2014年10月26日「主イエスのたとえ話」

20141026日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書4112

「主イエスのたとえ話」

 

 

 

主イエスのたとえ話

 

新約聖書の福音書は、イエス・キリストがたとえ話を用いて人々にいろいろと教えられたことを記しています(マルコによる福音書41節)。お読みしました聖書の箇所も、よく知られた主イエスのたとえ話の一つです。

 

 先日出席した奥羽教区の社会問題セミナーの中で、主イエスのたとえ話について、講師でお招きした山口里子さんがおっしゃったことで、「なるほど」と思ったことがありました。山口里子さんいわく、主イエスがたとえ話をよく用いるのは、「答えを与えるのではなく、聞いた人が主体性をもって決断することができるようにする」意義があるということでした。

 

 確かに、たとえ話はそれを聞いた私たちに、自ら考えることを促します。たとえ話は、必ずしも「これは~である」という答えを教えようとするものではありません。聞く人の主体性を尊重する伝達手段であるということもできるでしょう。1320節には本日のたとえ話についての解説が記されていますが、これはむしろ例外的なことで、主イエスのたとえ話には基本的に解説が付されることはありません。

 

 

 

種蒔きのたとえ

 

 本日のたとえ話は、「種蒔き」がモチーフとなっています。とてもよく知られたたとえ話であるかと思いますが、本日はこのたとえ話を初めて聞くつもりで、聞いてみてはいかがでしょうか。

 

ちなみに、このたとえ話でイメージされている「種蒔き」の仕方というのは、私たち日本に住む者の種蒔きのイメージとは異なっているものです。種まきというと、土の中に一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えてゆくというイメージをもっている方が多いかと思いますが、パレスチナ地方でなされていたのは、たがやした畑にたくさんの種を振りまいてゆくやり方でした。

 

 改めて、たとえ話をお読みいたします。マルコによる福音書439節《「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。/蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。/ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。/しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。/ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。/また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」/そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた》。

 

 改めてこのたとえを聴いてみて、どのようなことをお感じになったでしょうか。どのようなことが印象に残ったでしょうか。

 

先ほど、当時の種蒔きは、畑にたくさんの種を振りまいてゆくというやり方であったことを述べました。そのことを踏まえますと、このたとえ話において、道端や石だらけの所や茨の中に落ちる種があるということも理解できます。多くの種はたがやされた土の上に落ちますが、少量の種は、種まく人の意図に反して道端に落ちることがあるでしょう。

 

たとえ話の中では、道端に落ちた種は、鳥に食べられてしまいます。芽を出すことができませんでした。石だらけの地に落ちた種はすぐに芽は出しますが、根がないためにすぐに枯れてしまいます。茨の中に落ちた種は、芽を出し成長はしますが、茨に妨げられ実を結ぶことができません。もう一息、実を結ぶまでには至りませんでした。しかし、他の多くの種は無事に「良い土地」に落ちます。「良い土地」とはよく耕され、養分と水分もたっぷり含んでいる土地のことを言うのでしょう。その土地に落ちた種は芽を出し、成長し、実を結びます。しかも三十倍、六十倍、百倍もの実を結びます。

 

 このたとえ話を主イエスからガリラヤ湖のほとりで聴いた人々の心には、パレスチナ地方の豊かに実った麦畑の情景が浮かんだことでしょう。たとえ話は最後に、聴く者の心に幸福なイメージを結ばせて終わります。

 

 

 

幸福なイメージ

 

私が今回このたとえ話を改めて読んでみて心に残ったのは、最後に浮かび上がるこの幸福なイメージでした。道端や石だらけの地や茨の中に落ちた種の描写は、むしろこの幸福なイメージを引き立たせる効果を持っているようにも感じました。たとえ話の強調点はあくまで、喜びに満ちた締めくくりにあるようです。

 

本日のたとえ話の原文を確認してみますと、道端や荒れ地に落ちた種は「単数形」で記されていることが分かります。よって、たくさんの種ではなく、一粒もしくはごく少量の種がそれらの地に落ちたということになります。対して、良い土地に落ちた種は「複数形」で記されており、たくさんの種であることが示されています。つまりこのたとえでは、ほとんど多くの種は「良い土地」に落ちたのだ、ということが述べられています。このことからも、このたとえ話が非常にポジティブな内容のたとえ話であることが分かります。

 

 

 

辛かった経験

 

 主イエスが語るこの幸福な結末を私たちのいまの現実と結び合わせてみると、どうでしょうか。たとえ話が語ることは、夢物語のように思われるでしょうか。むしろ前半部のなかなか芽が出ず成長できないところの方が自分たちの現実を表していると思われるかもしれません。

 

確かに私たちにはそれぞれ、辛い経験があります。なかなか芽が出ずに苦しんだ経験。成長することが出来ずに情けなく感じた経験。努力が実を結ばずに落ち込んだ経験。それら辛かった経験ほど、私たちの記憶にはよく残っている、ということもあります。

 

