2014年11月16日「ともし火と秤のたとえ」

20141116日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書42125

「ともし火と秤のたとえ」


ともし火のたとえ


本日も、主イエスがお語りになったたとえ話に、ごいっしょに耳を傾けてみたいと思います。本日の聖書箇所では、二つのたとえが続けて語られています。一つはともし火のたとえ、もう一つは秤のたとえです。


ここでのともし火とは、当時の人々が日常的に使用していた粘土製のランプがイメージされています。当時のパレスチナ地方で用いられていたのは、両手のひらに入るくらいの、小さな粘土製のランプでした。器の中にオリーブ油を入れ、それを燃やしてあかりとしていたようです。火を消すときは、粘土製の升を上にかぶせました。主イエスは、日常的に使用されている身近な道具を用いて、このたとえを語られているのですね。


2123節《また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。/隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。/聞く耳のある者は聞きなさい。」


主イエスは、ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか、と問いかけられます。もちろん、ともし火をすぐに消してしまうために持って来る人はいないし、寝台の下に隠すために持って来る人もいません。燭台の上に置いて、周りを照らすために持って来るものです。


この当たり前と言えば当たり前の例を引き合いに出しつつ、主イエスは続けて語られます。《隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい》。


 


「隠し、秘密にする」行為


 ここで暗に批判されているのは、「隠す」という行為、「秘密にする」という行為です。本来分かち合うべき大切な事柄を、隠して秘密にしてしまうこと。その行為が暗に批判されています。そしてそれはまるで、ともし火を寝台の下に隠すようなおかしな行為であるということが言われています。


主イエスのこのたとえを聴いて、皆さんはどのようなことを思い浮かべられたでしょうか。自分自身の日々の生活を想い起こした方もいらっしゃるかもしれません。私たちは時に、重要な事柄を人に隠したり、秘密にしてしまうことがあります。


または、共有すべき事柄が隠されるという言葉から、「特定秘密保護法」を想い起こした方もいらっしゃるかもしれません。来月1210日から特定秘密保護法が実施される予定になっていますが、これはまさに本来は共有すべき情報を国民に「秘密にする」ために濫用されかねない危険な法律であるということができます。


私たちの日々の生活では、大切なことが「隠され、秘密にされる」ことがしばしば起こっています。本来共有すべき事柄が隠され秘密にされるとき、私たちの関係性は損なわれてゆきます。信頼関係を育んでゆくことが難しくなってゆきます。それはまるでともし火を寝台の下に隠してしまうような不自然な行為であるはずですが、その不自然な行為がむしろ当たり前のようになされてしまう、ということが私たちの生きる社会ではしばしば起こっています。


 


秤のたとえ


続けて、秤のたとえを語られます。2425節《また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。/持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」》。


ここでの「秤」とは、言い換えれば「物差し」ということができるでしょう。私たちは自分の中に何らかの物差し、つまり「判断の基準」を持っています。物差しがあること自体は大切なことですが、それを一方的に相手に押し付けてしまう時、いろいろな問題が生じてしまいます。自分の価値判断をいつも一方的に押し付けていたら、相手の人は気分を害してしまうことでしょう。相手の人もまた、自分の物差しというものを持っているからです。


そこで対話をするということが重要になってくるわけですが、そのためには、互いに自分の物差しを一度後ろに退かせる必要があります。それをせずにいつも自分の物差しを相手に押し付けてばかりいたら、相手もまた自分の物差しを押し付けてくるだけですよ、ということがここで言われているようです。互いに自分の価値判断を押し付け合っているだけでは対立が生まれるだけで、信頼関係が育まれてゆくことはありません。


このたとえ話で批判されていることも、私たちの日常生活の中でしばしば起こっていることです。私たち自身、ついつい自分の物差しを相手に押し付けてしまう、ということがよくあります。


 


著者マルコによる批判


以上、短いたとえ話ではありますが、この二つのたとえ話はどちらも、聴く私たちの心にチクリと刺さってきます。そしてそれは、このマルコ福音書が記された当時の読者も同様であったでしょう。この福音書が記された当時の教会の中にも、このたとえ話で批判されているようなことが起こっていたようです。


イエス・キリストの「福音」を教会の内でだけ独占しようとする態度、また、教会の外にいる人々を上から見下すような態度が、一部の人々に見られていたようです。そのような態度に対し、福音書の著者マルコは憤りを覚えていました。マルコは批判の意味を込めて、この二つのたとえ話をここで引用しているのでしょう。神さまの言葉とは、本来はすべての人のものであり、すべての人を照らすためのものであるはずだ。それを教会の一部の人々が自分たちだけのものにしようするのはおかしい。それはまるで寝台の下にともし火を置くような態度である。また教会の人々がクリスチャンではない人々を上から見下すような態度をとることはおかしい。それは自分たちの秤を一方的に相手に押し付けているような態度である。マルコは暗にそのように伝えたかったのでしょう。


 


エリート意識


マルコが批判しているこの二つの態度に共通して見え隠れしているのは、「高慢さ」ということであると思います。自分たちを特別な人間であると感じ、それ以外の人々を上から見下し、軽んじているような意識。それは言い換えると、「エリート意識」という言葉で呼ぶことができるでしょう。


