2013年9月8日「共なる苦しみと慰め」

201398日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二113

「共なる苦しみと慰め」

 

はじめに

本日から、コリントの信徒への手紙二の御言葉を共に聴いてゆきたいと思います。

コリントといいますのは、現在のギリシャの南部に位置する都市で、コリントスとも呼ばれます。いまから2000年近く前、ユダヤ教とはまったく異なる伝統をもつこのギリシャの地に、キリストの教会が建てられました。そのために尽力したのが、この手紙の書き手でもある使徒パウロでした。

 

1-2節《神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。/わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように》。

 

まったく文化や伝統、宗教が異なるこの地にキリストの教会を建てることは、すさまじい困難を伴うことであったようです。パウロは手紙の端々で、その困難について触れています。

教会が無事に建てられてもそれで一安心ということはなく、今度は教会内においても、さまざまな問題が生じるようにもなったようです。手紙を読むと、当時、コリント教会はさまざまな問題を抱えていたことが分かります。それら具体的な諸問題についてていねいに指示を書き記しているのが、このコリントの信徒への手紙二です。

 

慰めを豊かにくださる神

パウロは心を込めて挨拶の言葉(12節)を記した後、次のように語り始めます。3節《わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように》。

 

この3節にありますのは、父なる神さまへの賛美です。この手紙は、神さまへの賛美から始まっています。ではどのような方としてパウロは父なる神をたたえているでしょうか。まず第一に、「私たちの主イエス・キリストの父である方」として。次に、「慈愛に満ちた父」として。そして、「慰めを豊かにくださる方」として。

 

 最後のところに、「慰め」という言葉が出てきました。父なる神さまは「慰めを豊かにくださる方である」とパウロは語ります。本日の御言葉のキーワードとしたいのは、この「慰め」という言葉です。本日は皆さんと共に、主が私たちに与えてくださる「慰め」について、耳を傾けたいと思います。


慰め ~そばにいること~

私たちにとって、どのようなことが「慰め」でしょうか。

この手紙のもとの言葉でありますギリシャ語では、慰めは「パラクレーシス」という言葉となっています。「パラ」というのは「そばに」という意味をもっています。後の「クレーシス」は、「呼び寄せる」という意味をもっています。この二つを合わすと「そばに呼び寄せる」という意味となります。そばに呼び寄せ、その人の傍らに立って、語りかけること。そのイメージが、この「慰め」という言葉の成り立ちに含まれています。

 

ここに、私たちは一つのヒントを見出すことができるのではないでしょうか。その人のかたわらにいて、語りかけること。もしくは、ある人が自分のかたわらにいて、語りかけてくれること。そこに共通してあるのは、「そばにいる」という姿勢です。それが「慰め」につながっているのです。

 

またたとえ、言葉はなくても、「そばにいてくれること」それだけで、私たちの慰めになる、ということもあるのではないでしょうか。今までの私たち自身の日々を振り返ってみて、誰かが「そばにいてくれた」ことそのことが、何よりの慰めとなったという経験があるのではないかと思います。

 

 もちろん具体的なアドバイスを受けたり、励ましの言葉を受けることで元気が出るということがありますが、たとえ何も言葉がなくても、ただ「そばにいてくれた」ということが、私たちの何よりの慰めとなることがあります。言葉を超えて、その人の存在自体が、私たちに何事かを語りかけていてくれるのです。

 

 このパラクレーシスという言葉のもっているニュアンスにヒントを得て、ここではまず第一に慰めとは「そばにいる」(共にいる)ことである、と捉えてみたいと思います。

 

 慰めとは「共にいること」であるとすると、パウロが記す「慰め」を豊かにくださる神さまとは、いつも「共にいてくださる」方であるということになります。「主が共にいてくださる」ということは、パウロだけはなく、まさに聖書全体が証ししていることです。神さまは、いつも私たちのかたわらに立ち、語りかけてくださっています。

 

慰めを拒む

一方で、私たちには「慰めを拒む」ということが起こります。自分が苦しみのただ中にいるとき、自分を慰めようとして来てくれた人の言葉を受け入れることができないことがあります。ささやかな苦労に関しては、慰め、励ましてもらえると素直に嬉しく感じますが、本当に苦しい時、私たちはむしろ慰められることを拒む自分がいることに気づきます。

 

聖書が語る神さまの慰めの言葉も、受け入れることができない時があります。神さまが語りかけてくださっているはずの、聖書の慰めの言葉を受け入れることができない時があります。そうして、どんどん心が閉じていってしまうのです。

 

