2013年12月29日「『生きる』方へと歩み出す」

20131229日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二5110

(エゼキエル書183032節、フィリピの信徒への手紙12126節)

「『生きる』方へと歩み出す」

 

自分は「外国人」?

皆さんの中で、海外で長く生活をしたことがある方はいらっしゃるでしょうか。私はそのような経験はないので推測するだけしかできませんが、母国を離れて生活をするというのは、私たちの心に独特な感覚を与えるのではないかと思います。

外国にいるともちろん、自分自身が「外国人」であるということになります。自分が故郷を離れた「外国人」であるという感覚。これは母国にいるときにはまったく感じることのない、独特な感覚でありましょう。また、母国を離れているからこそ、ふとした瞬間に、強い郷愁に駆られることもあるかもしれません。

 

また国という単位だけでなく、私たちは自分の出身の地域である故郷をもっています。たとえばたとえ同じ日本にいても、東北出身の方が関西に移住すれば、どこか自分が「外国人」(?)であるような感覚になることもあるかもしれません。

 

 聖書には、《わたしたちの本国は天にあります》(フィリピの信徒への手紙320節)という言葉があります。私たちにはそれぞれ地上の故郷をもっていますが、まことの本国は「天にある」という考え方です。

 この地上にではなく、天の国を私たちのまことの故郷とする視点は、聖書のみならず、さまざまな宗教に見出されるものです。何かそういう地上を超えた場所、「ここではないどこか」に、私たちの魂の故郷がある、という視点ですね。そうすると、私たちがいま生きているこの世界はどこに行っても、私たちにとって「異国」であるということになります。

 

「母国に帰りたい」

 時に、私たちは強い郷愁(ノスタルジー)に駆られてしまうことがあります。たとえば海外で生活しているとして、一度「母国に帰りたい」という気持ちにとらわれてしまえば、なかなか日常の生活や仕事に身が入らなくなってしまうこともあるかもしれません。「母国に帰りたい」ということに、だんだんと意識が向いていってしまい、仕事が手につかなくなるのです。

 

 もしこれが、宗教的な事柄において起こってしまったらどうでしょうか。まことの本国である「天に帰りたい」という郷愁にとらわれてしまったら……。実際に、私たち人間の歴史において、魂の故郷へ「戻る」ことをその第一目標とする宗教的な思想も、繰り返し登場しました。

 

この地上では辛いこと、悲しいこと、苦しいことが無数にあります。そのような中、「天の国は素晴らしいところだ」と教えられたら、「早くそこへ行きたい」と思ってしまうことも、当然の心情でありましょう。

 

私たち人間には魂の故郷があるという考え自体には何ら問題はありませんが、そこに「帰る」ことを重視するあまり、この地上の生活にだんだんと身が入らなくなってしまう、という危険性もまたあります。

天の国に戻ることが私たちの第一目標なのだとしたら、いま生きているこの世界とは何なのでしょうか?「牢獄」のようなものなのでしょうか? 実際、そのようにこの世界を捉える考え方もありました。「牢獄」であるこの世界に私たちの魂は閉じ込められているとし、そこからの解放を願う考え方です。その考え方によれば、この地上のさまざまな営みや人間関係は、魂がまことに故郷へ戻ることをさまたげる「しがらみ」とみなされてしまいました。

 

天の国が「来る」ように

 このような考え方に対し、一貫して「否」を唱えているのが、聖書という書であるということができます。この世界は「牢獄」ではなく、神さまの造られた「よい」世界だというのがその視点です。

 

 では先ほどの、《わたしたちの本国は天にあります》などの言葉はどうなるのでしょうか。聖書も、私たちにこの地上を超えたまことの故郷があるという考え方をもっています。その点は、他のさまざまな宗教的な思想とも共通しているでしょう。

聖書が独特なのは、私たちが天の国に「行く」のではなく、天の国が「来る」と捉えている点です。この地上の世界から私たちが解放されて天の国に「行く」のではなく、神さまが造られたこの地上に、将来天の国が「来る」ことを待ち望む、というのが一貫して聖書において提示されている視点です。《わたしたちの本国は天にあります》という御言葉には続きがあります。《わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています》。

