2014年1月5日「新しい出来事」

201415日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二511-17

(イザヤ書4316-20節、ローマの信徒への手紙147-9節)

「新しい出来事」

 

 2014年になりました。皆さんは、年末年始はどうお過ごしになったでしょうか。

本日の御言葉であるコリントの信徒への手紙二517節に、このような言葉があります。《だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた》。新しい年になって初めての主日礼拝である今日、聖書が示そうとしている「新しい事柄」について、ご一緒に耳を傾けてみたいと思います。

 

新しいものとの出会い

 日々の生活の中で、私たちは沢山の「新しいもの」に出会います。新聞に折り込まれている広告を見ますと、毎日たくさんの新しい商品が売り出されています。私たちはまた、物だけではなく、「新しいこと」に出会います。新しい考え方や新しい知識。インターネットの普及により、私たちは日々膨大な新しい情報にさらされることになりました。

「新しいもの」との出会いということで言うと、私たちは日々多くの「新しいもの」と出会っていることになります。ただ、私たちが普段目にする「新しいもの」とは、新しいようでいて新しくない、というものがほとんどです。すでにある型をどこかしらリニューアルしたものが「新しいもの/こと」として私たちの前に提示されている。もちろん、従来のものをより良くしていこうとする営みはとても大切なもので、欠かせないものです。

 

一方で、私たちの内には、「まったく新しいもの」を見てみたいという願いもまたあるのではないかと思います。たとえば映画なり、音楽なりでもいいのですが、まったく新しいものを見てみたいという望みは、多かれ少なかれ私たちは抱いているのではないでしょうか。たとえば、芸術や科学の分野で、時に革新的な作品や理論が現れることがあります。今まで見たことがないような独創的な作品に出合った時、人は頭がガツンとやられたような衝撃を受け、そして感動します。また、時に新しすぎて周囲の人には理解されず、時間が経つにつれ評価が高まるという例もあるでしょう。たとえばキュビズムの先駆けとなったピカソの「アヴィニヨンの娘たち」(1907年)。アインシュタインの相対性理論(19051916年)など。

 

革新的な作品や理論というものは、つまるところ、私たちの「世界の見方」に何らかの影響を及ぼすものということができます。私たちの世界観に変化をもたらしてしまうかもしれないもの。「新しいもの」との出会いを通して世界が今までの見方と違ったように見えたとき、私たちは新鮮な感動を覚えます。喜びを覚えます。だからこそ私たちは、「新しいもの」と出会いたいという願いを心のどこかにもっているのでしょう。

 

心のどこかで覚える不安

聖書もまた、私たちに「新しい事柄」を提示しようとしている書です。私たち人類の歴史において、「まったく新しいもの」。とんでもなく壮大なスケールにおいての、「まったく新しいもの」を私たちに提示しようとしています。

 

聖書が提示しようとしている「新しい事柄」とは、私たちの世界の見え方そのものを変えてしまう、まったく新しいものであるということができます。聖書は私たちの世界の見え方そのものを変えてしまうかもしれない本であり、さらに言うと、私たちの世界の見え方を変えようという意図をもって、書かれている本です。

 

私たちは聖書に向き合う時、心が躍ると共に、心のどこかで不安を覚えることもあるのではないでしょうか。私たちの今までの世界の見方そのものが揺さぶられる、覆される可能性があるのですから、何かしらの不安や恐ろしさを感じるのはむしろ当然のことであると思います。

 

 私たちは、変化を求めると共に、変化を嫌がる性質を持ち合わせています。矛盾するような性質を、どちらも持っているのです。変化を嫌がるというのは、生物としての防衛本能でもあるのでしょう。私たちは本能として、現状を維持しようとする性質をもっています。ですので、変化が求められるということ自体が、その内容がよい・悪いに関わらず、不安に感じることがあります。

「新しいもの」に出会った時、ワクワクするのか、もしくは不安を覚えてしまうか。それは言い換えれば、その「新しいもの」が自分にとって安全であるか否かが関わっている、ということができます。「新しい事柄」が自分のテリトリーに侵入してくるように感じた時、人は感動より先に、まず不安や恐れを覚えてしまうのです。

たとえば今まで見たことがないようなまったく新しい映画が創られたとします。映画ファンは熱狂して喜ぶでしょう。一方で、同業の映画関係の仕事に携わる人々は、何かしらの不安を覚えるのではないでしょうか。同業者の人々にとっては、その新しい作品が、自分たちの安全を脅かす存在になるかもしれないからです。

 