「慰められるのを拒む」場面は、聖書自体の中にも記されています。たとえば創世記の37章には、わが子を失った(と誤解してしまった)ヤコブが、慰めを拒む場面が出てきます。創世記373435節《ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた》。

わが子を失った悲しみの中で、ヤコブは慰められることを拒みます。同様の箇所として、エレミヤ書の中にこのような言葉があります。

エレミヤ書3115節《主はこう言われる。ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから》。ここでも、息子たちを失った母親のラケルが、「慰めを拒む」という言葉が出てきます。

 

私たちは苦しい時、慰めを与えられることを求めます。と同時に、その苦しみが大きければ大きいほど、反対に、慰めを拒むということも起こります。そのどちらも、私たちの率直な姿なのではないでしょうか。


ヨブ

慰めを拒む人間の姿を、もっとも克明に描いているのは旧約聖書の『ヨブ記』です。よく知られていますように、『ヨブ記』は不条理な苦難を主題の一つとしています。

物語の冒頭において、ヨブはあまりに不条理な、理不尽な苦しみを受けます。財産が奪われ、家族が奪われ、そして自分自身もひどい皮膚病となります。これがヨブ記のプロローグですが、そのプロローグの最後に、ヨブの親しい友人たちがヨブのもとへやってくる場面があります。ヨブを見舞い、慰めようとして、それぞれの国からはるばるやってきてくれるのです。

 

ヨブ記211-13節《さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった》。

 

 慰めようと来てくれた友人たちでしたが、ヨブのあまりの苦しみを前に、話しかけることができなかった、と記されています。何も慰めの言葉をかけることができなかった。その代わり、友人たちは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていました。さきほど「慰め」という言葉には「そばにいる」というニュアンスが含まれていると申しました。その意味では、友人たちは慰めの言葉をかけることはできなくても、ずっとヨブの「そばにいる」ことを通して、知らず知らず、慰めの行為をしていたということになります。

 

しかしこの時ばかりは、親しい友がそばにいてくれても、ヨブにとって慰めとはならなかったようです。77晩の後、ついに口を開いたヨブの口から出た言葉は、自分の生まれた日を呪う言葉でした31節)。友人たちのヨブを励まそうという気持とは裏腹に、ヨブの心はもはや生きる方向ではなく、死のほうに向いていたのです。

 

ヨブ記が書かれた古代イスラエルにおいては、生きることは神から命じられた「任務」であると考えられていました(浅野順一『浅野順一著作集8 ヨブ記の研究・法の神学』)。よって、生きることの責任を放棄するようなこのヨブの言葉は、友人たちに大きな衝撃を与えたことでしょう。ヨブの恐ろしい言葉を聴いて、友人たちはたまりかねて口を開き、ヨブを諭そうとします。こうして、ヨブ記の本体をかたちづくる長い対話がはじまることとなります。

 

ヨブと友人たちの議論はずっと平行線をたどってゆきます。残念ながら、友人たちは、ヨブの苦しみを理解することはできませんでした。友人たちはそれぞれ、ヨブの苦しみの理由を説明しようとします。しかしヨブはそれら友人たちの言葉にことごとく「違う!」と感じます。(自分が何を苦しんでいるのか、何が、どのように苦しいのかを、あなたがたは何も理解していない。理解していないのにも関わらず、あなたがたはあたかもこの苦しみを理解したかのように語る……)。ヨブはこのような友人たちに対して、ついには激しい怒りをも覚えるようになります。

 

自分の「信仰」が崩された先に

しかし、その対話は、意味の無いものではありませんでした。いやむしろ、ヨブにとって、大切な意味をもつものでした。友人たちと長い時間をかけて対話を通して、ヨブの内に少しずつ変化が起こり始めていったからです。友人を前に、ありのままの呻き、嘆き、怒りを表現する中で、少しずつ、ヨブの目は死ぬことから生きることへと向き直りはじめます(ヨブ記1925節~)

 

友人と対話を開始する前のヨブは、すっかり望みを失っていました。自分自身に絶望し、神さまに対してさえ、失望していました。ヨブは今まで自分が「信仰」であると思っていたものも、すっかり崩されてしまっていました。そのように絶望しきっていた自分であったけれど、実は、完全には絶望しきれてはいなかったことにヨブは気づき始めます。それでもなお、自分の内に、「生きよ……」と促す存在が在ることに気づきはじめるのです。

 