 

 この聖書の視点に基づくと、いま生きているこの世界が、あくまで私たちの「現場」であるということとなります。本日のパウロの言葉も、このような聖書の世界の見方に基づいていると捉えると、理解がしやすくなるのではないでしょうか。

 

コリントの信徒への手紙二51節《わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです》。

まずパウロは、私たちには天に永遠の住みかがあることを1節で語ります。一時的な住まいである《幕屋》(テント)は消え去っても、決して消え去らない《建物》が天にはあることを語ります。ここまでは、世界の諸宗教にも共通している視点でしょう。独特な視点が加わるのは、次の節からの言葉です。

 

2節《わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています》。

天から与えられる住みかを、《上に着たい》とパウロは述べています。ここに、この地上の世界から私たちが解放されて天の国に「行く」のではなく、この地上に天の国が「来る」ことを待ち望むという視点が現れています。天の国が「来る」ことを、パウロは、天の住みかを「上に着る」という言葉で表現しています。

 

4節の言葉はそれをさらに具体的に言い直しています。《この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に呑み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです》。

 この言葉にもありますように、パウロはあくまで私たちの現場は、いま生きているこの世界であると述べています。そしてまたそれは、私たちのいま生きているこの体が、私たちの現場であるということにもなりましょう。

 いつか天の国がこの地上に訪れ、この体をキリストの命が包む時まで、私たちはこの体を通して自分にできることを精一杯するしかありません(10節《なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです》)。肉体を離れた「ここではないどこか」に、私たちの現場があるわけではないのです。

 

板挟みの状態の中で

 一方で、パウロは意外にも思える次のような言葉を書き記しています。6節《それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています》。8節《わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます》。

 この地上で生活している限り、まことの故郷からは「離れている」のだということをパウロはここで確認しています。そして自分はむしろこの地上を離れて、天にあるまことの故郷に「行く」ことを望むとさえ語っているのです。

 

 これらの言葉に、私たちはパウロという人の、もう一つの側面を見るようです。パウロは元気いっぱいに「外国」で生活している訳では必ずしもなかったのです。その内実は、「故郷」への切なる想いで満ちていました。父なる神さまがおられる天の国に、できることなら自分は早く戻りたい。しかし自分にはやるべきことがあるので、この地上にとどまっているのだ、という感覚でしょうか。

 

別の手紙の中には、パウロのこのような言葉も残しています。フィリピの信徒への手紙121節《わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。/けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。/この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。/だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。/こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう》。

 パウロはここで、自分が《板挟みの状態》にあることを率直に述べています。直截的な言い方をしますなら、「生きる」べきか、いっそ「死んでしまう」べきか、その板挟みの心境にいる、とういうのです。読む私たちが思わずドキッとしてしまうような言葉です。パウロはこの手紙を記した当時、それほどギリギリの状態にいながら、「生きる」方へと踏みとどまっていたのです。

 

パウロは、天の国を恋い焦がれる気持ちがそれほど強かった。それはまた同時に、パウロにとってこの地上で生きることがあまりに辛いことの連続であった、ということの裏返しであるかもしれません。

 

 パウロ自身、何度も自問自答した瞬間があったかもしれません。これほど辛いこと、苦しいこと、悲しいことが数多くある中で、なぜ、それでもなお私は生きてゆかねばならないのか?

 私たちが生きるべき現場はこの世界なのだと頭では分かっていても、もう耐えきれない。この脆く儚い心と体は、もう耐えきれない。いっそ、天の国へ早く帰りたい。この地上の重荷を全て投げ出して、楽になりたい……。私たちは時に、このような心境になることがあるでしょうが、それはパウロであっても同様であったでしょう。

それでもなお、パウロを「この地上につなぎとめていたもの」とは何だったのでしょうか。

 

わたしたちをつなぎとめるもの ~かけがえのない関係性

 その答えとは、ひとつだけではないと思います。様々な事柄が合わさって、パウロを「生きる」方へとつなぎとめていたのだと思います。ただし、この度参照したパウロ自身の言葉に限定して、そこから受け止めることのできることがあるとしましたら、それは「関係性」である、ということができるのではないでしょうか。パウロを「生きる」方へとつなぎとめていた大切な事柄の一つ――一それは神さまとのかけがえのない関係性であり、大切な人々のとのかけがえのない関係性です。

