2013年12月22日「神の涙と人の喜び」

20131222日(日)クリスマス礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書316

(イザヤ書916節、ルカによる福音書2821節)

神の涙と人の喜び

 

クリスマス

今日の礼拝は、クリスマスをお祝いする礼拝です。ご一緒に、このクリスマスをお祝いできることを、心よりうれしく思います。

皆さんは、誰かにクリスマスがどのような日かを説明するとき、どのように表現するでしょうか。「イエスさまの誕生日」!その通りですね。少し詳しい言い方をすると「神の独り子であるイエスさまが、人間としてお生まれになってくださった日」ということもできるでしょう。

もちろん、正解は一つだけ、ということはありません。私たちはそれぞれ、自分なりにふわさしい言葉で、クリスマスを表現することができます。

 

このクリスマスを、「私たちの涙と、神さまの喜びとが交換された日」と表現した人もいます。クリスマスは、「わたしたちの涙と、神さまの喜びとが交換された日」というのですね。何だか不思議な言葉です。どのような意味でしょうか……?

 

飼い葉桶のイエスさまは涙を流し……

これは、十字架のヨハネという人が書いた詩の中の言葉です。十字架のヨハネは16世紀の時代を生きた人で、修道士であると同時に、詩人でもある方でした。その方が書かれた詩をご紹介したいと思います。教会学校の皆さんには少し難しい言葉も出てくるかもしれませんが、どうぞお聞き下さい。

 

《とうとう 生まれる時が/やって来た。

 かくて、花婿が/その閨屋(ねや)から出て

 花嫁を その腕に引き寄せ/抱きしめるように、

 その優美(やさ)しい母は/彼を槽(かいばおけ)に 寝かせた、

 そのとき、そこに 居合わせた/動物たちの間に。

 人々は 歌を歌い、/天使たちは 調べを奏でた、

 こんな(に違う)二者の間に/行われた婚姻を 祝って。

 しかし、槽(かいばおけ)に置かれた神は/そこで、涙を流して 泣いていた、

 その涙は 花嫁が/持参金として持って来た 宝石。

 そして、こんな 交換(とりかわし)を見た母は/言葉もなかった。

 人間の涙は 神のものとなり/歓喜(よろこび)は 人のものとなった、

 それと これとは/常に 縁のないものだったのに》(西宮カルメル会訳注『十字架の聖ヨハネ詩集』より)

 

 詩の中で、どのような場面がうたわれているか、分かったでしょうか。「飼い葉おけ」という言葉が出てきました。「動物たち」という言葉も出てきましたね。これらの言葉から、イエスさまが馬小屋でお生まれになった場面がうたわれているということが分かります。イエスさまのお母さんであるマリアが、赤ん坊のイエスさまを飼い葉おけに寝かせた場面ですね。

馬小屋に集まってきた人々は喜びにあふれて歌を歌い、天使たちも美しい調べを奏でました。しかし、飼い葉おけに置かれたイエスさまは、そこで、涙を流して泣いていた、と詩の言葉は続きます。

 

イエスさまはそのとき赤ん坊だったのだから、赤ちゃんは泣いて当たり前だ、と思うかもしれません。もちろん、赤ちゃんが泣くことは、まったくおかしなことはない、自然なことです。

ただ、この詩の不思議なところは、その涙は、「私たちの涙」だと言っているところです。私たちが流す涙を、替わりに、ここで、赤ん坊のイエスさまは流してくださっている、というのです。

 

大切な人の「死」を前に

 皆さんはどのようなときに、涙を流したことがあるでしょうか。怪我をして痛かったときでしょうか。友だちとケンカして、悲しくなったときでしょうか。心の中が辛くて仕方がないとき、言葉にすることもできない悲しみが心をいっぱいに満たしているとき、私たちの目からは涙があふれます。

 

 イエスさまは、この私たちの涙を、ご自分の涙とするために、私たちのもとにやってきてくださったのだ、ということをこの詩は伝えています。私たちの代わりに、涙を流してくださるために……。

聖書の中には実際に、イエスさまが涙を流された場面のことが記されています(ヨハネによる福音書112837節)。それは、イエスさまがすっかり大人になってからのことです。

イエスさまには大切な友であるラザロという人がいましたが、ある日、このラザロという人が病気で亡くなってしまいました。ラザロのお墓の前で、家族や大勢の人がやってきて涙を流して悲しんでいました。それを見たイエスさまは、涙を流されたと聖書は記しています。