コペルニクスの地動説 ~地球中心説から太陽中心説へ

「新しいもの」がむしろ不安や恐れを人々の内に引き起こすということの代表的な例は、コペルニクス14731543の地動説でありましょう。ご存じのようにコペルニクスは、従来の定説であった「天動説」に替わって「地動説」を提唱しました。天動説は、地球を中心として、その周りを太陽をはじめとするすべての天体が回っているとする説です。対して、コペルニクスが新しく提示した地動説は、太陽を中心として、その周りを地球が回っているとするものでした。

 「コペルニクス的転回」という言葉もありますが、これはまさに当時の人々の世界の見方を180度変えてしまうような視点でした。地球を宇宙の中心とする説(地球中心説)から、太陽を中心とする説(太陽中心説)へ、その世界観そのものに変更を迫っているのですから、感動に先立って不安や恐れを覚えてしまうのは当然のことでもありましょう。また当時、この地動説にもっとも拒否反応を示したのが、キリスト教会でした。地球を宇宙の中心とする天動説は、その時代のローマ・カトリック教会公認の教えでもありました。その教会の教えとまったく異なったことが提唱されたのですから、教会としては脅威を感じ、歓迎するのではなく、むしろ拒否反応を示したのです。

 

聖書が語る“まことの現実” ~自分中心説からキリスト中心説へ

さて改めて、聖書が示そうとしている「新しい事柄」について、戻りたいと思います。先ほど、聖書が語る「新しい事柄」は、私たちの世界の見え方そのものを変えてしまうかもしれないものである、ということを述べました。

ただし聖書は、世界の「見え方」だけ変えるように伝えているのではなくて、神さまによって世界の「在り方」そのものが新しく変わった、ということを私たちに伝えようとしている書です。世界の在り方そのものが新しくなったので、それに伴い、私たちの世界の見え方も変わらなければならない、というのがその使信の内容です。そこがたとえば先ほどのコペルニクスの地動説との違いです。

コペルニクスの地動説においては、太陽の周りを地球が回っているというのは、昔から変わらぬ現実でした。ある時を境に、新しくそうなったということではもちろんありません。コペルニクスが提唱したのは、あくまで世界の「見方」の転換です。対して、聖書が語ろうとする「新しいこと」とは、世界の「在り方」自体が、ある時を境に変わった、ということです。そのある時とは、イエス・キリストがこの世界に来られた時です。

 

 では、どのように新しく変わったかと言いますと、それは、「この世界の中心がイエス・キリストになった」ということです。宇宙やすべてのものをすべて含めて、そのすべての中心が、イエス・キリストになったということです。そのことは私たちにどう影響するか。それは、キリストに結ばれる者もまた、その中心がキリストになる、ということです。

 

私たちは日々の生活において、常に自分を中心にして世界を見つめています。それはいわゆる自己チュー(自己中心性)というだけではなく、私たちには、自分を中心にして世界を見つめざるを得ない側面があります。私たちは、この「自分」を通してしか、世界を見つめることができません――と、これが今までの通説でありました。そのような従来の在り方に対して、今や、私たちの中心は自分ではなく、イエス・キリストになった、と聖書は語るのです。

つまり聖書は、太陽中心説ならぬ、「キリスト中心説」を、新しく打ち出そうとしているのです。「自分中心説」に変わって、新しく「キリスト中心説」を提唱している。そしてそれは、単なる視点の転回ではなく、それがこの世界の新しい現実である、というのです。

 

コリントの信徒への手紙二517節で、パウロは語ります。《だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた》。

 ここでの《古いもの》とは、自分自身を中心とする在り方です。《新しいもの》とは、キリストを中心とする在り方です。いまや、《古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた》とパウロは語ります。世界の「あり方」そのものが新しく変わったので、それに伴い、必然的に私たちの世界の「見え方」も変わってゆけねばならないというのです。それは同時に、私たちの「生き方」も変わってゆかねばならない、ということでもあります。

 

パウロはそのかつて誰も目にしたことも聞いたこともないような「新しさ」を表現するため、旧約聖書の天地創造を思い起こさせる言葉を用いています。《キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです》。かつて神さまが新しく天地を造ったように、いま私たちは新しく創造された。パウロはそれほど大きな出来事として、この出来事を受け止めているのだということが分かります。

 

生かされている者としてのわたし

キリストが私たちの中心となったこの出来事とは、どのようなことでしょうか。分かったようで、分かりづらい事柄であるかもしれません。私自身、この新しい出来事を、まだほんのわずかしか理解できていません。私のわずかな理解から言うことができるのは、それは「私たちがもはや自分の力で生きるのではなく、キリストが私たちの内に生きるようになった」(ガラテヤの信徒への手紙220節)出来事である、ということです。言い換えますと、私たちがキリストの命によって、「生かされている」存在となった、ということです。