 

「関係性」というものは、時に私たちを縛るもの、「しがらみ」として表現されることもあります。この関係性がなければ、私たちは傷つけられることもないし、悩み苦しむことも、悲しむこともないかもしれません。一方で、この関係性がなければ、まことの喜びも安らぎもない、ということも、私たちは心の奥底では知っています。

 

 コリントの信徒への手紙二の59節にはまず、神さまとパウロの関係性が表れています。9節《だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい》。自分がいまいる現場でベストを尽くして、神さまから「よくやった」と喜ばれる者でありたい、とパウロは述べます。まるで幼い子どもが両親に対するような姿勢です。このまるで「親と子」のような、素朴とも言える神さまとパウロの関係性が、パウロを「生きる」方へとつなぎとめています。

 

 またフィリピの信徒への手紙12425節には、教会の人々とパウロの関係性が表れています。《…だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。/こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう》。ここではパウロ自身が親のような姿勢でいます。親が子どもたちを心配し、支えようとするように、パウロは教会の人々を思いやっています。この教会の人々とパウロの関係性が、やはり、パウロを「生きる」方へと確かにつなぎとめています。

 

私たちがときにわずらわしくも思う「関係性」。であるからこそ、それは確かな「絆」となります。神さまとの関係、また人間関係は、時に、私たちにとって、わずらわしい「しがらみ」のようにも思えるでしょう。しかしそのように「しがらみ」のようにも感じることがある、重みがあり実体のある関係性であるからこそ、それらは私たちを「生きる」方へとつなぎとめてくれる確かな「絆」となっています。

 これら関係性に現れているもの。それは、突き詰めて言うと、「愛」であるということができるでしょう。

 神さまの愛と、人々の愛。その愛こそが、私たちを「生きる」方へとつなぎとめています。

 

 そしてその愛は、私たちに対して、いつも語りかけています。私たちが元気であるように。私たちの心に喜びがあるように。私たちが「生きる」ように、と、いつも私たちに語りかけています。愛は、見えないところで私たちを支え、生かしている命であり、光です。

 

「生きる」方へと歩み出す

 神さまとの関係性。そして、大切な人々との関係性。それらかけがえのない関係性を見出した時、私たちのまなざしは再び、「生きる」方へと向き直り始めます。それらかけがえのない関係性を守り育む場所は、いま私たちが生きているこの世界であるからです。

 

 一度はギリギリの危うい地点まで降りて行ったからこそ、そこから再び「生きる」方へと新しく踏み出した一歩には、重みがあります。また、力があります。パウロもまた、「生きる」べきか、いっそ「死んでしまう」べきか、その板挟みの心境に陥ったときもありました。しかしその場所から、それでもなお、「生きる」ことを決意し、その一歩を歩み出してゆくことを選び取ってゆきました。その決意に基づいた一歩一歩にこそ、私たち人間の尊厳が宿っているということができるでしょう。

 

 政治学者の姜尚中さんが、或るテレビの対談において、「故郷」について述べる中で、《ここで生きようと決めたときに故郷となる》ということをおっしゃっていました。たとえ私たちがどこにいようと、ここで生きてゆこうと決めたその場所が、自分の故郷になるのだ、と。私はその言葉を印象深く聞きました。

 

 私たちも、いま自分が生きるこの場所を、まことの故郷にしてゆきたいと願います。自分が生きるこの場所こそを、少しでも天の国に近づけてゆきたい。私たちが生きるこの場所が、神さまの「よい」という祝福に満ちたまことの故郷へと、少しでも近づいてゆきますようにと願っています。

そしてその実現は、私たち一人ひとりの一歩一歩の歩みの内に、ゆだねられています。

 

 一年を終え、そして新しい一年を迎えようとするいま、「生きる」方へと、共に新しい一歩を踏み出したいと願います。この世界に根ざし、愛に根ざして、共に「生きる」方へ――。皆さんの間に、神さまの愛の光が、いつも共にありますように。