2013年12月1日「闇から光が輝き出よ」

2013121日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二416

(創世記113節、ヨハネによる福音書119節)

「闇から光が輝き出よ」

 

アドベント

本日から、アドベント(待降節)に入りました。アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。「イエス・キリストの到来」ですね。アドベントは、イエス・キリストの到来を共に待ち望む期間です。そこには主イエスがすでに来てくださった喜びと共に、これから主が再び来てくださることの希望が含まれています。ローマ・カトリック教会では、このアドベントから、新しい一年がはじまるとされています。

 

 クリスマスに向けて、ご自宅にアドベント・カレンダーを飾った方もいらっしゃることでしょう。私も幼い頃、家に飾られたアドベント・カレンダーを一日一日めくってゆくのが楽しみでした。ある年は、待ちきれなくて、クリスマスの数日前に、こっそり25日分の絵を隙間からのぞいてしまったこともあります。アドベントは、イエスさまのご誕生を「待ち望む」時期ですから、子どもにもその気持ちを伝えるのにアドベント・カレンダーはよいものですね。時に私のように「待ちきれない」(!)という場合もありますが。

 

先日の金曜日には、教会の有志の皆さんと、クリスマス・リースづくりをしました。このクリスマス・リースはアドベント・クランツとも呼ばれます。「クランツ」とはドイツ語で「輪」を意味する言葉です。この輪は、イエスさまの頭に被せられる「冠」を表しているという説があります。イエス・キリストが“まことの王”であることの象徴としての冠です。

または、冬の間も葉を落とさない常緑樹で編まれた「輪」であることから、イエス・キリストが“永遠の命”であることの象徴であるとも言われます。この輪のかたちは、そのどちらの意味も含んでいる、ということができるでしょう。

 

 「アドベント・クランツ」の特徴は、ろうそくが立てられている点です。毎週1本ずつ、このろうそくに火をともしてゆきます。クリスマスには、4本のろうそくすべてに火がともされることになります。

 

このろうそくの光は、イエス・キリストが“まことの光”であることを表しています。新約聖書では、神の御子イエス・キリストは“まことの光”と呼ばれます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである》(ヨハネによる福音書1章9節)

すべての人を照らす“まことの光”――。私たちはアドベントの期間、この光を待ち望む「希望」を、自らの内に新たにします。

 

命の光

イエス・キリストが「光」であるということについて、ヨハネによる福音書の冒頭には、このような言葉もあります。《言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。/光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった》(ヨハネによる福音書1章4-5節)。ここでは、イエス・キリストはわたしたちの「命」である、と言われています。命であるそのイエス・キリストが、私たち人間を照らす「光」である。

 

命とは、私たちを「生かしている」ものです。命があるからこそ、私たち人間は「生きる」者とされています。その命が、私たちを照らす光である、とヨハネによる福音書は記しています。

イエス・キリストが光であるということは、私たちをただ明るく「照らす」ものであるというだけではなく、私たちの命そのものとなり、私たちを「生かして」下さっている方であるという意味を含んでいます。それほど根本的な働きをもつものとして、聖書はイエス・キリストは光であると私たちに伝えています。

 

小さな光

「光」という言葉を聞くとき、私たちは当然のことですが、「明るさ」ということをイメージします。明るければ明るいほど、光としての価値は高いように私たちは思います。たとえば部屋の電灯は、より明るく部屋を照らすものの方が当然優れていると考えます。それは肉眼で捉えることができる光についてもそうですし、心の目で捉えることができる光についても、知らずしらず私たちはそのように考えていることがあります。地味なものよりも、より華やかなものに、明るくきらびやかなものに価値をおいていることがあります。

 

私たちにとって、「明るい」ということはもちろん大切です。ただ、私たちの目というのは、その時は眩しいと思っても、次第にその明るさに慣れてゆきます。私たちの慣れることの力には、驚くものがあります。その慣れの中で、私たちは時に、より明るいものをどんどん求めてゆくようになっていってしまいます。それは肉眼の目だけでなく、心の目においても、同様です。より明るいものを求めてゆくと同時に、それまで自分を照らしていた光の明るさを当たり前のものとして、気に留めなくなってゆきます。

