2013年1月19日「今や、恵みの時」

2014119日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二612

(イザヤ書4989節、ヨハネによる福音書52426節)

「今や、恵みの時」

 

サン=テグジュペリ『星の王子さま』

フランスの作家サン=テグジュペリの『星の王子さま』という本があります。皆さんの中にも愛読しておられる方がいらっしゃるかもしれません。この本の中に出て来るよく知られた言葉として、《いちばんたいせつなことは、目に見えない》という言葉があります。この言葉は、目で見えるものだけではなく、心で見ることができるものの中にこそ、大切な事柄があるということを伝えています。

 

『星の王子さま』は、サハラ砂漠に不時着した飛行機乗りの「僕」と、そこで出会った一人の男の子(王子さま)との物語です。心に残るエピソードや対話が間に挟まれながら、「僕」と王子さまは井戸を求めて歩き続けます。物語の舞台は、広大なサハラ砂漠です。語り手である「僕」はこんな砂漠に井戸などあるのだろうかと疑問を覚えつつ、王子さまといっしょに歩いてゆきます。

井戸を訪ね求める歩みの中で、王子さまは「僕」に向かって、ぽつりとこのようなことを語ります。

《「砂漠って、美しいね」王子さまが、ぽつりと言いたした……

そしてそれは、ほんとうだった。僕はずっと、砂漠が好きだった。なだらかな砂の丘にすわれば、あたり一面、なにも見えない。なにも聞こえない。それでもその静寂のなかで、なにかがひっそり光っている……

「砂漠が美しいのは」王子さまが言った。「どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね……」》(河野万里子訳、新潮文庫)

 

 この王子さまの言葉によって、語り手の「僕」は、なぜ自分は今まで砂漠を美しく感じていたか、その理由を理解します。その美しさとは、目に見える美しさではなくて、目には見えない大切なものから来る美しさであったことに気がつきます。砂漠が美しいのは、そのどこかに、井戸を目には見えないところに隠しているから。目には見えない大切なものを内に秘めているからこそ、この世界のものごとは、一つひとつ、美しく輝いて感じられる。「僕」はそのことに気がつきます。

 「僕」と王子さまは歩き続け、ついに井戸にたどり着きます。

 

「たいせつなことは、目には見えない」

『星の王子さま』が伝えてくれているこの世界の見つめ方は、私たちに大切なことを思い出させてくれます。慌ただしく生活する中で、私たちは《たいせつなことは、目には見えない》ということをいつしか忘れてしまっていることが数多くあります。目には見えない大切なことに目をこらそうとすること少なく、目に見えるものばかりを求めてしまうことが多い日々です。目に見えやすいきらびやかなもの、目立つもの、分かりやすいものをついつい求めてしまいます。 

 しかし一度足をとめて、忙しくしていた心を静かにして見ると、目には見えないところで、私たちを支えてくれているものがいかに多いことか、私たちは思い出します。私たちの生活をまことに支えてくれているものとは、目立つものではなく、普段は目には見えづらいところにあるものです。たとえば、『星の王子さま』に出て来る井戸のような存在です。そのような一見地味で目立たないものが、私たちの生活にまことの潤いを与え、輝きを与えてくれています。

 

井戸のイメージ

たとえば同じ「水を得る」にしても、井戸から水を得るのと、雨によって水を得るのとでは、ずいぶん印象に違いがあります。空から降ってくる雨は、恵みとして、分かりやすいものです。雨には誰でも気がつくし、辺り一面が一気に、その恩恵に与ることができます。

対して、井戸というものは、地味で目立たない存在です。その都度水源まで水を汲みに行かなければならないし、雨のように、辺り一面を一気に潤してくれるわけでもありません。しかし井戸はいつも、そこにあり続けてくれている存在です。雨のように、天候によって降ったり止んだりはしません。井戸は私たちの目には見えないところでこんこんと湧き続け、人々の生活に日々必要な水を与え、支え続けてくれています。

