2013年11月3日「主イエスは涙を流された」

2013113日花巻教会 永眠者記念礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書第112837

「主イエスは涙を流された」

 

永眠者記念礼拝に際して

今日は「聖徒の日」です。いま日本基督教団に属する多くの教会で、召天者の方々を記念しての礼拝がささげられています。花巻教会ではこの一年の間に、O姉妹が主のみもとに召されました。ご家族、ご友人の皆さまの上に、またO姉妹につながるすべての人の上に、主の慰めがありますようお祈りいたします。

 

 永眠者記念礼拝において私たちは、神さまのもとに召された人々のことを思い起こします。愛する人の懐かしい面影。自分を呼ぶ声。折に触れ思い出される、無数の思い出――。それら記憶は私たちを励まし、私たちに「生きる」力を与えてくれるものです。

 

亡くなった愛する人は、「私たちの記憶の中に生きている」。これは多くの人が実感していることと思います。私たちがその人のことを思い起こし、忘れない限り、その人がこの地上に生きた証しは残り続けることとなるでしょう。このように目に見える場所に写真を飾ったり、また節目節目に記念会を行ったりというのも、私たちにとって大切な行為であると思います。

 

 一方で、どれだけ私たちが「忘れたくない」と思っていても、何らかの事情で私たちの記憶が不確かになってゆくこともあるでしょう。もしも私たちの記憶が不確かになってしまったら、それと同時にその人の存在も不確かになってゆくのでしょうか。亡くなった人々が、私たちの記憶の中にのみ生きているのだとしたら、そうであるでしょう。

 

 私たちがいま礼拝をささげているのは、亡くなった人々が「私たちの記憶の中に生きている」と共に、「神さまの大いなる“いのち”の中に生きている」ということを知らされているからです。亡くなった人々は私たちの記憶の中に生きているだけではなく、“永遠のいのち”の中に生き続けている――。聖書は私たちにそのことを伝えています。

 

愛する人の存在は、死をもって途切れてしまったのではない。いまも、神さまの“永遠のいのち”の中に生き続けている。であるからこそ、たとえ私たちの記憶がなくなってしまっても、その人の存在は不確かになることはないのだと、私たちは安心することができます。その人の存在自体が、いま、神さまのもとでしっかりと守られ続けているからです。

 

「どのように?」という問い

亡くなった人々はいま神さまの大いなる“いのち”の中に生かされている。一方で、では、「どのように?」と問うと、とたんに私たちは分からなくなってしまうこともあるでしょう。愛する人々はいま「どのような」状態にあるのか?そのような問いに、いまだ私たちははっきりと答えることはできません。聖書が“永遠のいのち”が「ある」ということを約束しつつ、しかしそれが「どのような」ものであるかという点についてはほとんど語っていないからです。語っているにしても、言葉少なく、象徴的に語るにとどめています。

 

たとえば「死後の世界」という事柄について、聖書は沈黙を守っています。多くの宗教がむしろ死後わたしたち人間の魂が「どうなるか」についての探求を中心としているのと対照的です。私たち人間は大昔から、死後私たちが「どうなるのか」について多大なる関心を抱き続けてきました。しかし不思議なことに聖書は「死後の世界」については、あまり積極的に語ろうとしません。かといって「死後の世界は存在しない」と語っているわけでもありません。ただ、沈黙を守っているのです。それはつまり、「死後の世界」のことを、いまを生きる私たちが知る必要は「ない」ということなのでしょうか。私たちが「死後の世界」にではなく、「いま生きているこの世界」にこそ目を向けてほしいというメッセージが、確かに聖書には一貫して流れているように思います。

 

またそれは、亡くなった方々の願いでもあるでしょう。亡くなった方々がもし私たちに伝えたいことがあるとすれば、その一つは、私たちが「元気に生きていってほしい」ということなのではないでしょうか。私たちが悲しみの中に沈んで生きるのではなく、「元気に生きてゆく」ことこそ亡くなった方の願いであるでしょう。

 

