2014年1月26日「消えることのない光」

2014126日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二6313

(詩編23編、ローマの信徒への手紙83539節)

「消えることのない光」

 

底力

コリントの信徒への手紙二の著者であるパウロの言葉を読んでいて感じることの一つ、それはパウロは「底力」のある人だということです。ふだんは表面に現れていないけれど、いざというときに出てくる強い力。パウロはそのような底力がある人である、というのが私が感じるところです。

パウロの手紙の中に、《手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない》という彼に対する批判の言葉が引用されています。この言葉にもありますようにパウロは一見、弱々しい印象を与えることもある人であったようです。見た目は必ずしも、力強い人でなかった。しかし、いざという時に、底力を発揮する人であったように思います。たとえば4節に、《苦難、欠乏、行き詰まり、/鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓》という、パウロが経験した困難のリストが記されています。そのような困難に直面した時、パウロは底力を発揮してそれら大変な状況に耐えることができたのです。

 

 しかしそれは、パウロが飛びぬけて強い精神力をもっていたからではない、ということが、パウロ自身の言葉を読んでいると分かってきます。パウロが大変な状況にも耐えることができたのは、パウロがもともと備えていた力によるものではありませんでした。パウロは7節で、《真理の言葉、神の力によってそうしています》と語っています。パウロのその底力とは、パウロ自身の力ではなく、神さまから来るものであったのです。

 

 パウロの底力は神さまから与えられたものであったのだとすると、その力は私たち一人ひとりにもまた与えられているものだ、ということができます。私たち一人ひとりにもまた、神さまからの底力は与えられています。ただし、それを発揮することができるか、否かの差は生じて来ることでしょう。パウロは困難に直面した時、神さまからの力を発揮することができたようです。

 では、パウロはなぜその力を発揮することができたのでしょうか。その理由の一つに、パウロが幾度も自分の「底」を知る経験をしたことがあるのではないかと思います。

 

自分の「底」を知らされる経験

 私たちは困難に直面した時、自分の「底」を知らされるという経験をします。自分自身普段からうすうす感じているけれども、懸命に隠そうとしている自分の「弱さ」が、困難を前にあらわになってしまう経験です。

 

私たちが普段の生活においてパウロほどの困難を経験することは稀であると思いますが、やはり時に大変な状況に直面することがあります。そのとき、私たちは動揺し、取り乱してしまいます。心の中は恐れでいっぱいになります。

そのようなとき、私たちは自らの「底」が知れる経験をします。普段はその弱さにフタをして、自分が強く、賢く、動揺することのない人物のように装っていますが、いざ困難に直面してフタが外れると、何とも情けない自分の「底」が露呈してしまうのです。自分はこんなに弱い人間であったのか。こんなに臆病で、もろい心の人間であったのか。改めて自分自身の弱さを思い知らされます。

 

パウロもまたそのような経験をしたようです。手紙のある個所にはこのような言葉があります。《マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです》75節)

 パウロもまた、さまざまな困難の中で、自分の「底」を知らされる経験を何度もしたのではないかと思います。手紙のある個所には、このような率直な言葉もありました。《兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました》18節)。このときの苦難とは、おそらく牢屋に投獄される経験であったと推測できます。鞭打ちと監禁と飢餓が合わさった大変な苦難であったでありましょう。そのような想像を絶するような困難の中で、パウロもまた、自分の「底」を知らされ、平静を失ってしまったことがあったようです。

 

神の力によって

しかし、そのように、自分の弱さや無力さが極まったときに、その「底」の部分から湧き出ている自分を超えた力にパウロは出会いました。自分を超えた力――つまり《神の力》に出会いました。その神さまの力によって、パウロは自分自身ではとても「耐えられない」と思ったその苦しみを、結果的に耐えることができたのです。パウロは自らの「底」を知った時、同時に、その場所から湧き出ている「神の力」にも出会ったのです。

先ほどの引用した言葉はこのように続きます。《兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。/わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました》189節)

 

 9節の中に、わたしたちは《死にかかっているようで、このように生きており…》という言葉があります。この言葉は、以上のようなパウロの経験から紡がれた言葉であるのでしょう。自分たちはまるで死んでいるようで、しかし見よ、自分たちは生きている……!