 

本日の聖書の箇所に「恵み」という言葉が出て来ました。たとえば62節には、このような言葉があります《今や、恵みの時、今こそ、救いの日》――。ここでの恵みとは、「神さまからの恵み」ということですが、私は、「神さまからの恵み」というものも、この「井戸」のようなものなのではないかと受け止めています。天から盛大に降り注ぐものであるというよりかは、目には見えないところで私たちの生活を支え続けている井戸のようなものではないか、と思うのです。

 

神さまの恵み

さまざまな問題にぶつかって苦しいとき、私たちは神さまの恵みが、雨のように天から降ってくることを願います。空から雨が降り注ぐように「幸運」が降ってきて、この現状を変えてほしいと願うのです。もちろん、自分が願いどおりに、恵みの雨が天から降ってくることもあるでしょう。しかし自分の都合のよいように、幸運が天から降ってくるということは、極めて稀なことです。突然の出来事によって私たちの生活が一気によい方向に変わる、ということは実際はほとんどありません。実際はほとんどあり得ないということは分かりつつも、私たちはそのような「奇跡」を、心のどこかでいつも神さまに願い続けていることがあります。私たちは半ば無意識に、天から降り注ぐ雨のようなものとして、神さまの恵みをイメージしていることがあります。

 

けれども聖書が語る恵みとは、どうやら、そのような恵みではないようです。聖書が語ろうとする神さまの恵みとは、突然の恵みの雨が降り注ぐようにして、何か私たちの生活を劇的に変化させるような恵みではない。もちろん、時には、そのようなことも「奇跡」的な出来事も起こり得るでしょう。しかしそのように、問題が一気に解決するようなかたちで恵みが与えられることは、私たちの人生には極めて稀なことです。

 

「なんだかがっかり……ではもう神さまにお願いするのはやめよう」という気持ちになってしまう(!?)かもしれませんが、しかし聖書が語る恵みとは、「井戸」のようなものであるとしたら、どうでしょうか。劇的に私たちの生活を変えるものではありませんが、目には見えないところでいつも私たちの生活を支え続けてくれているものだとしたら、どうでしょうか。それこそ、私たちにとって、かけがえのない恵みであるということができるのではないでしょうか。《たいせつなことは、目には見えない》――このことは、神さまの恵みについても、言えることです。

 

私たちを「生かす」恵み

改めて、本日の聖書の御言葉をご一緒に読んでみたいと思います。コリントの信徒への手紙二61わたしはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません》。

 手紙の著者であるパウロは、「神さまからいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と語ります。ここで《無駄に》という言葉がありますが、これは、私たちの受け取り方次第で神さまの恵みが「無駄になる」ということではありません。私たちがその恵みに気が付かなければ、恵みの力そのものが失われるということではありません。

 そうではなく、神さまの恵みとは、私たちがそれを意識するかしないかを超えて、私たちの力となってくださっているものです。私たちの信仰をも超えて、私たちを「生かして」くださっているものです。いわば、私たちの「命」となってくださっているもの――聖書は神さまの恵みをそのように根源的な、私たちを「生かす」力として、伝えています。それほど深いところで働いている力であるので、私たちは普段はそれを恵みとして気づくことが少ないのかもしれません。私たちの目には見えないところで、神さまの恵みは私たちの一日一日を支えてくださっています。人知れずこんこんと湧き出る井戸の水のように、日々私たちに命を与え、私たちの生きる力となってくださっています。

 

《神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません》というパウロの言葉は、いま・ここで私たちを生かして下さっているこの神さまの恵みに気づきなさい、という促しであるのでしょう。いま・ここに湧き出ている神さまの恵みをまるで「当たり前」のもののようにして受け流してしまうことのないように、という促しです。

 

今や、恵みの時

続けてパウロは語ります。62節《なぜなら、/『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』/と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日》。

