2013年12月15日「過ぎ去らないもの」

20131215日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二41618

(イザヤ書11110節、ガラテヤの信徒への手紙21920節)

「過ぎ去らないもの」

 

 花巻教会の教会員であるS兄弟が、129日午前438分、天に召されました。77歳でした。

11日に教会にて前夜式、12日にご葬儀が行われました。神さまがS兄弟の生涯をそのはじめから終わりまで支え続けてくださったことを感謝すると共に、皆さまの上に神さまからの慰めがありますように、お祈りしております。

 

Sさんは1978年に、遠野教会からこの花巻教会に転入をされました。以来、教会の役員も務められ、教会の為にさまざまな場面で尽力してくださいました。役員をお辞めになってからは、毎週土曜日に、教会に来て週報の印刷の奉仕をしてくださっていました。

 

私もこの4月に花巻教会に来てから、毎週土曜日にSさんとお会いし、いろいろとお話しできるのをうれしく思っておりました。Sさんは私に気を使ってくださり、「先生はどうぞお構いなく、お仕事を続けていてください」とおっしゃってくださっていましたが、互いの作業が一段落したとき、いろいろなお話しをさせていただけたことを、感謝しております。

 

Sさんは詩を愛された方で、詩人としての一面をもってらっしゃる方でした。私も文学が好きで、Sさんと同じく、詩を書いていましたので、詩の話や文学のお話しをすることができ、うれしく思っておりました。

 

私が花巻教会に赴任してまもなく、Sさんから詩集をいただいたことがありました。2009年に出版された詩集です。「先生に読んでいただきたいと思いまして。先生はどう感じられるのかな、と……」。少し遠慮がちに、ご自身の詩集をくださいました。詩集のタイトルは、『愛と祈りと』というものでした。

 

いただいた詩集を読みながら、私は、「まなざし」という言葉が心に浮かびました。それは、日々の生活の中で、さまざまなことが慌ただしく過ぎ去ってゆく中、それでも過ぎ去らない“何か”を見つめようとする「まなざし」でした。

 

Sさんは、ある事柄が過ぎ去った後も、そこにまるで残り香のように残る“何か”を、見ようとし続けている方であると感じました。詩集を読みながら、ある事柄が過ぎ去った後も、そこに立ち止まり、見つめ続けているSさんの姿が目に浮かんできました。

 

愛と祈り

改めてこの度、Sさんの詩集を読み返しながら思いましたのは、私がSさんの詩集から感じた「まなざし」とは、「小さな光を見つめようとするまなざし」であったということです。

 

その小さな光とは、ふだんの私たちの生活を、目には見えないところで支え続けてくれている光です。わたしたちが気付かないところで私たちを支え、私たちを生かしてくれている光です。

 

私たちはふだんの生活の中で、立ち止まってものごとを見つめることがなかなかできないでいます。しかし立ち止まり、心を静めて今日という日を見つめ直した時、いかに尊い光が私たちのすぐそばにともされているか、少しずつ知らされてゆきます。Sさんは、多くの事柄が忙しく過ぎ去ろうとする中で、過ぎ去ることのない「小さな光」を見つめようと続けていた方であると感じています。

 

 Sさんの出された詩集のタイトルは『愛と祈りと』というものでした。私たちの日々の生活の中にともされている小さな光とは、言い換えますと、「愛」と「祈り」である、ということができるでしょう。この愛と祈りは、私たちの日々の生活を、目には見えないところで支え、導き続けてくれています。

 

過ぎ去らないもの

先ほどお読みしたコリントの信徒への手紙二418節は次のように記しています。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。

 

 ここでは、私たちは目に「見えるもの」ではなく、目には「見えないもの」に目を注ぐのだ、と言われています。

 

目に見えるものとは、「私たちの目に映るあらゆる事柄」を指しているということができるでしょう。たとえば、食卓においてテーブルに並んでいる料理を思い浮かべてみましょう。クリスマスが近いので、クリスマスの日に食卓に並ぶごちそうを思い浮かべていただけたらと思います。