 

たとえば停電が起きた夜……。

真っ暗な部屋の中でともしたろうそくの光が、どれほど輝いて見えたことでしょう。電灯も何もない中で、私たちは暗闇の深さを知り、また小さな光の尊さを知ります。しかしいざ電気が回復するとその明るさの中、私たちは次第に、ろうそくの光の尊さを忘れてゆきます。またたとえ生活の中でそのような小さな光が瞬いていても、気が付かずに通り過ぎてゆくようになります。

聖書が伝えようとしている「光」とは、きらびやかな盛大な光というよりは、この一本のろうそくの光に近いものであるということができます。それは、誰もが気付いて立ち止まるような盛大な光ではなく、私たちが普段は気が付かずに通り過ぎてしまっているような小さな光です。聖書は、この小さな光の輝きをこそ、私たちに伝えています。

この光こそ、私たちの「命の光」であり、すべての人を照らす“まことの光”であるのです。

 

きらびやかな「明るさ」の覆い

本日の御言葉、コリントの信徒への手紙二のパウロの言葉は、生活の中で「明るさ」に心の目が慣れてしまった私たちに注意を促しています。434節《わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。/この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです》。

 日常の生活の中で、きらびやかな「明るさ」に、私たちの心の目はくらんでしまってはいないか。そうして、《福音の光》が見えにくくなってしまっていないだろうか。私たちは自戒を込めて、このパウロの言葉を受け止めることができるでしょう。

このパウロの言葉からも、《福音の光》とは、誰もが足を止めて感嘆するような盛大な光ではない、ということができます。むしろ、私たちが普段は気が付かないでしまっているような、かすかな光です。

 

私たちは、普段の生活が「明るさ」で充実しているとき、この光に気がつかなくなります。自信に満ちあふれ、色々なことがうまくいっているとき、私たちは小さな光など必要とは思わなくもなるでしょう。そのような状態にあるとき、まるで私たちの目は、きらびやかな「明るさ」という覆いに覆われているようです。

 

しかしわたしたちの歩みにおいて、いつも物事が自分にうまくいくように運ぶわけではありません。思わぬ失敗をし、自信を喪失することがあります。突然の辛い出来事に遭遇することがあります。そのとき、私たちの生活を彩っていた「明るさ」は取り払われます。まるで停電になってしまったかのように、私たちの目の前に突然、暗闇が立ち現れます。私たちは目の前を覆う暗さに戸惑い、右往左往します。

 

一方で、その暗さは、実際は、今までも自分の内にあったものであることにも私たちは気づきます。今まではその暗さの現実を、きらびやかな「明るさ」で覆い隠していたに過ぎませんでした。私たちの内の「暗さ」を覆い隠す「明るさ」が取り払われたとき、私たちは自らの現実に直面することとなります。もともと自分の内に抱えていたはずのその暗さは、私たちを戸惑わせます。

 

イエス・キリストこそ“まことの光”

けれども私たちはこの暗闇の中で、そこに輝く「小さな光」に出会います。このかすかな光こそ、聖書が指し示そうとしている“まことの光”です。

その輝きは盛大な輝きではありませんが、決して、消えることのない輝きです。どんなことがあっても、その輝きは消え去ることなく、ここにともされ続けています。

 

この光は魔法のように私たちの生活を明るく照らし出すことはありません。魔法のように私たちを助け導くことはありません。しかし私たちがどのような困難の中にあっても、私たちが完全に絶望することがないように、私たちを支え続けています。私たちを「生きる」ことへと、確かにつなぎとめています。どのような暗闇の中にいるようであっても、私たちのその歩みを、一本のろうそくのように、一歩一歩照らし続けています。

 

この「小さな光」に照らされる歩みであるからこそ、私たちは他者のやさしさを感じ取ることができます。きらびやかな明るさの中では気づくこともなかった、他者の思いやりに気づくことができます。私たちの歩みを隠れたところで支えてくれている祈りに気づくことができるようになってゆくでしょう。

 