「エリート」の語源となっているのは「選ぶ」という意味の言葉です。そこから「エリート」は「選ばれた者」という意味を表す言葉となりました。エリート意識とは、「自分は特別に選ばれた人間だ」という意識です。このエリート意識が、初代の教会の中にもみられたようです。クリスチャンになった自分たちは神さまから特別に選ばれた人間だとし、それ以外の人々を軽んじてしまう態度を、マルコは痛烈に批判しています。  


 先ほど特定秘密保護法について触れましたが、現在の行政の中枢を担う人々はこのようなエリート意識を多分に持っている人々であるように感じます。自分たちがエリートであることを自負し、自分たち以外の人々を見下しているのです。当然、私たち国民のことも見下しています。彼らからすると私たち国民は分別のつかない「烏合の衆」でしかないようです。よって重要な事柄は自分たちだけで決議し、自分たちだけで進めようとします。それが分別のつかない国民のためになるとさえ思ってらっしゃるのでしょう。重要な情報は国民から隠し、自分たちだけで独占しようとします。現政府の人々のさまざまな政策は、まさに極端なエリート的な発想から生まれてきているものであると言えます。


 


他者との比較と、奥底にある不安


 エリート意識とは、かように私たちの関係性を損なう危険性をもつものですが、宗教というものはそもそも、このエリート意識と結びつく可能性を常にはらんでいます。それはキリスト教もまた同様です。聖書の中には、エリート意識に結びついてしまうような記述がたくさんあります。聖書は「選び」ということを強調している書です。イスラエルの民を、神は諸国の民の中から「選んだ」。預言者たちを、神はイスラエルの民の中から「選んだ」。このように、神さまからある特定の人が「選ばれる」という記述が聖書にはたくさん出て来ます。聖書とは神さまによって「選ばれた」人々について記されている書でもあります。


 では、聖書はいわゆる「エリート意識」によって記されているかと言うと、そうではないでしょう。聖書そのものの中に、エリート意識と常に結びつく危険性が内在していますが、それは本来、聖書が意図しているものではありません。聖書が記している「選び」とは、他者との比較ということとは一切切り離されている「選び」です。対して、エリート意識は、他者との比較ということが前提となっています。そこが根本的に異なっている点です。


 いわゆる「エリート意識」というものは、常に誰かとの比較を前提としています。あの人と比べて自分は秀でている。あの人たちとは違って、自分たちは選ばれている。エリート意識はこの他者との比較を前提としています。自分が人よりも優位に立っていると思うとき、私たちは束の間の安心を覚えることがあります。ただしその安心はいつまでも続くものではありません。自分の立場を揺るがすような存在が現れたら、不安を覚えるようになります。つまり、エリート意識というものの奥深いところには恐れがあり不安があるということになります。常に心の奥底に不安があるので、誰か比較する対象を捜してしまうのです。


 


聖書における「選び」


対して、聖書が語る本来的な「選び」とは、他者との比較を前提としていない「選び」です。そこにおいて誰かとの比較という視点は消え去り、存在しているのはただこの私と神さまのみになります。


そうして、神さまから、かけがえのないただ一人の存在として、名前を呼ばれること。神さまから、かけがえのない、ただ一人の「私」として愛され、尊ばれていることを知らされること。これが、聖書が指し示すまことの「選び」です。


「私」という存在は、本来誰とも比較することができない存在であるということ。「私」という存在がただ一人の存在として愛され、尊ばれていることを知らされるとき、私たちは深い安堵を得ます。この安心を得た時、私たちはもはや自分を誰かと比較をする必要はないことに気づきます。私たちを生かすこの神さまの力を、聖書は「福音」と呼んでいます。この福音の力から育まれてゆくのはもはや「高慢」ではなく、まことの「自尊心」でありましょう。


 


神さまからの尊厳の光をかかげて


「私」という存在がかけがえなく尊いということを知らされた時、私たちはいま目の前にいる人もかけがえなく尊い存在であることに気づいてゆきます。私たち一人ひとりの内に宿るこの輝きを、神さまからの尊厳の光が呼びたいと思います。例外なく、すべての人に、この神さまからの尊厳の光はともされています。この真理を知らされる時、私たちは相手を見下したり軽んじたりという態度を改めるようにと迫られてゆきます。大事な情報を隠したり、自分の物差しを一方的に押し付けたりしてしまうのは、相手を「軽んじている」から起こることでもありましょう。相手の内に神さまからの尊厳の光を見出すとき、私たちは相手を「重んじる」態度へと変わってゆくことを促されてゆきます。そこから、私たちの新しい関係性が創られてゆきます。


一人ひとりの尊厳の光が隠され見えなくされているのがいまの私たちの社会でありますが、だからこそ、いま私たちの間から、この光をはっきりと輝かしてゆきたいと願っています。私たち一人ひとりが神さまからの尊厳の光を高くかかげ、このともし火を分かち合ってゆくとき、社会は必ずより良いものへ変わってゆくと信じています。