ではそのような経験の中に、ぜんぜん良いことがなかったかというと、そうではないでしょう。辛かった経験の合間合間に、うれしかったことや楽しかったこと、思わず笑ってしまったこともあったでしょう。ただ、私たちがよく思い出してしまうのは、辛かった経験であることが多いものです。

 

 

 

「数えきれないほどたくさんの 平凡なこと」

 

私たちは一日の内に一回嫌なことがあれば、今日は嫌な日だったと思います。二回嫌なことがあれば、今日は何とひどい日だったかと思います。一日に三回嫌なことがあれば、今日は散々な日だったと思います。できれば忘れ去ってしまいたいような、「散々な日」としてその日のことは私たちの記憶に刻まれるでしょう。

 

しかしよくよく思い起こしてみれば、そのような「散々な日」の中にも、さまざまな瞬間があるはずです。喜びを感じた瞬間もあれば、楽しく感じた瞬間もあったはずです。でも私たちはそのような記憶は忘れ、辛かった瞬間のことを覚えていることが多いものです。

 

 星野富弘さんの詩にこのような詩があります。

 

 

今日もまたひとつ

悲しいことがあった

今日もまたひとつ

うれしいことがあった

 

 

笑ったり泣いたり

望んだりあきらめたり

にくんだり愛したり

 

 

そしてこれらのひとつひとつを

やわらかく包んでくれた

 

数え切れないほどたくさんの

平凡なことがあった

 

 

 私たちは心の中にさまざまな記憶を抱いて生きています。辛かったこと、悲しかったこと。また楽しかったこと、嬉しかったこと。そして星野さんの言うように、それら記憶を包む「数えきれないほどたくさんの平凡な記憶」があります。それはもはや、私たちが自らは思い出すこともないような、ささやかな記憶です。しかしこれらささやかな、当たり前の瞬間によって、私たちの日々は支えられています。ふと立ち止まる時、そのささやかな記憶の中に幸せがあったことに気づきます。それは私たちの人生もまたそうでありましょう。

 

 

 

「良い土地」にまなざしが向き直る

 

 私たちが普段「現実」であると思っているのは現実の中のごく一部分であって、私たちが気付いていなかったり忘れてしまっている事柄の中に、むしろ喜びや幸せが秘められているということもあります。主イエスはこの度のたとえを通して、私たちが普段は見過ごしてしまっている現実の、その豊かさを指し示してくださっているのではないか、と感じました。

 

種が道端に落ちてしまったこともあったでしょう。石だらけの土地や茨の中に落ちてしまったこともあったでしょう。そのような辛いこともあるにはあったけれども、種の多くは「良い土地」に落ちたのです。そして芽を出し、育ち、豊かに実を結ぼうとしています。

 

 主イエスはこの「良い土地」にこそ、私たちのまなざしが向き直ることを願って下さっているのではないでしょうか。

 

 

 

神さまからのまことの現実

 

主イエスがたとえ話を通して私たちに経験させてくださっている世界とは、神さまから見た、私たちの世界のまことの現実です。たとえ私たちの目には見えなくても、神さまからは、私たち一人ひとりが歩んできた背後に、豊かに実った黄金色の麦畑が見えてらっしゃるのではないでしょうか。神さまから見て、私たち一人ひとりの人生とは、そのようにかけがえなく貴いものです。

 

 たとえ私たち自身が「散々な一日」だったと思っていても、神さまはその一日を、無数の名もなき瞬間によって包んでくださっているでしょう。私たちがその神さまの恵みを受け入れる時、今日という日はかけがえのない瞬間に満ちた日となることでしょう。

 

神さまは私たちの人生そのものを、「良い土地」として、絶えず祝福を注ぎ続けてくださいました。

 

 

 

かけがえなく貴い、一人ひとりの人生

 

 旧約聖書のイザヤ書に、神さまのこのような言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》。この御言葉では、「あなた」という存在がいかにかけがえなく、貴いかということが語られています。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。神さまは私たちに向かって、絶えずこう語り続けて下さっています。いついかなるときも止むことなく、御言葉を蒔き続けて下さっています。この神さまの言葉を受け入れるとき、私たちの目にもまた、豊かに実った黄金色の麦畑が見え始めます。三十倍、六十倍、百倍にも実った麦畑が、私たちの人生に広がっていたことに気づきます。私たちの人生が絶えず、神さまからの祝福に満たされていたことに気づきます。私たちが光の中を歩んできたことを知らされます。

 

 主イエスはわたしたちにこの「神の国」の福音を伝えるため、わたしたちのもとに来てくださいました。神の国とはどこか遠くにあるのではなく、遠い夢物語でもなく、私たちが生きているいま・ここにあります。主イエスが共にいてくださるここに、神の国があります。そうして、私たち一人ひとりを祝福し、その人生をかけがえなく、貴いものとしてくださっています。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。

 

 どうぞ私たちがまなざしを「良い土地」へと向け直し、自身の人生の歩みを、かけがえなく貴いものとして受け止めることができますように。そしてまた、互いの人生の歩みを、貴いものとして受け止めあってゆくことができますようにと願います。