2014年1月12日「和解の言葉」

2014112日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二51821

(イザヤ書52710節、エフェソの信徒への手紙21418節)

「和解の言葉」

 

和解という言葉

いまお読みしました聖書の御言葉の中に繰り返し登場している言葉として、「和解」という言葉があります。たとえばコリントの信徒への手紙二518節を改めて読んでみます。《これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました》。この一文の中に二回も、和解という言葉が出てきました。

和解という言葉は、法律の用語としても用いられますが、私たちの普段の生活の中でも用いられることのある言葉です。身近な言葉で言い換えれば、「仲直り」を意味する言葉です。

 

この和解ということは、この度の聖書の御言葉のキーワードであるだけではなく、聖書全体のキーワードの一つであるということができます。

 

では誰と誰との仲直りかといいますと、それは「私たちと神さま」です。私たちは通常、人との関係において和解という言葉を用いますが、聖書ではまず第一に、神さまとの関係において、この言葉を用いています。

 

神さまとの和解、自分自身との和解

和解という言葉の前提として、和解する必要のある両者が「紛争状態にある」ということがあります。対立し、争っている状態にあるからこそ、仲直りをする必要があります。ということは、聖書は、「私たちが神さまと対立している状態にある」と言っているということになります。

 

 私たちが神さまと対立しているということは、あまり実感が湧きづらい事柄でもあるかもしれません。ときに辛い出来事にあったとき、「神さま、なぜこのような出来事を起こすのですか」と神さまに敵意を抱いてしまうということはあるでしょう。しかしいつもいつも神さまに敵対心をもって生活をしているという人は少ないのではないかと思います。

 

私たちが日々の生活において敵対してしまうのは、やはりまず、人に対してです。私たちも今までの自分の歩みを振り返った時、仲直りの出来ていない人、仲直りをしたい人の顔が、幾人も思い浮かぶのではないでしょうか。そのような私たちに向かって、しかし本日の聖書の御言葉は、私たちが誰かと仲直りするより先に、まず、神さまと仲直りをするようにと呼びかけています。

 

 では、神さまと仲直りをするということは、どういうことでしょうか……?分かったようで、分かりづらいことでもあります。神さまと和解するということは、言い換えますと、「自分自身と和解する」ということと関わっています。私たちが自分自身と和解することが、神さまと和解することへつながっているのです。そのように捉え直した時、本日の聖書の御言葉がより身近に感じられるようになるかもしれません。私たちが自分自身と仲直りするとき、そのとき、私たちは神さまとも仲直りをすることになります。

 

 私たちが日々の生活において、もっともよく「紛争状態」に陥ってしまうのは、他ならぬ自分自身に対してです。(自分に腹が立つ。自分がゆるせない。もう自分のことなんかどうでもいい……)。私たちがもっとも頻繁に「対立してしまう」相手とは、あの人でもこの人でもなく、自分自身ではないでしょうか。私たちが仲直りすることが絶えず必要である相手は、他の誰でもない、自分自身です。

 私たちは気が付くと、自分自身をないがしろにしてしまっています。自分でももはや意識することがなくなってしまうほど、絶えず自分の心と体と魂をいじめ続けてしまっていることもあります。

 

自分自身を大切にすること

聖書を通して神さまが私たちに伝えている重要なこと、それが「自分自身を大切にする」ということです。そしてそれは、神さまが私たちを大切に想ってくださっているからです。

 

たとえば聖書には、神さまが私たちに語ったこのような言葉があります。《わたしは主、あなたの神…わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする(イザヤ書4334節)。神さまは聖書の言葉を通して、いかに私たちの存在が《価高く、貴い》ものであるかを伝えようとしてくださっています。私たち一人ひとりの存在はかけがえのない、この世界で唯一のものである。神さまは私たちにそのことに気づき、自分を大切にし、隣人を大切にする生き方をしてほしいと願ってくださっています。

 

私たちがその神さまの想いに反し、自分自身を大切にできずにいるとき――その状態を、聖書は「私たちが神さまと対立している状態」と言っています。

もしも子どもが自暴自棄な状態に陥ってしまっていたとしたら、親は心を痛め、悲しむことでしょう。神さまはそのように、私たちが自分を大切にできていない状態に心を痛められ、その状態から私たちが抜け出すことを願ってくださっています。私たちが自分自身をまことに大切にすることができたとき、私たちは神さまとも和解をしていることになります。

 

誰かに大切にされている「わたし」

私たちが自分を大切にできていないとき、それは「自分が誰かに大切にされていること」を忘れているときでもあります。私たちが自暴自棄な状態になってしまっているとき、ふと正常な感覚に引き戻してくれるのは、たとえば大切な家族の存在であったり、友人の存在であったりします。(こんなことをしていたら、両親が悲しむのではないか。あの人が悲しむのではないか……)。「自分が誰かに大切にされていること」を思い出した時、私たちはふと我に返ったように、「自分自身を大切にする」ことをも思い出します。

 

 言い換えますと、私たちは自分ひとりの力だけでは、まことに「自分を大切にする」ことはできないということができるかもしれません。誰かに大切にされているからこそ、自分を大切にしなければならないのだという想いもまた湧いてきます。

 

 一方で私たちはときに、「自分が誰かから大切にされている」ことを感じることができなくなるときもあります。それほど心が辛い状態に追い込まれ、自分が独りぼっちでいるような心境になってしまうことが私たちにはあるでしょう。たとえ私たちが独りぼっちになってしまっても、どんな状況になったとしても、他ならぬ、神さまご自身が、いつも私たちを大切に想っていてくださいます。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し…(イザヤ書434節)。私たちをつくられた神さまご自身から大切にされていることを知ったとき、私たちの内に、まことに「自分自身を大切にする」道が開かれてゆきます。