イエス・キリストが永遠の命

 このように、私たちはいまだ、「知らないこと」「分からないこと」が、数多くあります。“永遠のいのち”が具体的に「どのような」ものであるのか、聖書は沈黙しています。聖書は必ずしも、この世界の諸問題についての「解答」を私たちに用意しているわけではありません。

 

キリスト者とは、しかしそれでも、永遠の命が「ある」と信じている者たちであるということができます。では、「ある」と信じる人は、なぜそう信じることができるのでしょうか。なぜ、いまだ「分からない」ことが多い事柄を信じ、そこに自分の人生の希望をそこにかけるのでしょうか。

 

 それは聖書が、「イエス・キリストが永遠の命である」と伝えているからです。聖書は、「イエス・キリストこそが永遠の命である」と私たちに伝えます。《わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です(ヨハネの手紙一520節)

イエス・キリストは死の中から復活されました。このイエス・キリストこそ、“永遠のいのち”です。私たち一人ひとりはこのイエス・キリストに結ばれていることによって、“永遠のいのち”にもまた結ばれています。

 たとえ“永遠のいのち”が「どのような」ものか理解することができていなくても、“永遠のいのち”であるキリストにしっかりと結ばれていること、それが大切なことであるということができるでしょう。キリストに結ばれていることにより、いつかふわさしい時が来た時、私たちは“永遠のいのち”について、より深く理解することができるようになってゆくでしょう。

 

キリストとの絆

イエス・キリストと固く「結ばれている」こと――。けれどもそれは、私たちがしっかりとイエス・キリストの手を握りしめていなければならない、ということではありません。そうではなく、イエス・キリストの方から私たちに手を差し伸べ、この手を握り続けてくださっているということです。これがこの世界のまことの姿でありましょう。私たち自身がイエス・キリストを見失うことがあったとしても、イエス・キリストは決して私たちを見失うことなく、固く結びついてくださっています。

 

身近な言葉を使えば、イエス・キリストは私たちと分かつこと出来ない「絆」を結んでくださっているのだ、ということができるでしょう。イエス・キリストは私たち一人ひとりと、断ち切れることのない「絆」を結んでくださっているのです。

クリスチャンであるとは、立派な「信仰」をもち続けるということではなく、自分が「信仰」を失ってしまってもなお、神さまが自分のことを捉えていてくださることを信頼することである、ということができるでしょう。

 

トランプの家

私たち自身の「信仰」は、まことにもろく、はかないものです。イエス・キリストのご復活を信じ、永遠の命が「ある」のだと信じていても、愛する人との別れを前にすると、その「信仰」が失われてしまうこともあるでしょう。

 

わたし自身も一人のキリスト者としての自分を省みてみましたとき、もしも自分の愛する家族が天に召されれば、そのただ中にあっては、自分自身の「信仰」は崩れ去ってしまうような気がします。そのただ中にあっては、“永遠のいのち”の希望よりも、「死」の現実の方が、はるかに大きな力で自分に迫ってくるだろうからです。“永遠のいのち”についての言葉より、その人がいま自分のそばに「いない」という事実の方が、はるかに大きな現実感をもって、自分を打ちのめすだろうからです。

 

C・S・ルイスというイギリスの作家がいます。日本では『ナルニア国ものがたり』で有名な方ですが、このルイスの著作の中に、『悲しみをみつめて』(西村徹訳、新教出版社)という本があります。ルイスの最愛の妻が病気で亡くなってからしばらくの間、ルイスが自分の内に湧いては消えてゆくその率直な心境を綴ったものです。

その本の中に、自分が今まで「信仰」と思っていたものは、愛する人の死を前に、はかなく崩れ去ったという内容の言葉が出てきます。ルイス自身の言葉を引用すると、自分がいままで「信仰」だと捉えていたものは「トランプで作った家」のようなものだった、と。すぐれた信徒伝道者としても知られていたルイスの、しかしそれは、その時の率直な実感であったのでしょう。

 

 私たち自身の「信仰」とは、死の現実を前に、弱く、はかないものです。ルイスの言葉を借りれば、まるで「トランプの家」のようなものです。イエス・キリストのご復活を信じ、永遠の命が「ある」のだと信じていても、愛する人との別れを前にすると、その「信仰」が崩れ去ってしまうことがあるでしょう。

