2014年10月12日「ベルゼブル論争」

20141012日花巻教会説教

 

聖書箇所:マルコによる福音書32030

「ベルゼブル論争」

 

 

空気(プネウマ)

 

お読みした聖書箇所に、「霊」という言葉が出て来ました。聖霊の「霊」ですね。この「霊」という言葉は、新約聖書が記されているギリシャ語では「プネウマ」と言います。

 

聖霊とはつまり「聖なるプネウマ」です。しかしプネウマという言葉は、聖霊以外にも用いられることがあります。たとえば本日の聖書箇所には、《汚れた霊》という言葉が出来ました(30節)。悪霊を意味する言葉ですが、この言葉は原文では「汚れたプネウマ」となっています。

 

 このプネウマという言葉がもともと持っているニュアンスは「風」「息」です。聖霊も「神さまの息吹」と表現されることがあります。何か風や息のようなものとして、プネウマがイメージされているのですね。

 

作家の山本七平氏は、このプネウマという言葉に関連して興味深い考察をしています。山本七平氏は聖書に造詣が深く、イザヤ・ベンダサンという筆名による『日本人とユダヤ人』という書でも知られている方ですが、山本氏はこのプネウマを「空気」と解釈しています。

 

山本氏ここで言う空気とは大気としての空気はなく、私たち人間が造り出す「場の空気」のことです。その場の「雰囲気」「ムード」としての空気です。山本氏はこの空気がいかに私たちに大きな影響を及ぼしているかということを『「空気」の研究』(文春文庫、1983年)という本で考察をしています。

 

 

 

山本七平氏『「空気」の研究』

 

 山本七平氏は、私たちは気づかぬうちに、自分たちが造り出している「場の空気」に拘束されている、と述べます。心の中にある気持ちを「あの場の空気では口に出せなかった」という経験を私たちはしたことがあるでしょう。また、本当は気が進まなかったことも、「あの場の空気に押されて、致し方なく引き受けた」という経験もあることでしょう。私たちが複数人集まると発生してしまう「場の空気」――この目に見えぬ不思議な力に、私たちは囚われてしまっていることがよくあります。

 

山本氏はこの目には見えないけれども確かに存在している力を「空気」、つまり「プネウマ」と解釈しました。空気とは《人びとを拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」乃至は「呪縛」、いわば「人格的な能力をもって人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」》(『「空気」の研究』、57頁)であると山本氏は述べています。

 

山本七平氏は私たちの日本という国において、特にその特徴が顕著であると述べています。確かに、私たち日本に住む者がついつい最重要視してしまうのが、「場の空気」というものです。2007年には「KY(『空気が・読めない』のイニシャル文字)」という言葉が流行語大賞に選ばれましたが、やはりいまだ日本の社会では「空気が読めない」ということが否定的に捉えられている傾向があるように思います。言い換えれば、「空気が読める」ことが素晴らしいこととされ、美徳とされている社会になっています。山本七平氏の本は30年ほど前に出版されたものですが、氏が指摘した状況はいまも変わりがない、ということができます。

 

 

 

空気を重んじることの危険性

 

「空気を読む」ことは、確かに、私たちのコミュニケーションを円滑にします。互いに場の空気を読むことでその場の人間関係に安定や秩序がもたらされるということがあるでしょう。みんなが一丸となって何かに取り組んでいるとき、空気を読んだ言動は潤滑油のような働きを果たしてゆきます。

 

一方で、場の空気を重んじることの弊害もまたあるでしょう。山本七平氏はたとえば、日本が太平洋戦争に突入したこと、またその無謀な戦いを止めることが出来なかったのも、この「空気」が大きく作用していた、と分析しています。社会全体に充満する「空気」が戦争を推進する方へどんどん傾いて行ったので、内心は(この戦争は負けるのではないか)と思っていても、大部分の国民はそれを口にすることができなかった。もしそれを口に出したら「非国民」と迫害されることになるからです。またそれは戦争の指導者たちの間でも同様であり、内心は(この戦争は負ける)と思っていても「空気」に支配され誰もそれを口に出すことができず、そうしていつしか思考停止状態に陥っていった。その結果、あの戦争で内外にどれほどの惨事がもたらされたことでしょう。このような過去の歴史を顧みます時、山本氏が指摘の重さが痛切に身に染みて感じられてきます。

