでに”おられるキリストにいかに誠実であるか」ということです。このことがいまや、重要な意味をもっています。内なるキリストの“声”(語りかけ)と自らの想いを合わせ、いかに誠実に生きるか、ということが私たちにとって重要なこととなります。たとえ「イエス・キリスト」ということを言葉に出さなくても、互いに思いやるとき、お互いの心の内にはキリストがおられることでしょう。

 

目には見えない栄光

 この驚くべき新しい状況は、かつて2000年前に、イエス・キリストを通して実現しました。そしてそれはいまも、実現しつつある出来事です。むしろこれからこそ、私たちはこの新しい状況にまことに向かい合ってゆくこととなるでしょう。

 

 エレミヤ書に、次のような預言の言葉があります。

《来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われ。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない》エレミヤ書31章-34節)

 来たるべき日に、神さまの律法が人々の心の中に記されるというのです。パウロは、この約束の出来事が、イエス・キリストを通して実現されたのだと確信していました。イエス・キリストご自身が神さまの掟として、いま、私たちの内に生きてくださっているからです。

 

 ただしそれは現在進行形として、実現しつつある出来事でもあります。パウロは最後に次のように語ります。

18節《わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです》。

 

 命令されてするのではないからこそ、時間もまたかかります。私たちが自分の内におられるキリストの“声”(語りかけ)を聴きとってゆくには、長い時間がかかります。この栄光ある務めは、私たちの忍耐と、長い時間を必要とします。しかし確かに、主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと進んでいっています。私たちは一日一日、主の光によって新たにされながら、確かに前進していっています。

 

 モーセの顔の光のように、私たちの目にこの輝きは見えません。しかしモーセの栄光をはるかに優る、大いなる栄光が私たちには与えられています。内なるキリストの輝きです。

 

 どうぞ私たちが、いま私たちの内におられるイエス・キリストに誠実でいることができますように。いま内におられるキリストの願いが、私たち自身の心からの願いになりますように。

共に父なる神さまにお祈りをおささげいたしましょう。