2014年10月5日「12人の任命」

2014105日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書3719

12弟子の任命」

 

 

12弟子の任命

 

本日の聖書箇所には、イエス・キリストが12人の弟子を任命する場面が出て来ます。

 

1319節《イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。/そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、/悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。/こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。/ゼベダイと子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。/アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、/それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである》。

 

 12人の弟子の中でよく知られているのは、ペトロという人物でしょう。12人の中でリーダー的な役割を果たすようになる人物です。ペトロは兄弟アンデレやヤコブ、ヨハネと共に、漁師をしていたところを主イエスと出会い弟子になりました。また、よく知られている人物に、イスカリオテのユダがいます。ご存じのように、主イエスを裏切ったとみなされている人物です。

 

 

 

政治的な救世主?

 

 なぜ任命された弟子の数が12人なのかというと、おそらくそれは、イスラエルの12部族が踏まえられているのだと考えられます。イスラエル12部族を暗示する数が、12という数字です。

 

旧約聖書にはイスラエル民族はもともとは、12の部族から成り立っていたことが記されています。紀元前10世紀頃、12部族が一つにまとまって成立したのがイスラエル王国です。ただし、イスラエル王国はまもなく北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。その後、北王国は大国のアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国もバビロンに滅ぼされることになります。北王国の10部族は散り散りになって離散してしまいましたが、南のユダ王国はかろうじてその後も存続してゆくことになります。以降、存続した南のユダ国民が「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。

 

 イスラエル民族はそのように、周囲の大国との軋轢に苦しみ続けてきたわけですが、新約聖書の時代もやはりローマ帝国という大国の圧力の下にさらされていました。イスラエルの時の権力者たちはローマに従属することによって、何とか自分たちの存続を図ろうとしていました。そのような権力者たちの姿勢に反感をもっていたイスラエルの人々がいたということはもちろんのことです。民衆の間では、ローマ帝国からイスラエルの自主独立を勝ち取ろうという機運が高まっていました。また、人々を率いる政治的なリーダーが待望されていました。

 

 そうする状況の中で登場したのが、イエス・キリストです。イエス・キリストは神の国の到来を宣言し、また病いの癒しなど様々な力ある行いをなさいました。弟子たちはこの方こそ、イスラエルをローマ帝国から解放してくれる救世主(メシア)ではないかと期待しました。この方こそ、イスラエル国を再興してくれる未来の王ではないか、期待したのです。主イエスの一番近くにいた弟子たちも、主イエスを「政治的な救世主」として捉えていた、ということになります。

 

 

 

熱烈な愛国者ユダ

 

 12人の弟子の中で、その期待を最も抱いていたのが、ユダでした。熱烈な愛国者だったユダは主イエスに心酔しきっていました。主イエスこそはイスラエルをローマの支配から解放してくださる救世主であるに違いない。主イエスは必ずやこの地に新しいイスラエル王国を樹立してくださるに違いないと確信していました。そしてそのことを通して、主なる神の栄光を全地にあまねく行き渡せてくださるに違いない、と。

 

 けれども、主イエスが歩まれた道は、ユダが期待していたとおりの道ではありませんでした。ユダは主イエスがなさろうとしていることと、自分が切望していることとの距離にだんだんと気付いてゆきます。大きな望みを置いていた分、ユダの内に主イエスに対する失望が深まってゆきます。そうして遂にユダが行ったことが、権力者たちに主イエスを「引き渡す」という行動でした。

 

 

 

まったく新しい世界観

 

 ユダをはじめ、主イエスに従った弟子たちの多くは、主イエスに「イスラエルを取り戻す」役割を期待していましたが、主イエスのなさろうとしたのは、国家としてのイスラエル国を再興することではありませんでした。では、主イエスがなさろうとしたのは何だったのでしょうか。それは、「人間の尊厳を取り戻す」ことでした。「イスラエルを取り戻す」のではなく、民族や国家を超えて、一人ひとりに「人間の尊厳を取り戻す」ために、主イエスは私たちのもとへ来てくださいました。

 

 主イエスはガリラヤ中を歩き回って神の国を宣べ伝え、多くの人の病いを癒し、悪霊を追い出されました。弟子たちはその驚くべき出来事の表面をだけ捉え、主イエスの大いなる力を喜んでいました。人々に未来のイスラエルの王なる主イエスの力を誇示することができる機会として、喜んでいたのです。

 

 主イエスご自身にとってそれは、御自分の力を見せつけるための行為ではありませんでした。それは、いま目の前にいる一人一人に、神さまからの「尊厳を取り戻す」ためのものでした。主イエスが宣べ伝えられた神の国とは、「一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」のことを言います。神の国の実現のため、主イエスは12人の弟子たちを任命されたわけですが、その時はまだ弟子たちは自分たちに委ねられている役割を理解することはできていませんでした。

 

当時の価値観においては、弟子たちの感覚と言うのはごく当たり前のものであったでしょう。現代とは違い、当時はもっと「個人」という意識が稀薄であったようです。個人としての「わたし」という意識はあまりなく、それよりも、民族や一族に属する「われわれ」という意識で、多くの人々は生きていました。弟子たちもまたそうであったでしょう。弟子たちもまた自分たちがイスラエル民族であることを心の拠り所にしながら生きていたでしょう。

 

そのような中、主イエスは、民族や国家とは切り離された「一人ひとりの尊厳」ということを語りました。当時の人は誰も、そのようなことは考えたこともなかったでしょう。主イエスは、まったく新しい世界観を提示なさったのです。弟子たちが主イエスの言動をすぐには理解できなかったのも無理はなかった、ということもできます。

