2013年12月8日「土の器に宿された宝」

2013128日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二4715

(イザヤ書916節、ルカによる福音書12638節)

「土の器に宿された宝」

 

人間の創造 ~二つの視点

聖書の始まりに位置する『創世記』には、神さまが人間を創造される場面が二度、描かれています。

まず創世記1章に出て来るのは、神さまが人間をご自分にかたどって創造された、という記述です。《神の似姿》と言う言葉がありますが、神さまと「似たもの」として、私たち人間は創造されたとここでは語られています(創世記12627節)

続けて創世記2章には、神さまが人間を《土の塵》から造られたと語られています。人間は土の塵から形作られ、鼻から命の息を吹き込まれることにより生きるようになったのだ、というのです(創世記27節)

 

まったく対照的な二つの「はじまり」が記されていることは、考えてみれば不思議なことです。これは何かの間違いで並べられているのではなく、意図的にそのように対照的な二つの「はじまり」が並べられているのだ、と考えることができます。

 

ここで示されているのは、聖書の基本的な人間観(人間の見方)です。それはすでに述べたように二つの見方があります。一つは、《神の似姿》として人間を捉える見方です。もう一つは、《土の塵》から造られた者として人間を捉える見方です。どちらか一方のみが正しいということではなく、そのどちらも私たち人間の本質を表しているのだと聖書は伝えています。

 

《神の似姿》としての人間、《土の塵》から造られた人間

聖書において、「《神の似姿》としての私たち」が強調されるときは、私たちに本来与えられている「人間の尊厳」を思い起こさせようとしているときです。私たちが自分には何の価値もないように思える時、生きることには何の意味もないように思えるとき、聖書は私たちに、一人ひとりの存在の「かけがえのなさ」を伝えます。そのメッセージを象徴的に表しているのが、《神の似姿》という言葉です。私たち人間は神さまに「似たもの」として造られた、それほどまでに尊い存在として造られたのだ、ということを思い起こさせようとしてくれています。

創世記1章の最後には、神さまは私たち人間を創造された後、《極めて良かった》とおっしゃったと記されています(創世記131節)。《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった》――。この神さまの「よい」という祝福の中で、私たち人間は生まれ出てきたのだと聖書は語ります。

 

一方で、私たちはその歩みにおいて、自信を失うことばかりではなくて、むしろ自信に満ちあふれた状態になるときもあります。さまざまなことが順調に行っているとき、私たちが陥りやすい過ちは、自信に満ちあふれ、いつしか高慢になってしまうということです。聖書が《土の塵》から造られた者としての人間の見方を強調するときは、私たちの高慢さ、傲慢さをいさめようとしているときです。自分を高い位置に置こうとしてしまう私たち――ときに神さまよりも高く――に対し、私たちはあくまで、土の塵から造られた《土の器》に過ぎないのだ、ということをこの視点は語ります。私たちは神さまによって「生かされている」存在であり、その生かされている者としての謙虚さを思い起こすように、というメッセージがここにはあります。

 

“人間の尊厳”を語る言葉への渇き

 聖書は主に、この二つの人間観に基づいて書かれていると考えることができます。この二つの見方は常に互いを補い合う関係にあります。どちらか一方のみが正解と考えられているわけではありません。その時々の状況によって、《神の似姿》としての人間が強調されたり、また《土の器》としての人間が強調されたりします。

 

 ただし基本的には、聖書は《土の器》としての人間を前面に押し出して語っている、という側面があります。それほど私たちは高慢になりやすい性質をもっている、ということでもあるでしょうが、その分、《神の似姿》としての人間という視点は見えづらくなっています。

 

 私自身、10代から20代前半にかけて、聖書は私たち人間について悲観的な見方をしている書であると思っていました。聖書が私たち一人ひとりの尊さやかけがえのなさを語っている書だとはなかなか思えませんでした。聖書の中に記された、人間は《土の塵》で造られたものに過ぎないという視点で書かれた言葉ばかりが目についてしまっていたということもあるでしょう。また人間のはかなさ、罪深さを強調する言葉ばかりが目についてしまっていたこともあります。聖書を読んでみても、だんだんと悲しいような、辛いような気持になってゆくばかりでした。

