2014年10月19日「神の家族」

20141019日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書33135

 

「神の家族」

 

 

「兄弟姉妹」という呼称

 

私たちは教会の中で、互いを「○○兄弟」「○○姉妹」と呼ぶことがあります。花巻教会の週報でも氏名の表記は「○○兄」「○○姉」としています。互いを「兄弟姉妹」と呼び合うことは、教会の中にいると当たり前のことに感じますが、初めて教会に来た人は不思議な印象を受けるのではないかと思います。日本でも親しい友を「兄弟」と呼ぶことがありますが、その場に集ったすべての人を「兄弟姉妹」と呼ぶ習慣は、やはり日本の国の中では珍しいということができるでしょう。私自身も小さなころ、教会の週報に記されている「○○兄」「○○姉」という表記を見て、「ずいぶんとこの教会にはお兄さんとお姉さんが多いのだなあ(!)」と思った記憶があります。

 

 私たちが教会の中で互いを「兄弟姉妹」と呼び合うのは、もちろん、互いが血のつながりを超えた、神さまの家族であると捉えるからです。イエス・キリストに結ばれて、私たちは皆等しく、神の子どもたちとさせられている、というのが聖書の理解です。ここではもはや、人種による区別や、社会的や身分による区別や、性別による区別はありません。この認識に基づいて、教会では互いを「兄弟姉妹」と呼び合うわけですが、いまから2000年前にキリスト教が誕生した頃、この認識はいまの私たちの感覚よりはるかに革新的なものであったことでしょう。

 

 

 

フィレモンとオネシモ

 

たとえば当時、イスラエルには奴隷制度というものが存続していました。本来対等であるはずの人と人との関係が、「主人と奴隷」という縦の関係へと歪曲してしまっていたのです。イエス・キリストに出会った人々は、しかし、神さまの前では本来、奴隷も主人もないのだ、という真理を知らされました。

 

新約聖書の中には、パウロが記した「フィレモンへの手紙」という短い手紙があります。手紙の宛先人であるフィレモンはパウロの協力者で裕福な身分の人でした。あるとき、彼の奴隷であったオネシモが脱走します。獄中でオネシモはパウロの導きによってクリスチャンとなります。一度脱走したオネシモを再び寛大に迎え入れてほしいとパウロからフィレモンに呼びかけているのがこの「フィレモンへの手紙」です。

 

手紙の中で次のようなパウロの言葉があります。16節《その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです》。

 

パウロはフィレモンに対して、かつて彼に仕えていたオネシモを奴隷ではなく、愛する兄弟として迎え入れてほしいと記します。キリストに結ばれた者はもはや、社会的な身分によって人を判断するということから自由になっているからです。ただし、このパウロの嘆願は、手紙の宛先人であるフィレモンであってもチャレンジになることだったのではないでしょうか。それまでの主従関係というものは、慣習として体に染み付いてしまっているものでもあるからです。フィレモンももしかしたら時間をかけつつ、祈りつつ、元奴隷であったオネシモを「対等な存在」として見ることができるようになっていったのかもしれません。少なくとも、一朝一夕でできるようになることではなかったでしょう。

 

このような例からも、当時キリスト者が互いを「兄弟姉妹」と呼ぶことがいかに革新的なことであったかが伺われます。

 

 

 

人を判断する基準

 

 互いを「兄弟姉妹」と呼ぶことの新しさは、社会の縦関係を打ち崩してゆくことだけにあったのではありません。その新しさはさらに、社会の土台を形づくっている家族関係にまで及んでゆきました。

 

 先ほどは、社会的身分が人を判断する基準となってしまうということを述べました。その社会的身分というものはさらにさかのぼれば、その人の「出自」というものに突き当たります。その人がどのような家に生まれ育ったか。その人がどのような両親から生まれ、またどのような家族と共に育ったか。いわゆる「生まれ」がその人を判断する基準となってしまうということがあります。

 

当時のイスラエルの社会というのは、この「生まれ」というものを非常に重視する傾向があったようです。言い換えれば、血縁の結びつきが強い社会であった。それは社会全体が伝統的な家父長制度に固く根ざしていたから、ということもできるでしょう。

 

イエス・キリストも生前、御自身の職業と出自によって人々から判断されていたということが福音書には記されています。故郷の人々が主イエスに対してつぶやいた言葉です。マルコによる福音書63節《この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか》。

 

この故郷の人々の言葉には、当時主イエスが周囲からどのような目で見られていたかが端的に表されています。故郷の人々から見れば主イエスは「大工」である。そして「マリアの息子」である。またヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンたちの「兄弟」であり、ナザレの町で暮らしている姉妹たちの「兄妹」である。故郷の人々の目には主イエスが救い主(キリスト)として映ることはありませんでした。職業と出自が人を判断する第一の要素となってしまっていたからです。

