2014年11月2日「主イエスにより結ぶ愛」

2014112日花巻教会説教

聖書箇所:ローマの信徒への手紙831-39


「主イエスにより結ぶ愛」


本日は召天者記念礼拝です。天に召された愛する兄弟姉妹を覚え、共に祈りをあわせたいと思います。



NHKの番組より


先週の水曜日に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組を観ました。その週は、柳田国男の『遠野物語』を特集していました。『遠野物語』には私も関心がありますもので、妻といっしょに観てみました。


皆さんもよくご存知かと思いますが、『遠野物語』の中には河童や座敷童などの妖怪の話だけではなく、人間の「魂の行方」を主題とした説話も収められています。物語に登場する人物は皆、実在の人物です。その中には、120年前の明治三陸大津波で妻と子を亡くした男性が、海岸で妻の魂と再会するという話もあります(第九九話)。テレビ番組の最後は「遠野物語と津波」というテーマで、その話の人物の玄孫にあたる男性を取材していました。子孫であるその男性もまた、この度の東日本大震災の津波で被災し、お母さんを亡くしたそうです。私が番組を観ていて心に残ったのは、その男性がお母さんを亡くした悲しみから癒されてゆくきっかけになったという夢の話です。


男性は津波でお母さんが亡くした衝撃と悲しみの中から立ち上がれないでいる日々が続いていましたが、ある日、お母さんの夢を見たそうです。夢の中で、お母さんは台所に立っていて、男性はお母さんと普段通りの何気ない会話をすることができたそうです。「お母さんと話した」という感覚が、次の一歩を踏み出してゆく大切なきっかけとなったとのことでした。


わたしは、男性に立ちあがる力を与えたお母さんの言葉が、何か特別な一言というのではなく、普段どおりの何気ない言葉であった、というところが心に残りました。何気ない言葉であったからこそ、男性は日常の感覚を取り戻し、お母さんと心がいまもつながっていることの実感を取り戻すことができたのだと思いました。


 


悲しみの瞬間と、平凡な無数の瞬間と


わたしたちは悲しい瞬間に立ち会うと、その瞬間が心に深く刻まれます。そうして、その悲しい瞬間が頭から離れなくなります。その人のことを思い出すと悲しい瞬間のことが頭にまずよぎって、他のいろいろな思い出がなかなか思い出せなくなるのです。そうしてますます、自分とその人との間が断絶されているように感じてゆきます。一方で、その人の過ごした時間というのはもちろん、その悲しい瞬間だけではありません。楽しかったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、さまざまな思い出があります。そしてそれら印象的な思い出の背後に、無数の日常の何気ない思い出があります。私たちにとって悲しい記憶と言うのは如何ともしがたいものでありますけれども、それだけがその人との思い出の「すべて」ではないのだ、ということを思い起こすことの大切さを改めて思わされました。


先週も説教の中で引用しましたが、星野富弘さんの詩に、次のような詩があります。


《今日もまたひとつ

 悲しいことがあった

今日もまたひとつ

うれしいことがあった


笑ったり泣いたり

望んだりあきらめたり

にくんだり愛したり


そしてこれらのひとつひとつを

わらかく包んでくれた

 数え切れないほどたくさんの

 平凡なことがあった》。


《数えきれないほどたくさんの 平凡なこと》、その何気ない日々の中に、私たちの幸せというものは隠れているものです。日常の何気ない記憶が心によみがえる時、わたしたちは愛する人のことをよりはっきりと思い出すことがあります。そのとき私たちは、悲しみのあまり断ち切られていたその人とのつながりを心の中に取り戻すことがあります。そのような瞬間というものは、私たちの意志や努力でというよりは、贈り物のように与えられるものとして私たちに訪れるのかもしれません。


 


主イエスの「おはよう」


 このようなことを考えながら私が思い出していたのは、新約聖書のマタイによる福音書に記されている、よみがえられたイエス・キリストとマリアたちとの再会の場面でした。


主イエスの墓を見に行った婦人たちは、天使から主イエスが復活なさったことを告げられます。恐れと喜びの中で走り出した婦人たちは、行く手に立っておられる主イエスと出会います。マタイによる福音書289節《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した》。


よみがえられた主イエスがおっしゃった言葉は「おはよう」でした。主イエスは何か特別なことをおっしゃったのではなく、普段通りの挨拶をなさいました。その挨拶は、おそらく主イエスが婦人たちと共に旅を続けていた間、毎朝交わしていたであろう、いつも通りの挨拶です。この「おはよう」という主イエスの声によって、婦人たちの心に再び生命が取り戻されたのではないかと私は受け止めています。


主イエスはその三日前に、十字架刑という残酷な刑に処せられて亡くなりました。婦人たちの脳裏には、十字架におかかりなって苦しむ主イエスのお姿が焼き付いて離れなかったであろうと思います。もはやその悲しみの瞬間のことしか思い出せなくなっていたのではないでしょうか。そのような中、婦人たちはよみがえられた主イエスに出会い、「おはよう」という声を聴いたのです。


この声と出会って、婦人たちの心の中には、悲しみのあまり思い出せなくなっていた主イエスとのさまざまな記憶が一気によみがえった。春が来て雪が解けるように、如何ともしがたかった悲しみがほどかれ、その替わりに、主イエスと過ごしたかけがえのない一瞬一瞬が、胸いっぱいによみがえった。心の断絶が取り除かれ、主イエスと確かにつながっている実感を、再び心の中に取り戻すことができた。わたしは主イエスのこの「おはよう」という挨拶をそのように受けとめています。


