2013年9月29日「つなぎとめるキリストのきずな」

2013929日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二167

「つなぎとめるキリストのきずな」

 

キリストとの絆

「絆」という言葉があります。東日本大震災を機に、この絆という言葉は、私たちに日本に住む者の心に改めて、大切な言葉として刻まれることとなりました。この「絆」が2011年を表すもっともふさわしい漢字としても選ばれたことも記憶に新しいことと思います。

 

この「絆」という言葉は、もともとは、牛や馬をつないでおくための「綱」を指す言葉だったようです。たとえば、道端の木に綱をくくりつけ、それを牛や馬に結ぶ。そのようにして離れないようつなぎとめておくための綱が、絆と呼ばれていた。それが近年、人と人との結びつきを指す言葉として使用されるようになったようです。

 現在はよい意味で用いられることの多い「絆」ですが、元来はむしろ「縛るもの、束縛するもの」というニュアンスをもつ言葉であったようです。飼育する動物が離れないようにつなぎとめておく「綱」がもとものの絆の意味するところであったからです。

 

クリスチャンとはどういう者たちであるか、ということを考えますとき、この絆という言葉を用いるとしたら、それは「キリストとの絆」に結ばれた者である、ということができると思います。もちろん、私たちはただ一方的に、動物のように綱でつながれているわけではなりません。しかし、イエス・キリストともはや離れることがないようにしっかりと結ばれているという点においては、私たちとキリストとの関係は、元来の意味の「絆」にも近いものがあるように思います。

私たちがもはや離れることがないように、キリストの方から、私たちをご自身との確かな「絆」で結び合わせてくださっているからです。

 

北野武監督Dolls』 ~一本の紐でつながれあった夫婦~

北野武監督の映画にDolls2002年)という作品があります。菅野美穂さんと西島秀俊さん主演の作品です。この映画の中で、菅野さんと西島さん演じる男女のカップルが、一本の赤い紐で互いの胴をつなぎ合う場面が出てきます。そうして、道行く人を驚かせながら、この男女は放浪の旅に出ます。

 

この不思議な男女の姿は、北野武監督が実際に、昔浅草で目撃した夫婦がモチーフになっているそうです。当時の呼び名をあえてそのまま引用しますと、その夫婦は人々から《つながり乞食》と呼ばれていました。この夫婦は、互いの胴を赤い紐で繋ぎあって、路上で生活していたのだそうです。

 

Dolls』という映画の中で、特に印象に残っているシーンがあります。紐でつながれた男女が土手を歩いているとき、一人が転んで草むらにころがり落ちると、もう一人もひっぱられて草むらにころがり落ちる、というシーンです。互いの体を紐でつないでいるので、否応なしにそうなってしまうのです。滑稽な姿であると言えばそうですが、紐で互いをつなぎ合ったこの男女の姿は、何か私たちの胸に迫ってくるものがあります。「絆」という言葉の意味を、私たちに教えてくれているようにも思います。

 

一本の紐で結ばれた同士は、一人が立ち止まるときには、もう一人も立ち止まらねばなりません。自分がまだ歩きたいと思っても、相手が止まれば、必然的に自分も止まらなければなりません。また、自分が右に行きたいと思っても、相手が左に行きたいと思っていたら、互いにひっぱりあって、ぶつかってしまうことになります。常にお互いに進行方向を確認し合う必要があります。不自由といえば、これは大変「不自由な」関係です。

 

また、映画の1シーンにもありましたように、相手がつまずいて転ぶと、自分もつまずいでしまうことにもなります。紐で結ばれた二人は、苦しみや痛みを、その全身をもって共に経験しなければならないという関係にあります。これは重いといえば、大変「重い」関係です。

 

よい時も悪い時も、二人を結びつけ、離れることがないようにする一本の紐……。私たち人間関係における「絆」も本来、このような「重み」をも持つものであるのかもしれません。

 