 

 

 

神さまの子どもたちとして

 

 主イエスの言動は、このような当時の価値観に真っ向から対決してゆくものでした。主イエスご自身はその人の社会的身分や生まれを問うことはなさいませんでした。主イエスはそのような事柄からはまったく自由でいらっしゃいました。

 

主イエスが見つめていらっしゃったのは、もう一つの「生まれ」です。それは、私たち一人ひとりが「神さまの子どもたちとして生まれた」ということです。主イエスはそのまことの出自をこそ大切に見つめ続けてくださいました。「神さまから見て、私たち一人ひとりはかけがえなく、貴い」。この真理を、私たちが人を判断する際の第一の要素とすべきことを、私たちに伝えて下さいました。

 

 しかし、周囲の人々は主イエスのおっしゃる言葉の意味が理解できず、「気が変になっている」と中傷していたことを福音書は記しています321節)そのよう中、ある日、主イエスの母と兄弟たちがそのうわさを聞いて駆けつけてきます。マルコによる福音書331節からを改めてお読みいたします。

 

33135節《イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。/大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、/イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、/周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。/神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 主イエスは人から「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しています」と知らされると、「わたしの母、兄弟とはだれか」と問い返されました。そして周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃいました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。

 

 この言葉は、御自分を捜しにきた家族を冷たく拒絶している言葉のようにも感じられますが、主イエスの本意はそういうことではないでしょう。ゆっくりと読んでみると、これらの言葉は主イエスの家族に対してではなく、周りにいる人々に対して語られている言葉であることが分かります。主イエスはこの度の機会をとらえ、神の国においては「どのような家で生まれたか」という出自は問われることはないという真理を人々に伝えようとしてくださっているのではないかと思います。

 

主イエスが共におられる神の国においては、社会的身分も、職業も、出自も、家庭での役割も問われることはありません。自分が誰々の子どもであるか、とか、誰々の兄妹であるか、ということで判断されるということもないのです。

 

 

 

神の国の福音 ~「一人の人間」へと回復させる力

 

主イエスが伝えて下さる神の国の福音は、私たちをさまざまな束縛から解放します。そして、互いを、“あるがまま”に受け止めるようにと促します。かけがえのない「一人の人間」として互いに受け止め合うようにと、私たちを励まします。私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場、それを主イエスは「神の国」とお呼びになりました。

 

 この神の国の福音は、私たちを独立した、「一人の人間」へと回復させる力であるということができるでしょう。自分という存在が職業の名前で呼ばれるのではなく、社会的身分で呼ばれるのでもなく、出自で呼ばれるのでもなく、性別や家庭での役割で呼ばれるのでもない。かけがえのない、ただ一人の「私」という人間を再び取り戻してゆく力、それが福音の力です。この福音の力は私たちの心と体に生きる勇気と喜びを与えてくれます。

 

パウロが記したガラテヤの信徒への手紙には次の一節があります。328節《そこでもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女(原文では『男と女』)もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。

 

これはキリスト教が生まれて間もない頃に記された、洗礼を受ける際の告白文であると言われています。パウロはそれをそのまま手紙の中で引用しているのですね。この告白の言葉においても、キリストに結ばれている者はもはや人種からも、社会的な身分からも、性別や家庭の役割からも自由である、と宣言されています。

 

私たち一人ひとりが、がかけがえのない「私」になってゆくこと。この世界にただ一人の「私」として生きてゆくことができるようになること――ここに、神さまの御心があるということができるでしょう。

 

 

 

新しい「兄弟姉妹」へ

 

 私たちは互いを「一人の人間」として認識しあうことによって初めて、より深く結びつくことができるようになってゆきます。相手を一人の独立した人格だと受け止めたとき、同時に、私たちは互いをまことに大切にすることができるようになってゆくのではないでしょうか。

 

主イエスはご自分の周りにいる人々を見渡し、《ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。/神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ》とおっしゃいました。ここでの「兄弟」「姉妹」という言葉は性別の区別を表しているのではなく、深い結びつきを表しているのだと受け止めることがふさわしいでしょう。互いを独立した、ただ「一人の人間」として尊重し合うところに、新しい「兄弟姉妹」という関係性が生まれ出ます。それはキリストに結ばれ、その福音の中で共に生きる者としての新しい「家族」という関係です。

 

私たちはそれぞれ、神さまの前にただ「一人」です。でも同時に、「独りぼっち」で生きているのではありません。キリストに結ばれ、福音の喜びの中で、それぞれがかけがえのない存在として共に生き、共に生かされています。《ご覧なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。/神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ》。