 それら料理は私たちの目で見て、触れて、感じることができるものです。一方で、料理はもちろん、食べてしまえば私たちの目の前からなくなってしまいます。その意味では一時的なものであり、過ぎ去ってゆくものです。

 

 では、見えないものとは何でしょうか。目には見えないけれど確かに存在しているものとは、その料理をおいしくいただいた記憶であり、料理をつくってくれた人の想いです。「おいしいものを食べてほしい」という想い、「喜んでほしい」という想い。その食卓に子どもたちがいるのだとしたら、「子どもたちに元気でいてほしい」という想いもあることでしょう。

 

 先ほどの言葉でいうと、それら相手を思いやる気持ちとは、「愛と祈り」という言葉で言いかえることができるでしょう。相手を思いやる愛と祈りが、私たちの普段の生活の一日一日を、目には見えないところで、支え続けてくれています。この目には見えないものに「まなざし」を向けることを、聖書の言葉は私たちに促しています。

 

もちろん、目に見えるものがどうでもいいのだということが、ここで言われているわけではありません。目に見える事柄もまた、私たちにとって大切なものです。ここで言われようとしているのは、それら目に見えるものを、根底で支えているものがある、ということです。目に見えるものは確かに時間と共に過ぎ去ってゆくかもしれません。しかし、見えないものは決して過ぎ去ることはなく、いつまでも存在し続けます。その過ぎ去ることのないものとは、愛と祈りです。

 

 私たちは、さまざまな人々との関わりにおいて、この愛と祈りを知らされてゆきます。

家族との関わり。

友人との関わり。

またそして、教会の兄弟姉妹との関わり――。

大切な人々との関わりを通して、私たちは愛と祈りを知らされてゆきます。

 

目に見えるものとしての出来事は過ぎ去ってゆくでしょう。私たちの目に映るものは、刻々と、その姿かたちを変えてゆきます。しかし、それら出来事、ものごとの根底にある愛と祈りとは、決して過ぎ去ることはありません。どれほど時が流れようと、どれほど距離が離れようと、それら愛と祈りは「光」となって、私たちの歩みを照らし続け、支え続けてくれています。

 

命の光

この光は、普段は私たちには気づかれにくいものとして、存在しています。それは、誰もが気付いて立ち止まるような盛大な光ではなく、私たちが普段は気が付かずに通り過ぎてしまっているような「小さな光」です。それほどこの小さな光は、普段は私たちにとって「当たり前」のものとして存在しているのだ、とも受け止めることができます。当たり前すぎて、私たちには意識されにくくなっているのでしょうか……。

 

私たちが困難な状態に遭遇した時、今まで見過ごしていたこの「小さな光」の輝きに改めて気づいてゆく、という経験をすることがあります。暗闇が自分の周りを覆うように感じる時、私たちは、この小さな光に立ち還ることがあります。

 

この聖書の言葉を記した使徒パウロもまた、そのような経験をしたのではないでしょうか。パウロはこの言葉を記した当時、非常に困難な状況にいました。目に「見える」現実としては、大きな困難の中にいたのです。しかしその困難のさ中にいるからこそ、そこで確かに輝く、目には「見えない」光があることを知らされていったのでしょう。それは、小さな光かもしれません。しかし決して消えることのない光です。

 

パウロは困難の中で自分を見失いそうになるとき、常に、この光に立ち還ろうとしていたのだと思います。

聖書は、この光を、「イエス・キリスト」と呼んでいます。私たちの存在を根底から支え、私たちを「生かして」下さっているこの光を、イエス・キリストと呼んでいます。私たちの愛も、祈りも、このイエス・キリストを源として生じています。この方こそ、私たちの心の“原点”であり、私たちの生きてゆく力です。

 

闇の中で輝く小さな光

 パウロはこの“まことの光”は、どんなことがあっても、決して消し去られることはないと信じていました。それは、私たちの意思や信仰を超えて、そうです。たとえ私たち自身は信じることができなくても、この光は失われることなく、私たちを支え続けています。

