2013年9月15日「キリストの苦しみと結ばれる」

2013915日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二145

「キリストの苦しみと結ばれる」

 

幼い子どもと体の不調

幼い子どもは、どこか体に不調であっても、それが「どのように苦しいのか」を言葉にできないときがあります。大人であれば、「胃のあたりが痛む」とか、「吐き気がする」とか、「頭ががんがんする」とか、「体が熱っぽい」とか、いろいろ自分の辛さを言葉にできますが、幼い子どもは必ずしもそうではありません。自分の辛さを言葉で表現することはできないことがあり、そのような時、子どもはただ泣くことしかできません。傍らにいる大人が泣いている子どもに向かって、「どこが苦しいの?」「どんなふうに苦しいの?」と聞いてあげることによって初めて、その子の苦しみの理由やその状態が明らかになってゆきます。

 

体のどこかを擦りむいたとか、怪我をしたというのなら、外から見て一目瞭然ですが、体の内側の不調は、どこが、どのように苦しいのか分かりません。ですので、子どもに聞くしかないのですが、子ども自身、自分が「どのように苦しいのか」言葉にできない時もあります。自分の「辛さ」を表現するための語彙がいまだ少ないからです。皆さんも、幼い頃のことを思い出してみると、そうだったのではないでしょうか。

 

私がよく思い出すのは、「胃の痛み」の感覚を初めて理解した時のことです。小学生高学年の頃、胃の調子が良くない友人がいて、しかし私はそれがどのようなものか分かりませんでした。なので、自分は胃が痛くなったことはない、と思っていました。中学一年生の頃、ある時ふと、「胃の痛み」という言葉と、運動会の時の徒競走の前などに「胸のすぐ下の方がピリピリしていた感覚」とがつながった瞬間がありました。「ああ、あれが胃が痛いということだったんだ」と私は初めて理解しました。ということは、自分は胃が痛くなったことがなかったのではなく、今まで何度も、緊張する場面などで胃の調子が少し悪くなっていたのだということに気が付きました。緊張する場面において何となく感じる体の違和感が、「胃の痛み」であると理解していなかったのです。

 

苦しみを言葉にすることの難しさ

目には見えない身体の内側の苦しさを言葉にするのが難しいように、目には見えない「心の苦しさ」を言葉にするのも、大変難しいことです。それは幼い子どもだけではなくて、私たち大人もまた、そうではないでしょうか。技術が発達して、いまや体の内側の様子もレントゲン写真などで見ることができますが、もちろん心の中までは見ることはできません。何となく体の不調を感じていてもそれを言葉にすることができないことがあるように、私たちは心の不調を言葉にできないことが数多くあります。いやむしろ、言葉にはできない正体不明の感情が渦巻いているのが、私たちの心であるということができるでしょう。

 

はっきりとは言葉にできないけれど何となく感じている違和感というものが、私たちの心の中にはあります。しかし私たちはそれを意識して、言葉にするということがなかなかできません。私たちが普段言葉で表すことができているのは、心の中に渦巻く感情の、ごくごく一部でしかありません。私たちは自分でも、自分がどのように苦しいのか、分からないことの方が多いのです。

 

その違和感の底には、大きな苦しみや辛さが横たわっていることもあります。それら苦しみは確かに存在し、私たちの心の健康を脅かし続けているようなのですが、私たちはその苦しみをはっきりと名指しすることはできないのです。

 

「あなたはどのように苦しいの?」

そのような時、もしも「どのように苦しいの?」と語りかけてくれる人が傍らにいたら、どんなに私たちは助かることでしょう。泣いている幼い私に向かって、「どんなふうに苦しいの?」と聞いてくれた大人がいたように……。この語りかけがあって初めて、私たちの内の言葉にできていなかった苦しみにスポットが当たります。その苦しみに言葉が与えられ、かたちが与えられてゆく第一歩がはじまります。

 

反対に、もしも傍らに「どのように苦しいの?」と語りかけてくれる人が誰もいなかったとしたら、どんなに辛いことでしょう。体の苦しさを言葉にすることができない子どもがただ泣くことしかできないように、そのようなとき、私たちは心の中でただ泣くことしかできません。そうして、その苦しさの中でうずくまることしかできないのです。

 

映画や小説で、内容はぜんぜんハッピーではない暗い作品に出合った時、しかし私たちは不思議と慰めを感じるということがあります。その理由の一つとして、言葉にはできなかった自分の辛さがそこに表現されているから、ということがあるのではないでしょうか。そのことで自分の辛さ自体が解消するわけではないのですが、自分の目に見えるかたちでそれがはっきりと表現されたとき、やはり私たちは或る慰めや、解放感を感じるのです。(あなたはこのように苦しいのですね)と、自分に代わって表現してもらったという気持ちになります。