北野監督の作品を思い起こしながら私がふと思ったことは、私たちとイエス・キリストの関係が、まさにこのようなものなのではないか、ということです。

私がよろめくと、キリストもよろめく。私たちがつまずいて転ぶと、キリストもつまずく。私が座り込むと、キリストも隣に座りこむ。私も苦しいが、キリストも苦しまれている……。イエス・キリストは、このようなかたちで、私たちと「絆」を結んでくださっているのではないでしょうか。キリストは私たちと一心同体となって、確かな、重みのある「絆」をもって、私たちと共に歩んでくださっているのだと私は信じています。

 

主と共に歩む道

私たちがイエス・キリストと一心同体に結び合わされているということ。それはまた同時に、キリストが行こうという方向に、私たちも必然的に自分も伴われてゆく、ということでもあります。互いをつなぐ絆で結ばれた私とキリストは、もはや別々の方角に向かうことはできません。どちらかが、どちらかの道に従うしかありません。

あくまで自分の行きたい方角を主張し続けるか、それともキリストが促す方へ自分もついてゆくのか。人生のさまざまな局面で、私たちはその決断を迫られることがあるでしょう。

 

ヨハネによる福音書の中で、よみがえられた主がペトロに対しておっしゃった次のような言葉があります。《はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる2118節)。ペトロはこれからは他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れてゆかれる、というのです。

 

ときに私たちと結ばれたキリストの絆は、私たちを行きたくないような場所に連れてゆくことがあるかもしれません。意にそわないところへ、私たちを連れてゆくことがあるかもしれません。その意味において、キリストとの絆は、確かに私たちを「縛り、束縛する」ものでもあります。キリストとの絆がなければ、私たちは自分の行きたいところへ、自分の意のままに行けたことでしょう。

 

この道における「慰め」

コリントの信徒への手紙の著者であるパウロは、どのように思っていたでしょうか。パウロは伝道者として生きる中で、数多くの苦難を経験しました。手紙の中には、それら困難のリストが示されている箇所もあります。《苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓》645節)……このような具体的な苦しみをパウロはいくつも経験したようです。自分の意にそわない方向へ自分が伴われることとなった経験も、多々あったことでしょう。先ほどの主イエスの言葉で言うと、「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れてゆかれる」経験の方が、その伝道者としての歩みの中では多かったのではないかと思います。

 

パウロは自分に困難をも与えるキリストとの絆を、どのように思っていたでしょうか。手紙を通して知らされるのは、パウロは決してそれを「束縛」や「不自由さ」とは捉えていなかったということです。むしろ、そのただ中で「慰め」をこそ、ますます深く感じ取っていたようです。コリントの信徒への手紙二の冒頭には、「慰め」という言葉が何度も出てきています。キリストとの絆によって与えられる慰め――これこそ、パウロの心を満たしていたものであったようです。

 

パウロの魂の目には、自分と共に帯を締め、共に歩んでくださっている主が見えていたのでしょう。パウロにとって、「主が共にいてくださる」ということが、何よりの慰めでありました。

 

困難は困難として確かにあるけれども、キリストと分かちがたく結ばれているという事実そのものが、大いなる慰めとなる。もしパウロが私たちに答えるとしたら、「主がいない安楽な人生より、たとえ困難があったとしても主が共にいてくださる人生を自分は選びたい」と言ったかもしれません。

 

どのような時も主は共にいてくださる、ということが、聖書が証する慰めです。主は私たちと共に帯を締め、私たちと一心同体となって、この道を共に歩んでくださっています。

 

私たちを結び合わす「キリストという絆」

イエス・キリストはまた、私たちを互いに結び合わしてくださっています。私たちがクリスチャン同士であるということは、「キリストという絆」で結ばれている者同士である、ということでもあります。

 

自分がキリストと分かちがたく結ばれているように、私たちは他の人々とも、キリストを通して分かちがたく結ばれています。パウロはこの現実を“一つの体”という言葉で呼んでいます(ローマの信徒への手紙1245節、コリントの信徒への手紙一1220節)。私たちは互いに“一つ”のキリストの体に結ばれているのです。

 

これは「そうであったら素晴らしいなあ」という理想なのではなくて、神さまの目から見た“まことの現実”ということができます。たとえ私たちの心が、いまはそれを受け入れることができなくても、それが聖書の証する“まことの現実”(真理)です。