 

神さまの言葉 ~イエス・キリスト

 誰かを大切に想う気持ちというものは、言葉にされ、行動として表されて、その相手に伝えるものです。神さまは私たちを大切に想っていることを伝えるため、実際に言葉を発してくださいました。その「言葉」が、イエス・キリストです。イエス・キリストは「神さまの言葉」を伝えるため、私たちのもとにやってきてくださいました。

 

 改めて、コリントの信徒への手紙二518節をお読みいたします。18節《これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました》。この聖書の御言葉が語るように、神さまは《キリストを通して》、私たちに御自分のまことの想いを伝えようとしてくださっています。イエス・キリストは神さまご自身の言葉であるのです。

 

 ただしイエス・キリストは単に音声としての言葉をもって、私たちに神さまの“まことの声”を伝えてくださっただけではありません。それ以上に、行動をもって、全生涯をもって、その存在そのものを言葉として、私たちに神さまの“声”を伝えてくださいました。

 

 イエス・キリストが生涯をかけて発された言葉とは、「わたしはあなたを愛しています」という一語です。この一言を私たちに伝えるために、イエス・キリストはその全生涯を費やしてくださいました。そしてその生涯の最後には、私たちのために御自分の命までもささげてくださいました。十字架におかかりになりながら、ご自分の命をささげながら、イエス・キリストはそのお姿そのものを言葉として、私たちに神さまの愛を伝えてくださいました。十字架におかかりになりながら、言葉を超えた言葉で、キリストは「わたしはあなたを愛しています」という神さまの“声”を私たちに伝えてくださっています。

 

この言葉はかつて発されただけではなく、いまも、私たち一人ひとりに向かって語られている言葉です。いま、この礼拝において、イエスさまは十字架におかかりになった姿で、わたしたちと共におられます。そして、言葉を超えた言葉で、私たちに語りかけておられます。

 

和解の言葉

 ここで、私たちがどのような人間であるかは一切問われていません。今までの歩みにおいて、私たちはよいこともしてきました。悪いこともしてきました。人を大切にできたこともありましたが、人を傷つけてしまったことも、それ以上にありました。けれども、私たちの良いところも過ちもすべて含めて、神さまは“あるがまま”の私をいま、受け入れてくださり、大切に想っていてくださっています。このわたしそのものを、いま、神さまは愛して下さっています。

19節はこのように記しています。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです》。

神さまは私たちの過ちは一切問うことなく、私たちにイエス・キリストという《和解の言葉》を与えてくださいました。この《和解の言葉》はいま、言葉を超えた言葉で、私たちに語りかけています。「わたしはあなたを愛しています」と――。

 

この言葉に出会うとき、私たちは自分という存在がどれほど大切であるかを知らされます。自分という存在のかけがえのなさを知らされます。この言葉と出会うとき、神さまとの和解が起こり始めます。そうして私たちは、自分が神さまから大切にされているように、隣にいる人も大切にしたいと願うようになってゆきます。

 

命の言葉

 では私自身、この神さまの《和解の言葉》をいつも聴くことができているかというと、まったくそうではありません。心の扉が閉じてしまっていることの方が、むしろ多いように思います。心がすねたようになり、心が素直に神さまの言葉の方に向かわない時が、数多くあります。

 しかしそれでもなお、私の内に確信としてありますのは、たとえ私自身の心が閉ざされていても、私たち一人ひとりに対する「わたしはあなたを愛しています」という神さまの言葉は真実であり、どんなときも変わることはないということです。私たちがそれを受け入れるか、受け入れないかを超えて、神さまはいつも私たちに愛を注いでいてくださり、私たちを支えていてくださっているのだと私は信じています。

 たとえば両親の愛というものは、子どもがそれを受け入れるか受け入れないかに関わらず、注がれ続けるものでありましょう。そしてどんなときも、子どもを支え、力づけようとするものでありましょう。イエス・キリストを通して私たちに注がれている神さまの愛こそ、そのようなものです。キリストによって示されたその愛は、どんなときも私たちを支え、私たちを生かして下さっています。

 

 その意味で、イエス・キリストとは、神さまの「愛の言葉」であると同時に、私たちを生かして下さっている「命の言葉」でもあるということができます。イエス・キリストは私たちの命となって、私たちの日々の生活を深いところから、いつも支え続けてくださっています。私たちの意思や信仰をも超えて、キリストの命の光は私たちの存在を根底から支え、私たちの生きる力となってくださっています、私たちは、自分の力で生きているのではなく、イエス・キリストの愛と命によって「生かされている」存在です(ガラテヤの信徒への手紙220節)

 

生かされて歩む喜び

 自分が生かされている存在であるからこそ、いま与えられているこの命を大切にしたい、と私たちは思います。また、自分が生かされている存在であるからこそ、生きることに喜びを感じることができるようになってゆきます。

 

 20節には、《キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい》という言葉がありました。このメッセージとは、「わたしはあなたを愛しています」という神さまの言葉を受け入れなさい、ということでもあります。

 なぜ聖書が絶えず私たちにそう呼びかけ続けるか。それは、そこにこそ「喜び」があるからです。私たちが、ありのままに、ただ無条件に愛され、生かされているに気づくこと――聖書はこのことを私たちが受け入れることによって、私たちの心に喜びが湧き出でることを願っています。そしてそれは、神さまご自身が、私たちに願ってくださっていることです。神さまは私たちに和解がもたらされ、その心が喜びで満たされてゆくことこそを、いつも願ってくださっています。

私たちが与えられたこの自分の命を大切にすることができるように。また互いのかけがえのない命を大切にしあうことができるように。そうして、生かされて歩む喜びを共に感じることができるように、と。

神さまのこの願いを、いま、ごいっしょにこの心に受け止めたいと思います。