 

ぼんやりとしていた辛さにかたちが与えられ、言葉が与えられ、名前が与えられる時。その時、私たちの心は、ほんの少し、楽になります。それは言い換えれば、自分の苦しみを離れたところから見つめる視点が与えられた、ということでもあるでしょう。

 

私は高校生から大学生にかけて、毎日のように詩や文章を書いていました。そのことを通して、自分の心の内を言葉にするのはいかに難しいかということを実感しましたが、同時に、それをやっと言葉にすることができたときいかに慰めと解放感を得るかということも経験しました。

 

もちろん、詩を書いたことによって苦しみ自体がなくなるわけではありませんが、自分の心を正確に言葉にすることができたと感じたとき時、慰めを覚えたことを思い出します。

 

振り返ってみますと当時の私にとって、詩を書くことは自分自身に「どのように苦しいの?」と語りかける作業でもあったように思います。自分で自分にそう語りかけることによって、言葉にできていなかった感情にスポットが当たります。そうして、その感情に言葉を与えてゆくことによって、(ああ、自分はこのように、苦しいのだな)とその感情を客観的に見つめ、ときに乗り越えてゆくという機会が与えられてゆきました。

 

私たちの内の「名づけえない苦しみ」

さて、いま私たちは「どのように苦しい」でしょうか。私たち自身の心の内にはいまどのような苦しみがあり、私たちはそれが「どのように苦しい」でしょうか。

 

自分の心に目を向けてみたとき、その内にはいまだ言葉にすることができていない、数多くの苦しみがあることに気が付くことと思います。心の深い所から、私たちに影響を与え続けている苦しみほど、言葉にすることは困難であるでしょう。「名づけえない苦しみ」はいまも私たちの心の中に数多く存在しています。

 

言葉にできない苦しみの直接的な「原因」となった出来事は、言葉にすることはできるかもしれません。「これこれこういうことがあったから、自分は苦しんだのだ」と。しかし重要なのは、その出来事によって、「どのように自分は苦しいのか」「どのように今も苦しいのか」ということです。このことを言葉で言い表すことが、私たちにはとても難しいのです。

 

心の内には確かに痛みがあります。苦しみがあります。いまも私たちはこの「名づけえぬ苦しみ」をいくつも抱えながら生きています。

 

いまだ言葉にされずにいる苦しみにスポットを当てることは、とても重要な意味をもっているように思います。私たちの心の奥にしまいこまれている苦しみや辛さや怒りの感情は、私たちの日常生活にも影響をもたらし続けています。時にそれは私たちを破壊的な言動へと促します。

 

それら破壊的な言動を阻止するための第一歩は、それら心の深くにある感情を「意識する」ということです。今まで名づけえなかった苦しみにスポットが与えられ、言葉が与えられた時、私たちはそれらの感情に闇雲に影響を受けるということはむしろ少なくなってゆきます。

 

「キリストの苦しみ」と結ばれるという経験

私は以前、自分の内の「名づけえない苦しみ」に、はっきりと名前が与えられるという経験をしました。それは今までのように、詩を書くことを通して苦しみに言葉を与えるということとは、まったく異なった次元での経験でした。その経験をしたのは、ただ一度だけですが、それを境に、苦しみに対する自分の意識が変わってゆくこととなりました。それは、自分自身の内の「名づけえない苦しみ」が、「十字架におかかりになったキリスト」とつながるという経験です。

 

この経験を通して私は、自分の個人的な苦しみが、十字架におかかりになったキリストの苦しみと結ばれているということを、実感をもって受け止めるようになりました。イエス・キリストを通して、自分の言葉にできない苦しみには言葉が与えられ、名前が与えられているのだ、と。自分の苦しみには、「キリストに連なる苦しみ」という名前が与えられているのだ、と知りました。

 

キリストの苦しみに結ばれることによって、私たちの苦しみ自体が取り去られるわけではありません。しかし、そのことを通して神の御子キリストと“ひとつ”に結ばれているのを知ること――私はここにこそ、深い慰めを感じました。このことを通して、見失っていた神さまとの関係が、再び取り戻されたように感じました。たとえこの先、さまざまな苦しみが続いていったとしても、このまことの慰めがあるかぎり、自分は生きることを選び取ってゆくことができるだろうと思いました。

 