もっとも深い場所から私たちを支えるこの「小さな光」――。わたしたちの命の源であるこれを、ある人は「愛」と呼ぶかもしれません。ある人はこれを私たち人間に本来的に備わっている「生きる力」と呼ぶかもしれません。どちらの呼び方もふさわしいということができます。私たち教会は、この命の光を、「イエス・キリスト」と呼んでいます。私たちの存在を根底から支え、私たちを「生かして」下さっているこの方を、イエス・キリストと呼んでいます。聖書の言葉全体はこの方を指し示し、この方を“まことの光”として宣べ伝えています。

 

「闇から光が輝き出よ」

手紙の著者であるパウロが何度も強調しているのは、私たちに“まことの光”として与えられているこのキリストとは、「十字架におかかりになっているキリスト」であるということです。パウロは他の手紙の中でも、繰り返し、このことを強調しています。

十字架の上で、はりつけにされているキリスト。そのお姿は一見、そこに希望の光があるなど、とても思われないような姿です。見るも無残な、むごたらしい姿です。その十字架の主の周りを包んでいるのは、深い闇です。しかしこの暗闇は、私たちが現実として抱えている暗闇です。キリストは、この私たちのために、私たちの暗闇のただ中に入って来てくださり、そして私たちのために、このような無残な姿にまでなってくださいました。きらびやかな「明るさ」という覆いが取り除かれた私たちは、自身の暗闇の中で、この十字架におかかりなったキリストと再び出会います。

 

暗闇のただ中で、イエス・キリストは、私たちに向けて語っておられます。

「生きよ」――。

暗闇の中で、キリストは私たちに語りかけておられます。「あなたは、生きよ」と。

真っ暗な闇の中で、しかし確かに、この一つの呼び声は響いています。ご自分の命を光として燃やしながら、私たちに向かって、「私の命を受けて、あなたは生きよ」と語り続けておられます。そうして、私たちの存在の深みに、その命の光をともそうとしてくださっています。

 

パウロは6節で次のように記します。《「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました》。

「闇から光が輝き出よ」という言葉は、天地創造における光の誕生を思い起こさせる表現です。《神は言われた。/「光あれ。」/こうして光があった》(創世記13節)。キリストはご自身の命をかけて、私たちの暗闇の中に、命の光をともし続けてようとしてくださっています。「生きよ」――。この言葉によって、私たちは生きるようになりました。

それは今までもそうであり、いまこの瞬間もそうです。

 

私たちは「落胆はしない」

 1節で、パウロはこのように語っています。1節《こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません》。

 私たちは神さまの《憐れみ》を受け、そのまことの愛を知らされている者として落胆はしないと語ります。ここで「希望をもつ」という積極的な表現ではなく、「落胆しない」という、いく分消極的な表現が使われているのが印象的です。

 

 私たちは多かれ少なかれ、自分の内に「暗さ」を抱えながら生活をしています。なかなか希望をもつことができないような心境でいる方もいまだ多いことと思います。しかしそのような中にあっても、イエス・キリストによる呼び声を知らされてゆく中で、「完全に落胆することはない」という気持ちになってゆくことはできるのではないでしょうか。

たとえ「希望」という言葉をなかなか口に出すことはできなくても、その命の光を告げ知らされる中で、「絶望」という言葉はもはや、私たちからは少し遠いものとなっている――。そのような気持ちに、私たちは少しずつ変えられてゆく、ということは起こり得ることです。また確かに、私たちの間に起こりつつあることであると、私は信じています。

 

キリストの“まことの光”がともされる中で、私たちの内にうずまく「落胆」や「絶望」は一歩遠のき、その分、たった一歩分ではあっても、「希望」は私たちのもとに近づいてきています。私たちの歩みとはそのような遅々たる歩みでありますが、きっとそれで「よい」のだと思います。

暗闇を抱えながら、小さな光に支えられて一歩一歩進むその歩みにおいてこそ、私たちはすぐそばにあるまことの光を見出すことができるからです。まことの命を見出し、まことの愛に気づいてゆくことができるからです。

 

このアドベントの期間、「希望」という言葉がたった一歩でも自分に「近づいた」と思えるような、そのような神さまの恵みに満ちた時となりますように、願っています。

共にお祈りをおささげいたしましょう。