私たちは何より、大切な人が亡くなったとき、涙を流します。私たちは、大切な人の「死」を目の前にすることが、もっとも辛いこと、悲しいことであるからです。大切な人のお墓を前に、私たちはただ涙を流し、立ち尽くすしかできません。イエスさまはその私たちといっしょになって、涙を流してくださっているのだと聖書は記しています。

 私たちと同じように悲しみ、同じように涙を流してくださる方として、イエスさまは私たちのもとにやって来てくださいました。そうして、私たちの悲しみと“ひとつ”に結びついてくださるために……。

 

驚くべき「交換」

 先ほどのクリスマスの詩に戻りますと、先ほどの詩の中に、「花嫁」や「花婿」という言葉が出てきたのを覚えらっしゃるでしょうか。どうしてイエスさまの誕生の場面に「結婚」に関係する言葉が出て来るかと言いますと、クリスマスの出来事は、「神さまと人間が“ひとつ”に結ばれた日」と表現されることもあるからです。

 

花婿とは、神さまの独り子イエスさまです。花嫁とは、マリアさんであり、私たち人間です。クリスマスは、神さまと私たち人間が“ひとつ”に結ばれた日、というのですね。

 

昔は、結婚の約束をするとき、花婿と花嫁はそれぞれ大切な品を「交換する」という風習がありました。

日本では「結納」という風習があります。花婿と花嫁は、それぞれの家から大切なものを携えてきて、交換します。それが、結婚を約束したことのしるしとされました。

 

 この詩の中では、私たちの涙が、何よりの結納品であると言われています。どんな立派な宝石よりも、私たちの涙こそ、神さまが求めておられるまことの宝石である、と。ただあなたの涙だけをもって、私の前に来なさいと、イエスさまは語りかけておられます。何とやさしい言葉でしょうか。

 では、イエスさまは神さまの家から、私たちに持ってきてくださったものは何でしょうか。それは、神の国の「喜び」です。

 

 こうして、クリスマスの日、驚くべき交換がなされました。私たちの悲しみの涙と、神さまの喜びとが、交換されたのです。私たちの涙は神さまのものとなり、神さまの喜びは、私たちのものとなりました。私たちは、神さまと“ひとつ”に結ばれました。

これは単なるたとえではなく、クリスマスの日、実際に私たちの世界に起こったことです。

 

永遠の命に結ばれて

私たちのもとに、神さまからの喜びが届けられたということ――。それは一方で、神さまのもとに、人間の涙が届けられた、ということでもあります。神さまはいまも、私たちの涙をご自分のものとして、私たちの悲しみと“ひとつ”となって、涙を流し続けてくださっています。神さまはそれほどまでに私たちのことを大切に想い、私たちの幸せを願い、私たちの心が喜びで満たされることを願ってくださっているのです。

 

 神さまがイエスさまを通して、私たちに届けたいと願っているその喜びとは、私たちが「永遠の命」に結ばれるという喜びです。

 先ほど、私たちは大切な人の「死」を前にしたとき、もっとも悲しく感じ、涙を流さずにはおられない、ということを言いました。神さまは、この悲しみの涙と、永遠の命の喜びとをこそ、交換したいと願い続けてくださっています。

 

 私たちが永遠の命に結ばれるということは、私たちの存在がもはや、「死では終わらない」ということです。大切な人の存在は「死」によって消えてしまうのではない、ということです。私たちの目からはたとえ見えなくなっても、大切な人は、神さまの大いなる命の中で、生き続けます。

神さまは、私たちにこの喜びを約束するため、イエスさまをこの世界に与えてくださいました。

 

ヨハネによる福音書316節にこのような言葉があります、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

神さまはイエスさまを通して、私たちに永遠の命の喜びを与えてくださいました。ご自分が私たちの悲しみの涙を引き受けることまでして、私たちに喜びを与えようとしてくださいました。

 

「もう泣かなくともよい」

 そして事実、いま、この喜びは、わたしたちのすぐそばにあります。決して消え去ることない喜びが、私たちのすぐそばに、与えられています。私たちはいま、一人ひとり、イエス・キリストを通して、永遠の命の約束に結ばれているからです。

 

イエス・キリストはいま、涙を流しながら、私たちを、永遠の命の内に包み入れてくださっています。ご自分は涙を流しながら、私たちに、「もう泣かなくともよい」(ルカによる福音書713節)と語りかけてくださっています。

 ここに集ったお一人お一人の心の内に、どうぞいま、このイエス・キリストの語りかけが、響き渡りますように。クリスマスのこの日、皆さんの心に、涙の代わりに、喜びの歌が湧き出ますようにと、願っています。