 自分自身の力ではなく、神さまの力によって「生かされる」ということを幾度も経験したからこそ、パウロの内には、神さまの力への信頼が深められていったのです。経験に基づいたこの信頼が、困難に直面したときも、パウロの心に静けさと平安をもたらす助けとなったことでしょう。改めてパウロの言葉を読んでみます。37節《わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、/あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、/鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、/純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、/真理の言葉、神の力によってそうしています》

 

自分の「弱さ」を受け入れる

自分の「底」を認めることとは、言い換えますと、自分の「弱さ」を率直に受け入れることです。私たちは自分自身の弱さ、無力さを受け入れるからこそ、その無力さの中から泉のように湧き出ている神さまの力に出会います。パウロは手紙において繰り返し、そのことを私たちに伝えようとしています。

その代表的な言葉が、《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》12910節)です。2013年度の花巻教会の主題聖句にもしている一節ですね。

「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」――聖書が語るこのメッセージは、いつの時代においても、失われることのない「新しさ」をもっているように思います。コリントの信徒への手紙が書かれた当時はもちろん、いまを生きる私たちにもやはり新しい言葉であり続けています。それは、自分自身の「弱さ」を率直に認め受け入れることが、私たちにとって常に難しいことであり続けているからです。

 

「強い」ことが価値という偏見

 パウロの手紙が書かれた当時のコリントの社会では、「強い」ことが価値あることとされていました。単純に言うと、「強い者は尊敬され、弱い者は軽蔑される」社会です。コリントの教会においても、個々人の信仰の強さや人格の高さ、賢さや学識の豊かさ、また奇跡を起こす霊的な能力の高さなどを重視される風潮があったようです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というパウロのメッセージは、そのようなコリント社会の偏見や風潮に、真正面から対抗するものとなりました。

 

 強い者は尊敬され、弱い者は軽蔑される社会というのは、しかし、コリントの社会だけではなく、私たちの人間の歴史において繰り返し登場し続けているものです。私たち自身もまた、知らずしらず、自分の弱さを責め、強さに価値を求めてしまうことがあるのではないでしょうか。それは無意識にといっていいほど、私たちが常に陥ってしまう状態であります。だからこそ私たちは繰り返し、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という聖書のメッセージに立ち還る必要があるのでしょう。聖書の御言葉によって、私たちは自分自身で造りだしてしまっている偏見にブレーキがかけられます。

 

教会の務め

1113節をお読みいたします。《コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。/わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。/子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください》。

「自分で自分の心を狭くしてしまう」というコリントの人々の状態は、私たち自身がよく陥ってしまう状態です。私たちは自分の心を狭くして、自らの「弱さ」を率直に受け入れることができないでいることが多いです。自分で自分をあるがままに受入れることができず、心にフタをし、表面を「強さ」や「賢さ」で覆ってしまいます。

そのように自分の心を狭くしている状態では、当然、他者の「弱さ」も受け入れることはできません。私たちの心はどんどん狭くなり、互いの関係性もどんどん窮屈なものになってゆくでしょう。

 

私たちはこの作業に、生涯をかけて、取り組んでゆくのだと思います。一度きりで解決する問題ではありません。気が付くと今日もまた私たちは、自分で自分の心を狭くして、自分と他者を受け入れることができなくなっています。私たちは日々新しく、聖書のメッセージに立ち還る必要があります。そうして自分自身の内にある偏見に気づく必要があるでしょう。

弱さがあることは悪いことではありません。ただ、弱さを受け入れることができないことが、問題であると聖書は語っています。自分の弱さをそのままに受け入れることができさえすれば、キリストのまことの力がわたしたちを満たします。この聖書のメッセージを人々に伝えてゆくことが、私たち教会に託されている務めです。

現在の私たちの社会には依然として「強さ」を価値とする風潮があり、それどころか、その風潮が煽られていっているように思います。私たち教会は今こそ、このような風潮に対してメッセージを発し、そのブレーキの役割を果たすことが求められています。

 

底におられる十字架の主

 私たちは、自分自身の「底」において、イエス・キリストと出会います。私たちの心の「底」にイエス・キリストは十字架におかかりになった姿で共におられます。もっとも無力な、十字架にはりつけになった姿で――。そのもっとも深い場所から、キリストは私たちに向かって「生きよ」と叫んでおられます。この言葉によって、私たちは命を与えられ、生きる力が与えられています。私たちの心の「底」で輝く、消えることのないこの光が、私たちの力の源です。私たちの「底力」です。

私たち一人ひとりに、イエス・キリストからのまことの力が与えられています。だからこそ私たちは《死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、/悲しんでいるようで常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有して》(910節)いるということができます。

 

弱さの内に光が宿る

 十字架におかかりになるキリストがおられるこの場所において、私たちはありのままに受け入れられています。私たちの弱さも何もかもすべてが、無条件に、受け入れられています。

 

十字架の主がおられるこの場所において、私たちの弱さはもはや、取り除かれるべきものではありません。この聖なる場所において、私たちの弱さは、キリストの命の光を受け入れる神殿(616節)の一部とされています。

 

最後に、12910節の御言葉をもう一度お読みいたします。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》。

今日新しく、私たちがこの神さまからのメッセージに立ち還ることができますようにと願います。