 二重カッコで括られている部分は、旧約聖書のイザヤ書という書からの引用です(イザヤ書498節)《『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』》。このイザヤ書の言葉は、コリントの信徒への手紙二が書かれた時からさらに600年ほど昔に記された言葉です。パウロがなぜここそんなに昔の言葉を引用しているかというと、この旧約聖書の預言の言葉が、今の時代についに実現したと考えているからです。かつて神さまが預言者イザヤに約束してくださった《恵みの時》が、ついに訪れた。

 

 パウロにとって、神さまの恵みが尽きぬ泉として与えられることは、まったく「当たり前」のことではありませんでした。それは長い間、人々が待ち望み続けてきたものであったのです。パウロが引用しているイザヤ書の言葉は、このように続きます。イザヤ書49910節《彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。/彼らは飢えることもなく、渇くこともない。/太陽も熱風も彼らを打つことはない。/憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる》。

 

 ここでは私たち人間は荒れ地を旅する「羊(家畜)」にたとえられています。荒れ地を旅する中で、太陽と熱風は羊たちの体を打ちつけてきます。飢えと渇きが、羊たちを襲っています。イザヤ書はそのような存在として私たち人間を描いています。しかしそのような私たちのために、やがて《憐れみ深い方》がやってきて、自分たちを《湧き出る水のほとり》に導いてくださる、とイザヤは伝えます。

 旧約聖書の時代から待ち続けてきたその《恵みの時》が今や訪れたのだ、とパウロは確信していました。水を求めて放浪し続ける私たちに、神さまはついに、湧き出る泉を与えてくださった。私たちはもはや、水を求めて渇きさまようことはない。パウロは、だからこそ、喜びのあまりまるで歌い上げるようにして記しました。《今や、恵みの時、今こそ、救いの日》。

 

イエス・キリストが与える水

 そして、私たちを《湧き出る水のほとり》に導いてくださった《憐れみ深い方》こそ、イエス・キリストであるとパウロは伝えています。神さまは約束通り、イエス・キリストを私たちのもとに遣わして下さり、私たちを命の泉のほとりに導いてくださいました。

 

 イエス・キリストご自身の言葉として、次の言葉があります。《わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(ヨハネによる福音書414節)。イエス・キリストによって与えられる水は、私たちの命となり、私たちを生かして下さるものです。その神さまの恵みが、いま、私たちに与えられています。イエス・キリストを通して、いま私たち一人ひとりに、尽きることのない命の泉が与えられています。今や、その「恵みの時」です。

 

命の泉に根を下ろし

 先ほどイザヤは私たち人間を「羊」でたとえましたが、聖書の他の箇所では、私たちそれぞれが「樹」としてたとえられることがあります。神さまの恵みは流れる水であり、私たちはそのほとりに植えられた樹である、というのです(たとえば詩編13節《その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない》)。この「樹」のイメージを用いて言いますなら、私たちは今や、イエス・キリストという泉に根を下ろしている存在である、ということができるでしょう。

 

私たちはその尽きぬ泉に根をはり、その水によって生かされている樹です。この大地で生きている限り、やはり日照りの日があり、嵐の日があるでしょう。それら天候によって、時に、葉や枝が落ちてしまうこともあるでしょう。しかしそれでもなお、私たちは枯れ果ててしまうことはありません。私たちの樹の根の下を、命の泉がこんこんと湧き出で続けてくださっているからです。私たちは今や、大地の底を流れるこの泉に、しっかりと根を下ろしている存在です。私たちは一人ひとり、この目には見えない命の泉によって、神さまからの美しさが与えられ、かけがえのない輝きが与えられています。

 たとえ葉が落ちても、花が落ちても、私たちはこの恵みに根を下ろしているので、もはや枯れ果ててしまうことはありません。この恵みに根を下ろしている私たちは、時が来れば再び葉を茂らせ、花を咲かすでしょう。

 《いちばんたいせつなことは、目に見えない》――目には見えないこの神さまの恵みに、私たちがいつも、深く根を下ろしていることができますように、願います。