2014年11月23日「神の国のたとえ」

20141123日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書42634

「神の国のたとえ」

 

謝恩日・収穫感謝の日

 本日は日本の祝日では勤労感謝の日です。花巻教会が属する日本基督教団においては、本日を謝恩日に定めています。特に、牧師を隠退された先生方とご家族を覚え、感謝の想いを新たにする日です。

また、今日は収穫感謝の日としても定められています。神さまから与えられた収穫の恵みを感謝する日です。教会によっては秋の収穫物を会堂の前に並べ、礼拝をささげるところもあります。日本全国の教会で、隠退された先生方のお働きと、神さまの恵みを覚えて感謝の礼拝がささげられています。

 

 私たちの日々の生活は多くの方々の支えと、神さまの支えによって成り立っています。しかし、わたしたちは気が付くと、自分ひとりの力で生きている気持になってしまっているものです。今朝ごいっしょに、私たちのいのちが生かされて在ることの感謝を新たにしたいと思います。

 

 

植物を成長させる大地のたとえ

 本日の聖書箇所では、イエス・キリストが語られた二つのたとえ話が記されています。いずれも、神の国のたとえとして語られているものです。一つ目は、植物を成長させる大地のたとえ、二つめは小さなからし種のたとえです。

 

マルコによる福音書42632節《また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、/夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。/土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。/実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。/それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、/蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」》。

 

 一つ目のたとえでは、植物を成長させる「土」にスポットが当てられています。土に蒔かれた種は、人が知らない間に芽を出し、成長してゆきます。そのように、土はおのずと実を結ばせ、豊かな収穫をもたらします。もちろん、種を蒔き水をやるのは人の仕事ではありますが、成長させるのは私たち人間を超えた力です。このたとえ話では、土の中にその目には見えない不思議な力が秘められていると語られます。

 

 

土に触れる経験の激減

 主イエスがこれらたとえ話を湖のほとりで、ガリラヤの村の人々にお語りになりました。その場に集っていた人々にとって、これらたとえ話は非常に身近な、親しみやすいたとえ話であったことと思います。当時のパレスチナは基本的に自給自足であり、人々は何らかのかたちで農業に携わっていたからです。土が人間の働きを超えておのずと植物を成長させてゆくことの不思議は、身をもって体験していたことと思います。

 

 反対に、現代を生きるわたしたちは、すべての人が農業に携わっているわけではありません。私を含め、特に若い世代の人々はその経験が少ないということができます。

また私たちは、土に触れるという経験自体が、激減しています。街を歩くときは舗装されたコンクリートの上を歩き、土にじかに触れるということがどんどん減っています。土のにおいを嗅ぐということがありません。つい数日前も、同世代の友人と、私たちは近年、土に触れる経験がほんとに少なくなった、ということを話していました。土に触れることを忘れた現代人は、何か大切な感覚を失ってしまっているように思います。それは、自分自身を顧みて、そのように思います。

 

 

からし種のたとえ

二つ目のたとえでは、蒔かれた「種」にスポットが当てられています。ここで取り上げられているのは「からし種」と呼ばれる種の種類で、当時、最も小さいものを表す表現としてこの種が用いられることがあったそうです。そんなまことに小さなからし種ですが、成長すると他のどんな野菜よりも大きくなります。葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど、大きな枝を張るようになると語られます。ここでも、私たち人間の意図を超えて、そのような不思議が起こるということが語られています。

 

 このからし種のたとえも、頭では分かっているつもりでも、私自身は体を通してはあまり体感できていないように思います。種を蒔き、育て、収穫するという経験が、実際にはほとんどないからです。野菜はスーパーで買うか、もしくはどなたかから送っていただくか。新鮮な野菜を送っていただけるというのは本当に有難いことです。ただ、自分たちで収穫した野菜を食するということは普段はほとんどありません。この点に関しても、自分は何か大切な感覚を失っているなあ、と思うのです。どこか地に足がついていないような、根なし草であるような感覚を覚えることがあります。

 

 

不思議な働き

 さて、主イエスはこれらエピソードを、神の国のたとえとしておっしゃられました。神の国を指し示すために、これらたとえ話を語られたのですね。

 教会の働きもまた、種蒔きにたとえられることがあります。私は農業の経験はありませんが、この教会の働きにも私たちの意図を超えた不思議な力が働いていることを感じた経験はあります。自分が語った言葉が意図を超えて、ある人の心に何らかの良い影響を及ぼしていたり。何気ない言動が、恵み深い結果につながったり。先ほど、本日は隠退された先生を覚える謝恩日でもあるということを述べました。私はいまだ経験が浅い者でありますが、長年牧師をしてらっしゃった先生方は、この不思議をきっとたくさん経験してらっしゃることと思います。自分たちの力を超えて、豊かな実りがもたらされることがあるということを、先生方は数多く経験してこられたことと思います。

 

 主イエスはおっしゃいました。神の国は、作物を育む大地のようなものである。それは人間の意図や働きを超えて、成長させ、実を結ばせる。また主イエスはおっしゃいました。神の国は、小さなからし種のようなものである。人間の目にはごく小さなものに見えても、それはやがて大きな樹となる。空の鳥がその葉の陰で羽を休め、巣を作れるほどになる。