キリストの苦しみと慰め

本日の御言葉の5節に、《キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちに及んでいる》という言葉があります。《キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです》。

 

「キリストの苦しみ」という言葉は、もとのギリシャ語では、キリストの「パセーマタ」です。英語でいうと「パッション(passion)」。つまり、「キリストの受難」という意味です。手紙の著者であるパウロは、「キリストのご受難の苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいる」と語っています。キリストの受難の内には、誤解される悲しみ、孤独の苦しみ、裏切られる痛み、見捨てられる痛み……私たちが経験するあらゆる痛みが含まれています。

 

 私たちの心の内に横たわっている「名づけえない苦しみ」。それら一つひとつが、この「キリストのご受難の苦しみ」と連なっている、とパウロは語ります。苦しみの一つひとつが、十字架におかかりなったキリストと結ばれている。私たちの苦しみは、十字架という一本の樹に結ばれている、小さな一枝であるのです。

 

 このことを知らされる時、私たちの苦しみに、まったく新しい恩寵の光が当てられてゆきます。キリストを通して名づけえぬ苦しみに言葉が与えられ、名前が与えられるという経験をします。私たちの苦しみに、「イエス・キリストに連なる苦しみ」という新しい名前を与えられてゆきます。そうして私たちはキリストと“ひとつ”に結ばれているということを知ります。この“まことの現実”こそ、私たちのまことの「慰め」です。苦しみのただ中にあっても、その苦しみを通して、キリストと共に在る慰めが、私たちの心を満たしてゆきます。

 

他者の内の「名づけえない苦しみ」

この慰めを受けた私たちはまた、いま苦しみの中にある人を慰めることができるようになってゆく、とパウロは語ります。4節《神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます》。

 

シモーヌ・ヴェーユというフランスの女性の思想家は、《隣人愛に満ちているということは、ただ隣人に向って、「あなたの苦しみはどんなですか」とたずねることだ》と記しています(『神を待ちのぞむ』より)。言い換えれば、「隣り人を愛する」ということは、いまだ名づけられていないその人の苦しみに心をとめ、「あなたはどのように苦しいのですか?」と語りかけることだといえるでしょう。

 

ヴェーユは、「注意力」が育まれている人だけにそれができる、と述べています。いまだ言葉にされず、名づけられていないその人の苦しみに目をとめるには、非常な注意力が必要とされます。

 

私たちが普段何気なくやり過ごしてしまっている瞬間瞬間の中に、おそらくこれら声にならない“声”は満ちみちています。私たちが受け流してしまったその人のつぶやきの中に……。私たちが目にとめることのなかったその人の悲しそうな表情の中に……。私たちが忙しく通り過ぎてゆく歩みの中に……。私たちが気付くことのない、名づけられない苦しみは、私たちの間に満ちみちています。

 

私たちは普段自分の苦しみにのみ囚われているので、それら“声”を聴きとり、傷を負って横たわっている存在に目をとめることができずにいます。

 

まことの慰めの「道備え」のために

しかしひと度、神による慰めを与えられた者は、いま苦難にある人を慰めることができる、とパウロははっきりと語っています。慰めを受けた者は、今度は苦しむ人に慰めを与える者になるという、大切な役割が与えられているのです。ただし、まことの慰めを与えることができるのは主なる神さまのみです。私たちは、その慰めが与えられることの「道備え」をする役割を担っているのだということができるでしょう。

 

私たちが目の前にいる人の言葉にならない苦しみに心をとめ、その苦しみに向かって、「あなたはどのように苦しいのですか?」と語りかけるとき、私たちを通してキリストがその人に語りかけてくださいます。私たちの存在を通して、他でもない、キリストご自身がその人に語りかけてくださいます。その人の名づけえぬ苦しみに向かって、「あなたはこのように苦しいのですね」と、キリストご自身が語りかけてくださるのです。

 

その時、その人の苦しみに、キリストの恩寵の光が差し込み始めます。

「名づけえぬ苦しみ」が、「キリストに連なる苦しみ」へと変わり始めます。

そのことによって、苦しみ自体が取り払われるわけではありません。しかしその苦しみが、その傷口が、それそのものとして、恩寵の泉へと変わり始めるのです。私たちにはそのまことの慰めの「道備え」をする者としての、大切な使命が与えられています。

 

 最後に、イザヤ書4013節をお読みいたします。《慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。/呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ》。

 

 私たちの名づけえぬ苦しみから、イエス・キリストを通して、まことの慰めを湧き出させてくださる主に、共にお祈りをおささげいたしましょう。