「おはよう」というイスラエルの挨拶は、「喜びなさい」という意味ももっている言葉であるそうです。まさにこの挨拶の言葉の通り、婦人たちの心には喜びが取り戻されました。


 


あたたかな気持ちの流れを取り戻す


 聖書が語る「復活」の出来事に触れるとき、私たちはある側面、自分自身のさまざまな記憶が相対化されてゆくことを経験します。悲しかった出来事や、辛かった出来事もまた、他の多くの出来事と共に一つの経験として位置づけし直されてゆきます。それは、それら出来事がどうでもよくなるということではありません。ただ、それら悲しい出来事によって思い出せなくなっていた、当たり前の日常の記憶もまた同じように大切な記憶として心の内によみがえってくる、ということです。


その当たり前の無数の記憶に包まれるとき、私たちは再び、あたたかな気持ちを取り戻してゆきます。まるで春が来たように、あたたかな気持ちが再び心の深みから溢れ出てきます。そのあたたかな気持ちの流れを、「愛」という言葉で呼んでみることもできるでしょう。このあたたかな気持ちの流れは確かに、今まで私たちの心にありました。いまもあります。これからもあり続けるでしょう。たとえ私たちの心の表面が氷のように凍りついてしまっているのだとしても、底の方にはこのあたたかな気持ちは確かに流れ続けています。私たちはイエス・キリストの復活の出来事に出会う時、悲しみの氷が少しずつ溶かされ、この本来のあたたかな気持ちの流れを自らに取り戻してゆきます。人を愛し、人に愛されたたくさんの記憶を取り戻してゆくのです。


 


神の愛


本日の聖書箇所は、パウロという人物が手紙に記した中の言葉です。ローマの信徒への手紙83839節《わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、/高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです》。


 パウロはここで、私たちにとって重大と思える事柄を上げてゆき、それら事柄をあえて相対化してみせてゆきます。「生きること」、「死ぬこと」。「現在」と「未来」……。もちろん、それらがどうでもいいということではないでしょう。ただし、それら私たちにとってとてつもなく重大と思える事柄もまた、その他多くの事柄と等しいものと位置づけし直しているのです。そのことによって、私たちの心に本来のあたたかな気持ちの流れが取り戻されてゆくということが起こります。


 このあたたかな気持ちの源を、パウロは神の愛と呼んでいます。この神の愛は私たちの内にあり、また私たちはこの愛の内にいます。どんなものも、どんな力あるもの、キリストによって示されたこの神さまの愛から私たちを引き離すことはできない、とパウロは述べます。


 


永遠の命


どんなものも、神さまの愛から私たちを引き離すことはできない――。それは、死の瞬間であってもそうです。私たちの目からすると、その悲しみの瞬間が人生の「すべて」であるように思えても。神さまの目から見ると、その悲しみの瞬間も、その他無数の瞬間と等しいものとして映っているのでしょう。死の瞬間によってすべてが終わってしまうわけではないのです。


 私たち自身はそのような境地に達することはできませんし、また達する必要もないでしょう。ただ、この神さまの愛を、真実として受け入れることはできます。


神さまの愛を受け入れ、この心にあたたかな気持ちの流れを取り戻すとき、私たちは「死は終わりではない」ことをかすかにでも、感じることがあります。私たちの存在は死という瞬間で断ち切られるのではなく、もっと大きな命の中を生き続けるのではないか、と感じることがあります。


私たちがかすかに予感するこの大いなる命を、聖書は「永遠の命」と呼んでいます。


 


大いなる命の中を共に生きる


永遠の命――。しかしそれを実感することは、私たちの意志や努力で与えられるものではないのでしょう。それはまるで贈り物のように、ある日、思いもかけず私たちの心に届けられるものなのだと思います。あの復活の日の朝、主イエスがマリアたちに「おはよう」と語りかけて下さったように。ふさわしい時が来たる時、私たちの心に語りかけられるものなのだと思います。


その瞬間、私たちは「死は終わりではない」という聖書が伝える真実を、ほんのわずかですが、実感できた気持になるでしょう。永遠の命と一瞬、つながった気持になるでしょう。天に召された愛する人々と再びつながりを取り戻した気持ちになるでしょう。その時、私たちの心を占める悲しみの氷は少しずつ、溶かされてゆきます。あたたかな気持ちが自らの内に取り戻されてゆきます。そうして、その永遠の命ははるか遠くにあるのではなく、むしろ私たちの何気ない日常の中に潜んでいるのだということに気づかされてゆきます。


私たちは自分たちで気づかないままに、その命に包まれて生きています。天に召された愛する兄弟姉妹も、この大いなる命の中を私たちと共に生き、共に生かされています。


 


一瞬を確かな希望として


私たちはいつもそれを実感して生活できるわけではないでしょう。むしろ心の中は言葉にできないような悲しみや、苦しみがいまも存在しています。しかし、たとえ一瞬であっても、永遠の命を感じる瞬間があります。その一瞬があることで、私たちには十分であるのかもしれません。その一瞬が、私たちにとって神さまからの確かな「約束の言葉」となるからです。私たちは、その一瞬を確かな希望として、生きてゆくことができます。


神さまの愛はいま確かに私たちを結んでいます。どんな悲しい瞬間も、死の瞬間も、私たちを結ぶこの神の愛から引き離すことはできないのだと信じます。


本日の礼拝において、この希望を共に噛みしめ、共に分かち合いたいと願っています。今朝この時、皆さんの心に、永遠の命なるイエス・キリストが親しく語りかけてくださいますように。