 神の国の不思議な働きに立ち会うとき、気が付くと私たちはむしろ目撃者となっています。神さまの力を身近で目撃する者となっているのです。パウロの手紙に、次のような言葉があります。《わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。/ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です》コリントの信徒への手紙一367節)

 

 

神の国の「土」に触れる

 このような経験をするとき、私たちは、「自分の力で生きている」という意識から、「自分は自分を超えた力によって生かされている」という意識になります。もちろん、ずっとその意識が続くわけではありません。気が付くと、自分一人の力で生きているつもりになっている私です。しかしふとした瞬間、自分という存在は何か大きな力によって生かされ、支えられていると感じることがあります。

 

 このように感じる瞬間、私たちは、神の国というこの世界の「土」の部分に触れているのではないでしょうか。普段は失ってしまっている、何か根源的な部分に触れている。この土に触れるとき、私たちは何か、生きる手触りのようなものを思い出します。そのとき私たちは、根なし草のようであった自分が、実は、神の国の大地に、深く根を下ろしていたことに気が付きます。この土から養分を得、支えられ、生かされてきたことに気が付くのです。

 

 主イエスはおっしゃいました。《空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる》(マタイによる福音書626節)。神の国の土に触れるとき、私たちは自分が自分を超えた働きによって養われ、生かされている存在であることを思い起こします。

何か自分がよい行いをしたからではなく、素晴らしい働きをするからでもありません。ただ“あるがまま”の私として、神さまに生かされ、支えられている――そのような世界があることを、私たちは思い起こします。

私たちがこの、目には見えない「土」の部分に触れて生きてゆくこともまた、欠くことのできない重要なことでありましょう。

 

 

存在していることの尊さ

 本日の主イエスのたとえ話において、私たち人間による働きは一切取り除かれています。ただそこに在るのは、神さまの働きと、私たちの存在のみです。神さまの恵みの中で、私たちはただ、いまここに存在しているだけでいい。いまこうして神さまから命が与えられ、生かされていることこそが尊い。主イエスはたとえを通して、そう私たちに語りかけて下さっています。「あなたがいま・ここに、居ることこそが尊い。あなたが存在していることそのことが、何よりの価値である」と。

 

 この主イエスのまなざしというのは、当時のイスラエルの人々にとって驚きであったことでしょう。そして、いまを生きる私たちにとって驚きであり続けています。なぜなら私たちは日々の生活の多くを、私たちは「存在しているだけでは駄目なんだ」という意識で生きているからです。何かよい行いができなければならない。何か素晴らしい働きができなければならない。そうでないと、ここに自分がいる価値はない。そう思ってしまっているからです。

 

 もちろん、何かよい行いをすることは素晴らしいことです。また事実、私たち一人ひとりには大切な使命が託されていることでしょう。ただ、それら私たちの働きよりも、もっと深い次元があります。それが、神の国の領域です。この神の国という大地の上では、私たちは草花のように、一本の樹のように、ただ生きて存在しているだけで十分なのです。後は神さまご自身が、私たちの命を守り、育み、支えて下さっています。私たちが何かよい行いをするからではなく、素晴らしい働きをするからでもない。私たちがただいまこうして存在し生きていることにこそ価値があることを主イエスは伝えて下さっています。

 

 

神の国のまなざしを取り戻す

 主イエスが私たちに伝えて下さったこのメッセージは、私たちの社会により切実に求められているものではないでしょうか。皆さんもお感じになっている通り、私たちの社会は神の国の「土」の匂いからどんどん遠ざかっていってしまっています。何か有用な働きができなければならない。そうでなければ生きている価値はない。暗に互いにそのようなメッセージを伝え合うような社会になってしまっているのではないでしょうか。この国が「生きづらい社会」になっている、そう指摘されて既に久しいですが、その傾向は近年より深刻になっています。

 

 それは、この社会にいきる私たち自身が、神の国とは真逆の価値観でものごとを見つめてしまっていることが多いからでしょう。そしてその神の国とは真逆の価値観が、社会を動かす原動力となってしまっている。いかに有用な働きができるか。効率を上げ、利益を上げることができるか。そのような価値観のみに囚われてしまうとき、私たちは神の国の土の匂いを忘れてゆきます。生きることの土台を失い、根なし草のような状態に陥ってゆきます。

 

 いまこそ私たちは、主イエスが私たちに伝えて下さった神の国のまなざしを取り戻す必要があるでしょう。神の国の土の匂いと、その手触りを取り戻してゆく。この神の国の大地の上で、自分たちが“あるがまま”に生かされている感覚を取り戻してゆく必要があるでしょう。そこから改めて、私たちの社会の在り方を考え直してゆく。人間を大切にする社会を創り出すのは、存在を大切にするまなざしです。

 

いま共に、神さまからのメッセージに心を開きたいと思います。神さまは主イエスのたとえ話を通して、私たち一人ひとりに、おっしゃってくださっています。「あなたが存在していることこそが、貴い。あなたがここに居てくれることが、何よりも嬉しい」。