そしてこの発見は、友人との対話があったからこそです。友人たちが忍耐強くかたわらにいて、たとえヨブの心に届かない言葉であったとしても、それでもなお語り続けてくれていたからこそ、起こり始めた変化であるということができるでしょう。やはり、たとえ私たち自身は無力であっても、苦しむ人の「そばにいる」ことは、大切な意義をもち続けています。

 

イエス・キリスト

 自分の存在の深みから、「生きよ……」と促すその存在。ヨブは、その存在をはっきりと名指しすることはできませんでした(ただ一言、《わたしを贖う方》と呼んでいます。1925節)。しかし確かに、そのような方がいてくださり、自分の内に小さな光をともしてくださっていることに気づくのです。

 

 絶望しきったようで、それでもなお、完全には絶望していない。何とかして自分をつなぎとめようとしている存在がある。まっくらな暗闇にいるようでいて、それでもなお、ほのかに明るい場所がある。生きることをあきらめようとするこの私を、「生きる」方へと必死につなぎとめようとしている方がいる。
 慰めを拒み続けていた他ならぬ自分自身の内に、はじめから、慰めの言葉がともり続けていたことに気づいたのです。

 

 それはもはや私たちの側からの「信仰」ではなく、私たちの「信仰」をも超えて、私たちに語りかけている“何か”です。言葉に言い表しがたい“何か”、“どなたか”――。

 

ある人はそれを私たち人間に本来的に備わっている生きる力というかもしれません。ある人はそれをいのちの呼び声と呼ぶかもしれません。またある人はそれを愛と呼ぶかもしれません。

そのどれも、ふさわしい呼び名であるということができます。

私たち教会は、この方を「イエス・キリスト」と呼びます。ヨブが名付け得なかった方とは、この方です。この方は、私たちのかたわらで、私たちと共に苦しみながら、十字架におかかりなった姿で、「生きよ……」と語り続けておられます。言葉を超えた言葉で、御自身の存在そのものを「言葉」として、「生きよ……」と私たちに語り続けてくださっています。この方こそが、私たちが完全には絶望しなかった、まことの理由です。


共なる苦しみと慰め

 わたしが神学生の時に出席していた教会の先生からお聞きした、印象深いエピソードがあります。その先生が若き日に洗礼を受ける時、いまだクリスチャンではなかったご両親が、教会の牧師に「クリスチャンになると何かよいことがあるのですか」と聞いたそうです。するとその教会の先生は「そうですね……絶望しなくなるでしょうね」とおっしゃったそうです。この言葉は私の心にとても印象に残りました。

 

確かに、私たちの日々の生活を振り返りましても、キリスト者になったからといって、必ずしも、いつも喜びに満たされているわけではない、ということはもちろんのことでしょう。信仰をもったからといって、いつも生き生きとした希望をもって生きることができているわけではない。実際私たちはクリスチャンになってもなお、悩み、途惑い、怒り、苦しみ続けています。しかし、最後の最後で、完全に絶望をすることはなくなっている自分を見出すことはできるでしょう。

 

どんなに辛い時も、確かに、私は完全には絶望することはなかった。完全なる暗闇というものを経験することは無かった。どれほど辺りが暗くて真っ暗に思える時でも、視界の隅のほうが、ほのかに明るかった。かすかに差し込んでくる、小さな光があった。それは私たちの意志の力を超えて、そうだった……。

 

私たちがいま改めてその理由を知らされます。私たちが完全には絶望しなかったのは、私たちの心のもっとも暗い場所に、イエス・キリストが共にいてくださっていたからです。私たちの内の、もっとも暗い場所を御自分の住まいとしてくださり、私たちと共に苦しみつつ、「生きよ」と呼びかけ続けてくださっていたからです。どうぞいま改めて、私たち一人ひとり、これを“まことの現実”として受け入れたいと願います。

 

「生きよ!」 ~永遠の命の呼び声~

私たちはこの主イエス・キリストを通して、まことの「慰め」が与えられています。この方こそ、私たちのそばにいて、共にいてくださる方です。主イエスは十字架におかかりなった姿で、私たちの苦しみの傍らに立ち、その存在をもって、私たちに語りかけておられます。そうして私たちを生きることへとつなぎとめ、命の光の方へと伴おうとしてくださっています。これまでもずっとそうであり、いまも、これからもそうです。

私たちはこの慰め主なるイエス・キリストを、「永遠の命」と呼びます。永遠の命であるイエス・キリストは、私たちの存在のもっとも深みから、「生きよ!」と呼びかけてくださっています。この命の呼び声に従うとき、私たちの目は生きることへと向き直ります。

私たちのまことの慰め主、主イエス・キリストの父なる神さまに、共にお祈りをおささげいたしましょう。