 

 

 

病いを抱える人々

 

 では、主イエスのメッセージを当時誰も理解できなかったかというと、そうではありません。主イエスについての知らせを聞き、そこに自分たちにとって本当に大切なものがあると敏感に感じとった人々がいました。それは、社会的に弱い立場に追いやられていた人々でした。病いを抱えている人々、社会から不当な差別を受けている人々、社会から「罪人」のレッテルを貼られている人々、それらの人々が主イエスのメッセージの新しさを直感的に感じ取り、主イエスのもとにぞくぞくと集ってきたのです。

 

 7節からの場面をお読みいたします。712節《イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、/エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。/そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。/イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。/汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。/イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた》。

 

主イエスのことを聞きつけた大勢の人々が、イスラエルの各地から主イエスのもとに押し寄せてきたことがこの箇所には記されています。ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルス、シドン……。イスラエルの各地から、大勢の人が主イエスのもとに集ってきました。その多くが何らかの病いに苦しむ人たちであった、と記されています。

 

当時、病いを抱える人々はイスラエル社会から不当な差別を受けていました。共同体の外に追いやられ、ひっそりと生きている人が大勢いました。当時イスラエルの人々は「われわれ」という意識で生きていた、ということを述べましたが、差別を受けていた人々はこの「われわれ」の枠組みの外に追いやられていた人々であった、ということができます。そもそも共同体の一員と見なされていないこの人々にとって、「イスラエル国を取り戻す」という崇高なスローガンも、あまり実感をもって受け止めることが出来なかったことでしょう。病いをもつ人々にとって、切実なる関心は病いが癒えること、自分たちが再び共同体の一員として迎え入れられることにありました。

 

失望の日々の中、ある日、主イエスについての知らせが自分たちの耳に届きます。ガリラヤに一人の人が現れ、神の国を宣言している。大勢の人の病いを癒し、悪霊を追い出している――。病いを抱える人々は直感的に何かを感じ取り、主イエスのもとに行こうと決意します。

 

もちろん、求めているは、自分の病いを癒してもらいたい、というものです。ただし、その願いのさらに根底にある願いが、彼らを衝き動かしていたのではないでしょうか。

 

 

 

心の奥底に押し込めていた願い

 

その願いは、今までは心の奥底に押し込めていた願いです。もしかしたら、自分自身も自覚していなかったかもしれない願いです。それが、「人間の尊厳」に対する願いです。周囲から人格をもった一人の人間として認められ、尊重されること。自分の意思をもって、自分の人生を選び取ってゆけること。これら人間として当たり前のことが、これらの人々は制限されていました。

 

主イエスについての知らせを聞いて、心の奥底にあった願いが目覚めはじめました。人々は、主イエスに会おうと、自ら主イエスのもとに赴いてゆきます。自らの意思をもって、自らの切実なる想いをもって、ガリラヤ湖のほとりにおられる主のもとに向かってゆきます。

 

主イエスに出会い、主イエスに触れていただいた人々は、その病いが癒されました。その出来事は、一人ひとりに神さまからの尊厳が取り戻されたことの「しるし」となりました。ガリラヤ湖のほとりから、イスラエルの片隅から、神の国の福音が広がってゆきました。

 

 

 

新しい出来事の芽生え

 

弟子のユダを始め、イスラエル国家の再興に燃える人々は、いまイスラエルの全土で何が起こり始めているか、理解していませんでした。まったく新しいことが始まろうとしていることを理解していませんでした。

 

主イエスを通して、人々の心の奥底に新しい祈りが灯されようとしていたのです。それが、「人間の尊厳」に対する願いです。

 

このような出来事は、イスラエルの歴史の中でかつてなかったことです。いや、人類の歴史の中で、かつてなかったことです。民族の栄光の回復のためではなく、民族を超えた、一人ひとりの尊厳の回復ために、世界が動き始めようとしていました。

 

まったく新しい世界の枠組みが、イスラエルの全地に芽生え始めようとしています。一番身近にいた弟子たちはその動きを感じ取ることができませんでした。弟子たちはいまだ、従来の民族や国家を中心とする世界の枠組みの中で生きていたからです。新しい動きを最も敏感に感じ取った人の多くは、社会から差別され軽んじられていた人々でした。

 

もちろん、自分の国を愛するということは大切なことです。しかし主イエスは、人間一人ひとりを中心とするべきこと、そして一人ひとりの生命と尊厳をこそ第一とすべきことを、新しく伝えて下さいました。この神の国の福音はかつてガリラヤ湖のほとりで宣げ知らされ、いま、私たちに届けられています。

 

 

 

「人間の尊厳を取り戻す」ために

 

耳を澄ませば、この日本という地に、福音が芽生え始めようとしていることが分かります。その新しい動きを、私たちは感じることができます。

 

かつて12人の弟子を任命したように、いま主イエスは、私たち一人ひとりを神の国のために働く弟子として任命しようとして下さっています。「人間の尊厳を取り戻す」ために働く弟子として。

 

 心に手を当てると、私たちの心の奥底に、祈りのともしびがともされていることに気づきます。それは、主イエスがかつてともしてくださった「人間の尊厳」に対する祈りです。かつて主イエスを通してこのまことの祈りがイスラエルの地にともされ、いま、私たち一人ひとりの心にともされています。

 

主イエスがともしてくださったこの大いなる祈りに、私たちもまた、祈りをあわせてゆきたいと願います。