 もしも私たちが従来の「自分中心説」に立つとしましたら、自分は自分の力によって生きている、ということになります。自分自身の価値も、生きがいも、あらゆることを自分自身の手によって造りださねばなりません。対して、新しい「キリスト中心説」においては、私たちはもはや自分の力によって生きるのではなく、キリストの命によって生きている、ということになります。私たちは、キリストの命によって「生かされている」。

 

 たとえば希望というものをどう捉えるかについて考えてみますと、自分中心説においては、希望とは自分で造りだし、自分でともし続けねばならないものとなります。何かの出来事によって消えてしまったら、それでその希望は途絶えることになってしまいます。対して、キリスト中心説においては、希望とはキリストによってともされているものとなります。たとえ私たち自身が真っ暗だと思っても、それでもなおともされ続けているものとなります。同じ希望ということでも、その捉え方は両者でまったく異なってきます。

 

 キリスト中心説は、徹底して、私たち自身の力を一度手放すようにと促しています。私たちの力や働きが何も必要ないということではもちろんありません。聖書は、私たちの働きもまた、必要不可欠であることを述べています。ただし、ギュッと握りしめている「自分」というものを、一度手放すことを、求めているのです。自分の力で何とかしなければならないと懸命になっている全身の力を一度、抜く。そうして、まるで無力な幼な子になったように、キリストの力に自分をゆだねてみる……。そうすると、その無力さの中に、キリストの力が湧き出てくる。そのキリストの力によって、私たちは豊かな働きをすることができるようになる、と聖書は語ります。

 

ただ無条件に

 では、そもそも、この「新しい出来事」はどのようにして起こったのでしょうか。聖書が証するのは、「イエス・キリストが私たちのために死んでくださったこと、そして復活してくださったこと」によって、その新しい出来事は起こったのだ、ということです。

 

 ここでもやはり、私たちの努力や働きは一切問われていない、ということが分かります。イエス・キリストが私たちのために死んでくださり、復活してくださったことによって、私たちもまた、新しい者となりました。ただ無条件に、キリストの命に、「生かされている」者となりました。

 

 自分が何かをしたからではなく、これから何かをするからではなく、ありのままに、この自分はゆるされ、生かされている――聖書は、この世界の見え方にこそ、私たち自身が変わることを求めています。なぜなら、そこに、喜びがあるからです。私たちが無条件にゆるされ、生かされていることに気づくこと。ありのままに、愛されていることを感じ取ること。神さまがイエス・キリストを通して私たちに与えようとしてくださっているものは、恐れや不安ではなく、その喜びです。

 

命の光との新しい出会い

 先月の12月に、私たちはともにクリスマスをお祝いしました。クリスマスは、この喜びのはじまりの出来事です。教会の暦では、明日16日を「公現日」と言います。「公現」とは、「公に現されること」です。公現日は、イエス・キリストの命の光が、私たちに公に現されたことを記念する日です。代表的な場面としてよく取り上げられるのは、東方の三博士への「公現」です(マタイによる福音書2112節)。一つの星に導かれ、博士たちはイエス・キリストを見出し、拝みました。キリストの光は、東方の博士たちの前に、現されました。博士たちの心は、喜びで満たされました。

 

しかし御子の「公現」は、そこで終わったわけではありません。その出会いは、2000年前のベツレヘムにおいてだけではなく、いまも、私たちの日々の生活において、起こり続けています。

 

 かつて博士たちはベツレヘムにおいてお生まれになった御子に出会いましたが、私たちはいま、私たちの内において、御子に出会います。キリストは、他ならぬ私たちの内に、命の光として日々新たに、「公現」してくださっています。

私たちは、その命の光と新しく出会い続けることを通して、少しずつ、変えられてゆきます。時間をかけて、ゆっくりと、しかし確かに、新しくされてゆきます。この私が無条件にゆるされ、生かされているということ。この私が、ありのままに愛されているということ。それが“まことの現実”であることを、私たちはその出会いの中で、少しずつ受け入れてゆきます。そうして、私たちの胸の内は少しずつ、消え去ることのない喜びで満たされてゆくでしょう。私たちの心の内が喜びで満たされてゆくこと――それこそが、神さまがいつも私たちに願っていてくださっていることです。

 

最後にイザヤ書4316-20節をお読みいたします。《初めからのことを思い出すな。/昔のことをおもいめぐらすな。/見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている》。

 共に父なる神さまにお祈りをおささげいたしましょう。