 

 確かに私たちは気が付くと高慢になってしまう存在です。私たちが謙虚になる必要があることは、私も理解しているつもりでした。しかし当時の私は自信満々の状態ではなく、むしろ、自信を失ってしまっていた状態でした。自分という存在が不確かなものに思えて仕方がない時期でした。自分という存在の確かさを語ってくれる言葉をこそ、必要としていました。私たち“人間の尊厳”を語る神さまの言葉に、私は渇いていたのです。

 

 私は捉えていたこの感覚は、「渇き」という言葉が、もっともぴったりときます。旧約聖書の詩編の中に、《涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める》(詩編422節)という言葉がありますが、まさにこのような感覚でした。自分という存在の大切さが分からない時、私たちの心は強い渇きを感じます。それは体の渇きとは違いすぐに身体に影響があるわけではありませんが、次第に私たちの健康に深刻な影響を及ぼしてゆきます。

 

パウロが提示する新しい人間の在り方

《神の似姿》としての人間と、《土の器》としての人間――。

この二つの人間の見方は、ときに私たちを混乱させることもあります。それぞれの見方が、私たちが直面している状況に必ずしもいつも適切に当てはまるとは限らないからです。自信満々な人に《神の似姿》としての視点を伝えると、さらに、高慢さを増大させてしまうかもしれません。一方で、自分の大切さを見失っている人に《土の器》としての視点を伝えると、ますます自分自身の存在の価値を感じられなくなってしまうかもしれません。ここに、私たち人間を二つの見方で分けて語ることの難しさがあります。

 

 使徒パウロは新約聖書に収められた手紙において、この問題を突破する、新しい人間の在り方を私たちに示しています。特に、本日の御言葉であるコリントの信徒への手紙二4章は、その手がかりを私たちに提示してくれている部分です。共に改めて、パウロの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 

 4章の4節にこのような言葉がありました。《この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです》。

 ここに、《神の似姿》という言葉が出てきました。注目すべきは、《神の似姿であるキリスト》という言い方がなされているところです。私たち人間ではなく、キリストが《神の似姿》とここでされていることに、私たちは心を留めておきたいと思います。

 このように語った上で、パウロは7節で次のように語ります。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために》。

 ここで、《土の器》という言葉も出てきました。4節には《神の似姿》という言葉、この7節には《土の器》という言葉が登場しています。7節では、私たちは《宝》をその内に納める《土の器》であると言われています。ここでの《宝》とは、いったい何を指しているのでしょうか。たとえば「福音」であるということもできますし、大切な「使命(使徒職)」であるということもできるでしょう。しかしいまわたしたちは、それらを生じさせる源である、「イエス・キリストご自身」が、ここで《宝》であるとされていると受け止めてみたいと思います。つまり、このパウロの言わんとするところは、「わたしたちは、イエス・キリストご自身を《土の器》である私たち内に納めている」ということになります。

 

「新しい人」

神の御子キリストの内に宿す《器》としての人間――。パウロはこの新しい人間の在り方を、別の手紙の中で、《新しい人》(エフェソの信徒への手紙215節)という言葉で呼んでいます。私たちは、イエス・キリストを通して《新しい人》となったのだとパウロは理解していました。

 

 ここで、パウロが先ほどイエス・キリストを《神の似姿であるキリスト》と表現していたことを思い起こしたいと思います。このことと結び合わせますなら、私たちはいまや、イエス・キリストご自身を、《神の似姿》として自らの内にもっている、ということになります。

ここに、先ほどの問題を突破する新しい人間の見方が示唆されています。《神の似姿》としての人間と、《土の器》としての人間とに分けて考えるのではなくて、「一人」の人間の内に、同時にそのどちらも存在している、という見方です。

パウロはそれを独特な言い方で表現しています。それは《外なる人》としてはいまだ《土の塵》で造られた者としてのわたしがおり、《内なる人》としては、《神の似姿》としてのわたしがいる、という言い方です(コリントの信徒への手紙二416節)