ですのでパウロは、17節で、次のように言い切ることができました。17節《わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます》。

 

 パウロは現在自分が直面している現実を、《一時の軽い艱難》と呼んでいます。これはパウロが軽く対処できるような容易な状況にいた、ということではありません。先ほどの少し触れましたように、パウロはそのとき、極めて大きな困難の中にいました。しかし、その困難の中にいるからこそ、「小さな光」の輝きが見えてくる、ということがあります。困難な状況は、ときに、小さな光の輝きを際立たせる役割を果たすことがあります。

 

そしてこの困難な状況は、いつかは過ぎ去るでしょう。困難な状況は、永遠には続かないでしょう。対して、その暗闇の中で輝く小さな光は、決して消え去ることはありません。永遠に、輝き続ける光です。パウロはこのことを確信していたので、自分の直面している状況を、あたかも逆転させたかのように、表現することが出来たのでしょう。パウロは自分の目の前の大きな困難を《一時の軽い艱難》と呼び、自分の目の前の小さな光を《重みのある永遠の栄光》と呼びました。

 

だから、私たちは落胆はしない

 16節の冒頭で、パウロは《だから、わたしたちは落胆しません》と語ります。《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます》。ここで「希望をもつ」という積極的な表現ではなく、「落胆しない」という、いく分消極的な表現が使われているのが印象的です。

 

 これは、私たちの実感としてもその通りなのではないでしょうか。わたしたちの心のどこかには、「希望をもっている」とは言い切れない自分がいます。いまだ立ち上がることができない自分がいます。私たちの心の内にはさまざまな落胆があり、苦しみがあり、悲しみがあります。

しかし、どんなに私たちが困難の中にあっても、ともされ続けている「小さな光」があるのだとすれば、私たちは「完全には絶望はしない」ということは言うことができるのではないでしょうか。暗闇の中をほのかに照らす小さな光があるからこそ、私たちは「落胆はしない」と言うことができます。

 

《内なる人》は消え去ることなく

 この消えることのない光は、私たちの“間に”、そして私たちの“内に”宿されています。この小さな光は、他ならぬ私たち自身の内にも、ともされています。

 

大切な人々との関わりを通して、私たちは自らの内にこの光がいつも共にあることに、気づかされてゆきます。大切な人々の愛と祈りは、私たちを、この原点へ立ち還らせてゆきます。私たちはこの命の光によって日々生かされ、内側から、日々新たにされています。この光はどこかへ行くことは決してありません。いつも私たちと共にいて、私たちを支え続けてくれています。

 

パウロは16節後半でこのように語っています。《たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます》。

 

私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、内なる光に照らされる私たちの《内なる人》は、日々新たにされ続けているとパウロは語ります。聖書は、私たちを内からをも照らすこの“まことの光”を、「イエス・キリスト」と呼んでいます。

 

私たちのこの「体」はだんだんと衰え、いつかは、目には見えなくなってしまう日が来るでしょう。しかし、“まことの光”であるキリストと結ばれた私たちの《内なる人》は、決して消え去ることはありません。この体は消えうせ、たとえ目には見えなくなっても、私たちは、キリストの命の光の中を、生き続けるのです。これが、聖書が私たちに語る「希望」です。

 

 私たちはこの度、愛する兄弟を、神さまのもとへお送りしました。私たちの心は現在、大きな驚きと、悲しみに包まれています。私たちの心はいま悲しみに包まれていますが、どうか私たちがそれでもなお、ここに消えることのない光があることを、忘れることがありませんようにと、願います。どんな暗闇の中にあってもなお、小さな光がわたしたちの内にともされていることを、私たちが忘れることがありませんように。私たちがそれを見出し、平安を得ることが、Sさんご自身の生涯の祈りでもあったでしょう。

 

 私たちの目には、Sさんは、見えなくなりました。しかし、いま、キリストの大いなる命の中を、Sさんは生きておられると信じています。キリストの命の中を、愛の中を、光の中を、私たちと共に生きておられるのだと、私たちは信じています。

 共にお祈りをささげいたしましょう。