 

 

 

空気の支配 ~悪霊(汚れたプネウマ)の力~

 

 山本氏はこのように私たちを拘束する目には見えない力を「空気(プネウマ)」と定義しました。聖書の用いられ方で言うと、この「プネウマ」とは「聖霊としてのプネウマ」ではなく、私たち人間を支配しようとする、いわゆる「悪霊としてのプネウマ」に該当している、ということができるでしょう。

 

 聖書に出て来る「悪霊」をどう捉えるかということについては難しさがありますが、たとえばこの悪霊を私たちの社会を支配している「空気」として捉えてみると、少し理解しやすくなるかもしれません。目には見えないけれども確かに存在し、私たちの主体性を奪い、時に私たちに否定的な影響を与えようとしている力。本日は、この力を「悪霊」「汚れた霊」として受け止めてみたいと思います。

 

改めて、マルコによる福音書32022節をお読みいたします。《イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。/身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。/エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた》。

 

21節では、主イエスが一部の人々から「あの男は気が変になっている」と言われていたことが記されています。なぜそのように言われていたかというと、それは主イエスが「空気を読まない」言動を繰り返していたからです。

 

 

 

主イエスの「空気を読まない」発言

 

たとえば以前にお読みしました2章には、《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない》27節)という主イエスの言葉が出て来ました。「神さまのために」懸命に安息日を守ろうとしている人々に対し、安息日は「人間のために」あるのだ、とおっしゃられた言葉です。安息日についての文言を遵守するよりも、いま目の前にいる人の生命と尊厳の方が重んじられるべきだ、と主イエスは宣言されました。当時社会に充満していた、「何が何でも律法を第一として守らねばならない」という空気を乱す発言を、主イエスはあえてなさったことになります。

 

社会の価値観をひっくり返すことにつながるこの「空気を読まない」発言に、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる人々は激怒しました。しかしそれでも主イエスは「空気を読まない」言動をお止めになりませんでした。そうして主イエスは一部の人から「気が変になった」と中傷されたり、迫害を受けるようになってゆくことになりました。

 

 

 

 真理に根ざした言葉

 

 山本七平氏は、「場の空気を壊す」一言を、「水を差す」一言と表現しています。「水を差す」一言が場の空気を崩壊させ、人々を現実に引き戻す役割を果たす、と。空気の支配がもっとも忌み嫌うのが「水を差す」一言ということでもありますが、あえて勇気をもって発言されたその一言が、場の空気を変えてゆく働きを果たします。

 

 主イエスの発言も、当時の社会の体制とそこに充満する空気に「水を差す」働きを果たしていった、ということができます。主イエスの言動によって、イスラエルの社会は確かに変わりはじめました。人々に否定的な力をふるっていた空気の支配は崩壊し始めました。「汚れたプネウマ」の支配に囚われていた人々は、主イエスを通して解放され、自由を取り戻していったのです。

 

 主イエスの「空気を読まない」発言とは、一体どこから生じていたものであったのでしょうか。それは、真理です。主イエスの言葉に、《真理はあなたたちを自由にする》(ヨハネによる福音書832節)という言葉があります。空気ではなく真理を貫き通すその姿勢によって、主イエスはユダヤの社会に変化をもたらしてゆかれました。先ほどの安息日についての言葉もそうでしょう。主イエスは単にあまのじゃくの言葉としてそれをおっしゃられたのではなく、それが神さまからの真理であるから、はっきりとそれを宣言なさったのです。真理に根ざした主イエスの言葉を通して、空気の支配は打ち壊されてゆくことになってゆきました。

 

 

 

自由の回復 ~聖霊(聖なるプネウマ)の力~

 