 

内なる“泉”の経験

 少し表現が難しくなってしまいましたが、私はこのパウロが言わんとしていることを、自分の経験を通して、ほんの少しではありますが、実感しています。

 

先ほど、以前私は、“人間の尊厳”を語る神さまの言葉を渇き求めていた、ということを述べました。その渇きを覚え続ける中で、あるとき、私はその渇きが癒されたように感じた経験をしました。それは、パウロの言い方を踏まえますなら、自分という存在のもっとも深いところに、《内なる人》として、よみがえられたイエス・キリストが生きておられることを知らされたという経験です。そのことを知ったとき、自分を苦しめていた渇きははじめて鎮まりました。

 

私自身の表現で言いますなら、それは自分の心の内から、“泉”が湧き出たように感じた経験でした。わたしは、自分の心の深い場所から、“いのちの泉”が湧き出たように感じました。わたしは、この“いのちの泉”が、よみがえられたイエス・キリストであることを知りました。渇き続けていた私の心は、私自身の内から湧き出る“泉”によって、潤いを取り戻し始めました。

 

パウロは、私たちの心の深い場所に存在するこの《内なる人》を、《神の似姿》と呼んでいます。私もいまは実感をもって、このパウロの言葉を受け止めています。

 

《神の似姿》とは、私たち人間の尊厳を表す言葉です。イエス・キリストが私たちの内におられることによって、いまや私たち一人ひとりに、何ものによっても奪われることのない尊厳が与えられているのだと受け止めることができます。私自身が探し求めていた人間の尊厳についての神さまの「言葉」は、他らならぬ、私たち自身の内にあったのだと気づきました。

 

 復活のキリストは、“いのちの泉”として、そのほとりに立つわたしに、「よい」と語りかけていました。天地創造のはじめに、父なる神さまが私たち人間を「よい」と祝福してくださったように。よみがえられたキリストは、私たち一人ひとりの存在そのものを「極めてよい」ものとして、祝福してくださっていました。

この経験が、現在も私の心の原点となり続けています。私は、渇きを再び覚えたときはいつも、この“いのちの泉”のほとりに立ち還ろうとします。

 

土の器に宿された宝

7節《ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために》。

 もし私たちが《宝》を内に納めていない《土の器》であるのなら、自分自身の存在の大切さを見出すことは難しいでしょう。壊れやすい、もろくはかない《土の器》。欠けの多い《土の器》でしかないとしたら……。

 けれどもその私たちの内に、偉大な《宝》として、御子イエス・キリストが宿っていてくださるのです。このことによって、《土の器》である私たち一人ひとりの存在に、尊厳が与えられています。何ものによっても取り去ることのないまことの尊厳が、いまや、私たちには与えられています。

 

神の御子が私の内におられるのに、どうしてもはや、私たちは自分のことなどどうでもよいということができるでしょう。自分の存在など消え去ってしまってもよいということができるでしょうか。もはや私たちは、自分ひとりだけの「体」ではないのです。

 

 私たちは《神の似姿》を内に宿しながら、一方で同時に、《土の器》でもあり続けています。しかしいまやそれは、よみがえられたキリストを宿すものとしての《器》です。投げ捨てられても、打ち捨てられても構わないという器ではありません。神の御子を宿すという大切な使命が託された、器です。

 パウロはこのまったく新しい私たちの在り方を、《新しい人》という言葉で呼びました。

 

私たちもまたマリアのように

 かつて、一人の女性が神の独り子を宿す器として選ばれました。母マリアです。天使は母マリアの前に現れて言いました。《おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる》(ルカによる福音書128節)――。マリアは、神の御子をその体に宿す《土の器》となりました。

 

 かつてそれは、マリア一人に託された「使命」でありました。それはいま、私たち一人ひとりに託された使命となっています。私たち一人ひとりが、マリアのように、神の御子を内に宿す《器》とされています。

 

 それはあまりに大きな恵みです。しかしその恵みのただ中を生きる者と、いまや私たちは新しくされています。耳を澄ますと、私たちの心の深みから、祝福の声が聞こえて来るでしょう。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。