 

それは絆によってただ心が結ばれている、というだけのものではありません。それだけではなく、私たちの存在そのものが、互いに結ばれています。もし気持ちだけで結ばれているのだとしたら、たとえば喧嘩をしてしまったことによってそのつながりは途切れてしまうことも起こり得ます。キリストという絆はもっと深いところで、私たちの存在そのものを、互いに結び合わせています。たとえ心では互いに敵対しあうことがあっても、もっと深いところで、キリスト者は互いに切り離しがたく結ばれています。

 

先ほど述べました紐でつながりあった夫婦のように、私たちの感情を超えて、私たちの存在そのものが、キリストという絆によって結ばれています。たとえある人同士が互いに相手を無視しようとしても、口では互いにののしりあっていても、その切り離すことのできない絆によって、結ばれている。一方がよろめくとやはりもう一方もよろめいているのです。これが、神さまの目から見た、私たちのまことの姿でありましょう。

 

キリストの絆の中を、共に生きる

パウロは手紙の中で、次のように語ります。16わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです》。

 

このパウロの言葉も、「キリストという絆」を踏まえられた上で、語られています。キリストという絆で確かに互いに結ばれているので、パウロの受ける慰めは、コリントの教会の人々の慰めとなります。パウロが苦しみの中で慰めを受けることは、コリント教会全体の慰めにもなってゆきます。そうして、教会もパウロと共に、いま直面している苦難に耐える力が与えられてゆきます。

 

続いてパウロは語ります。7節《あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです》。

 

 この手紙を書いた当時、パウロとコリントの教会の間にはさまざまなすれ違いや衝突が起こっていたようです。私たち人間の目から見ると、パウロとコリント教会の関係は、むしろ途切れかけていると思えるような状況であったのかもしれません。けれどもパウロは、自分のコリントの教会に対する希望は揺るがない、とはっきりと宣言しています。キリストという確かな「絆」によって自分たちとコリントの教会は結ばれ、苦しみも慰めも共にしていることを、パウロは確信していたからです。どんな艱難や、人間同士の対立が起こったとしても、キリストの絆で結ばれた自分たちの関係は途切れることはない――パウロはそのことを信じていました。

 

キリストの絆は、私たちの感情だけではなく、私たちの存在そのものを結び合わせています。たとえ感情の次元では対立していても、もっと深い次元では、互いにしっかりと結び合わされているのです。たとえ私たちの目からは修復不可能な関係に思えても。十字架におかかりになったイエス・キリストが絆となって、すでにその断絶を取り除いてくださっています。キリストを通していまや私たちは“一つの体”に結ばれている(エフェソの信徒への手紙21416節)――これが私たちの生きる世界の“まことの現実”です。

 

パウロはこれを真理として受け入れ、パウロ自身、その真理に基づいて、生きようと願っていたのでしょう。聖霊によって開かれたパウロの魂の目には、“ひとつ”に結び合わされているキリストの教会の姿が見えていたのです。

 

コリントの信徒への手紙二の中にはこのような言葉もあります。1129節《だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか》。「誰かが弱っているなら、自分も弱らないではいられない」。これはパウロの心からの言葉であったことと思います。キリストの絆で結ばれた自分たちは、一人が弱って座り込むと、もう一人も弱って共に座り込みます。そうならざるを得ない絆で、結ばれているからです。そうして、一人が力を得て再び立ち上がると、もう一人もそれに力を得て、共に立ち上がります。そうならざるを得ない一つの絆で結ばれているからです。

 

パウロはこのキリストの絆の中をこそ、懸命に生きようとしていたのでしょう。そしていまも私たちに、このキリストの絆の中を「共に生きよう」と呼びかけ続けています。

 

どうぞ私たちも、キリストの絆という真理から、まことの慰めと力を得て、この道を共に歩んでゆけますように願います。聖霊なる主が私たちのまどろむ魂の目を開いてくださって、この世界のまことの在り方を見ることをなさしめてくださいますように。