 22節には、律法学者たちが主イエスに対して「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った中傷を行っていたことが記されています。《ベルゼブル》とは、「悪霊の頭」を意味する言葉です。これまで述べてきたことを踏まえます時、これら律法学者たちの言葉がまったくの誤解に基づいたものであることが分かります。

 

 主イエスの言動は、悪霊の力とはまったく真逆の力に基づいているものであるからです。悪霊の力は、私たちを支配し、私たちの主体性を奪おうとします。私たちを不自由な状態に陥れようとします。それは私たちの尊厳がないがしろにされている状態である、ということができるでしょう。

 

対して、主イエスは私たちを自由にするために働いてくださいました。悪霊の力とは対照的なこの力、主イエスを通して働いているこの力を、聖書は「聖なるプネウマ」、聖霊と呼んでいます。主イエスはこの「聖なるプネウマ」の力に基づいて、真理の言葉を発してくださいました。私たち一人ひとりに主体性を回復し、尊厳を取り戻すために働いてくださいました。

 

 

 

「すべてのことは赦される」という宣言

 

 28節の冒頭で、主イエスは《はっきり言っておく》とおっしゃっています。原文のギリシャ語では「アーメン」という言葉になっていますが、主イエスが《はっきり言っておく(アーメン)》とおっしゃるとき、それに続く言葉は「場の空気を凍りつかせる」ような、衝撃的な発言であることが多いです。空気の支配を打ち崩す言葉――しかし放たれたその言葉はやがて、私たちに解放をもたらしてゆきます。なぜならその言葉こそ、神さまからの真理に根ざした言葉であるからです。《あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする》(ヨハネによる福音書832節)と主がおっしゃるとおりです。

 

 28節で、《はっきり言っておく》という言葉に続いて言われた言葉とは、人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される》という宣言でした。

 

 当時のユダヤの社会を覆っていた空気を打ち壊すような、まさに衝撃的な言葉です。当時人々を支配していた空気とは、「律法の言葉を第一とするあまり、互いを裁きあう」という空気でした。律法の言葉を厳格に守ろうとするあまり、それが守ることが出来ない他者を裁いてしまう、という空気が生じてしまっていました。互いの存在をないがしろにし、傷つけあう空気が生じてしまっていたのです。そのような空気の中で、主イエスは「すべてのことは赦される」とおっしゃいました。神さまの目から見ると、赦されない罪はない。すべての罪は赦される。この宣言によって、主イエスは人間が人間を裁いてしまうという、私たち自身の力では如何ともしがたかった、重い「空気」を打ち壊されました。

 

 

 

勇気ある「空気を読まない」発言をこそ

 

重苦しい「空気」の支配は打ち壊され、私たちの間に新しい「風」が吹いてきます。風穴から、真理が吹き込んできます。主イエスを通して、聖霊の風が吹き込んできます。《人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される》――。この真理の言葉、福音の言葉が、囚われの身にあった私たちを少しずつ解放してゆきます。真理の言葉は、私たち一人ひとりが神さまから見て「いかにかけがえのない、大切な存在であるか」を伝えてくださっています。

 

 最後に、主イエスは続けておっしゃいます。29節《しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》。《聖霊を冒瀆する》とは、この聖霊の働きを否定すること、ということができるでしょう。すべての罪は赦される。ただし、ただ一つゆるされていないこと。それは、この聖霊の働きを否定することです。私たちは、他者の尊厳と主体性を否定することだけは、決してゆるされていません。

 

他者の尊厳と主体性を否定しようとする「空気」の支配に対しては、私たちははっきりと「否」を発さなければならないでしょう。人間の尊厳を軽んじる空気に対して、私たちははっきりと「否」を発さなければなりません。

 

いま、さまざまな場面において求められているのは、むしろ勇気ある「空気を読まない」発言なのではないでしょうか。聖霊の息吹の力を得て、真理に根ざした言動をこそ、行ってゆきたいと思います。この自由な「風」の吹くところ、主イエスもまた共におられます。