 

けれども、その「信仰」が崩されるからこそ、見えてくるものがあるだろう、とも思います。ルイスもまた、自分の「トランプの家」が崩されて初めて、見えてくるものがあったことを記しています。私自身、自分の「信仰」が崩されて後、それでも見えてくるものは何であろうと思います時、それは、「涙を流されるイエス・キリストの姿」なのではないかと思います。

 

主イエスは涙を流された

お読みしましたヨハネによる福音書11章には、愛する者の死を前に、涙を流される主イエスの姿が記されています。3235節《マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。/イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、/言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。/イエスは涙を流された》。

 

 亡くなったラザロの姉妹マリアは、主イエスを見るなりその足元にひれ伏して、言います。《主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに》。マリアはもはや(マルタのようには)、「信仰」の言葉を口にしません。愛する者の死を前にして、ただ嘆き、泣き声をあげるだけです。永遠の命への「信仰」も、マリアの内には失われてしまっているかのようです。一緒に来た大勢のユダヤ人たちも、共に声を上げて泣いています。これが、死の現実を前にしての、私たちの率直な、“ありのまま”の姿でありましょう。

 

私たち自身がもっている「信仰」とはまるで、死を前に吹き飛んでしまう「トランプの家」のようです。しかし、そのような私たちの無力さの中にこそ、主イエスは来てくださいました。そして、私たちのために涙を流してくださいました。

 

神の御子である主イエスが涙を流された――これはまことに驚くべき光景です。

 

死の現実の前に立ち尽くす主

 もちろん、神の御子である主イエスは私たちと異なり、“永遠のいのち”についてすべてをご存じでしょう。「死は終わりではない」ということを、ご存じでしょう。私たちの生と死について、すべてをご存じのはずの主が、しかしいま、私たちの「死」の現実の前に立ち尽くし、涙を流してくださっています。

 

 主イエスはこのように、私たちとまったく同じ姿になってくださることによって、私たちと「絆」を結んでくださっています。私たちと同じ悲しみを悲しみ、私たちと同じ苦しみを苦しんでくださることによって。私たちと同じように死の現実の前に立ち尽くし、私たちのために涙を流してくださることによって……。そのことを通して、主イエスは私たちとの間に、固い「絆」を結んでくださっています。

 

キリストの命の中で、共に「生きる」

聖書は、このイエス・キリストこそが“永遠のいのち”であると語ります。私たちのために涙を流してくださっているこの方が、“永遠のいのち”であるのだと語ります。

 

私たちをそれほどまでに愛し、私たちとの間に断ち切れることのない絆を結んでくださっているこのお方が“永遠のいのち”であるのなら――その“いのち”とはもはや、私たちから「遠く」にあるものではないような気がしてきます。たとえ私たちが“永遠のいのち”が「どのような」ものであるか理解することができなくても、私たちはそれでも、「信じる」ことを選びとってゆくことができるように思えます。私たちは少なくとも、イエス・キリストが「どのような」方であるか、十分に、知らされているからです。

 

聖書は、イエス・キリストが「どのような」方であるかをこそ、言葉を尽くして語っています。このお方は私たちをこの上なく愛し、私たちの心の内を理解し、私たちのために涙を流してくださっている方です。この方が“永遠のいのち”であるからこそ、私たちは自分の人生の希望をこの方にゆだねることができるように思います。

 

主イエスは私たちにいま、語りかけておられます。《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》(112526節)。

 

涙を流しながら主イエスが語りかけてくださっているこの言葉を、「その通り」のものとして、いま共に改めて、私たちの心に受け入れたいと願います。主ご自身がお語りになるとおり、私たちは、イエス・キリストの命の光の中で、死んでも生き続け、生きているものはもはや死ぬことはありません。生きている者もすでに亡くなった者も、私たちは大いなるキリストの命の中で、いま共に生き、共に生かされています。主が願っておられることは、私たち一人ひとりが、その命の光の中で、「元気に生きてゆく」ことです。

共に父なる神さまに感謝のお祈りをおささげいたしましょう。