2014年11月30日「突風を静める」

20141130日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書43541

「突風を静める」

 

奇跡物語

 本日の聖書箇所は、主イエスが嵐を静め、荒ぶる湖を静める場面です。よく知られた、イエス・キリストによる奇跡物語の一つです。主イエスが風を叱り湖に「静まれ」とおっしゃると、その通りに風はやみ水面は穏やかになった。現代の私たちの科学的な見地からからすると「あり得ない」ように思われる事柄が記されています。では聖書が記された当時の人々はこの出来事をすんなりと受け入れていたかと言うとそうではないでしょう。風と湖に向かって「静まれ」と言うと風と湖がその言うとおりに従うというのは、当時の人々の常識的な見地から言っても「あり得ない」ことだった。だからこそ驚くべき「奇跡」物語として長く語り伝えられてきたのだ、ということができるでしょう。

 

このような奇跡物語に出会うとき、読んだ人の反応はさまざまでありましょう。「あり得ない」話だと言って、読み飛ばしてしまう人もいるでしょう。また、書かれている通りのことが起こったのだと受け止める人もいるでしょう。私たちには理解できないことも神さまにはできるのだと信仰をもって受け止める人もいることでしょう。どのように受け止めるかは、その人の主体性にゆだねられています。これが正解である、という読み方が必ずしも存在しているわけではありません。

本日は、この出来事が現実に「あり得るか」「あり得ないか」という読み方ではなく、この物語がいまを生きる私たちにどのようなメッセージを放っているか、ということをごいっしょに読み取りたいと思います。

 

 

突風を静める

改めて、マルコによる福音書43541節をお読みいたします。

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。/そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。/激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。/しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。/イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。/イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」/弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った》。

 

 主イエスはガリラヤ湖のほとりで、そこに集った人々にさまざまなたとえ話を語られました。話を語り終えられたある日の夕方のことでした。主イエスは弟子たちに向かって、「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃいました。ガリラヤ湖は、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルほどの大きさの湖です。湖のまわりに町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動していたそうです。湖の向こう岸に渡るということは、少なくとも十数キロは舟で移動しなければならないことになります。

 

 ガリラヤ湖は夕方になると、陸から突風が吹きつけて来ることがあったそうです。弟子のペトロやヨハネたちはもともと漁師であり、夕方になってから舟を出すことの危険は当然承知していたことでしょう。しかし主イエスのご命令に従い、主イエスを舟に乗せたまま沖へ向かって漕ぎ出します。

 そうすると突風が起きつけてきて、波が舟の中に入ってくるほど揺れになりました。水面は激しく波打っています。それは熟練の漁師であったペトロたちさえも恐怖を覚えるほどの嵐であったようです。主イエスは舟の後ろの方で枕をして眠っておられました。舟につかまりながら、たまらず弟子たちは主イエスに声をかけます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 声を受けて主イエスは目を覚まされます。風を叱りつけ、湖に向かって「黙れ。静まれ」とおっしゃいました。すると風はやみ、湖はすっかり穏やかになった、と聖書は記します。

 主イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいました。弟子たちは非常に恐れ、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と囁き合いました。

 

 

主イエスへの信頼

 嵐の中で主イエスに助けを求めた弟子たちに対し、主イエスは《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》とおっしゃいました。ここで「信じる」と訳されている語は、「信頼」という意味も持っている言葉です。よって、主イエスのこの言葉を、「なぜ怖がるのか。まだ信頼をもっていないのか」と訳すこともできます。

この物語では、「信頼」ということが大切なテーマとなっているようです。突風が起こり弟子たちは恐怖に陥りましたが、その姿は弟子たちの内に主イエスへの信頼がないことの表れでもあった、と受け止めることもできます。この物語を記した福音書記者のマルコは、どんな大変な状況であっても、主イエスが共にいてくださるのだから信頼を失わないようにしよう、と読む者に呼びかけているのでしょう。

 

以前、マルコによる福音書はキリスト教に対する攻撃や迫害がなされる状況の中で記された、ということを述べました。たとえばこの物語の中の嵐を、当時のクリスチャンたちはいま自分たちが直面しているさまざまな困難と重ねあわせていたのだろうと思われます。いま自分たちは嵐のような状況にいるけれども、主イエスが共にいてくださるからきっと大丈夫だ。主イエスが必ずやこの嵐を静めてくださるに違いない。だから勇気を出そう。そのように、この物語から神さまからの平安を得ていたのだと思います。

 

 

聖書の受け止め方の難しさ

 本日の物語の弟子たちの姿を、主イエスへの信頼がない、不信仰な姿だと受け止める解釈もあることでしょう。一方で、弟子たちは危険を敏感に察知しました。その意味で、弟子たちは「危険を危険として受け止める」という見張りとしての役割を果たしたことになります。私は弟子たちのこの姿に、むしろいまを生きる私たちが読みとるべきメッセージを見出します。

 本日の物語において、もしも弟子たちが「主イエスが共にいてくださるから大丈夫」だと安心して、波の様子にまったく気を配っていなかったとしたらどうでしょうか。それは信頼というよりも、油断するという結果になってしまったのではないでしょうか。

 

 本日のような聖書の箇所は、受け止め方が難しい個所です。奇跡が「あり得るか」「あり得ないか」という受け止め方の難しさではなく、私たちが神さまへの「信頼」ということをどのように受け止めるか、ということの難しさです。本日の聖書箇所は、確かに主イエスへの全幅の信頼を呼びかけている聖書箇所ではありますが、しかしそれは目の前にある現実に楽観的であれ、と必ずしも言っているわけではないように思います。主イエスへの信頼を失わないと共に、今の目の前にある危機的な現実をはっきりと受け止めることも私たちにとっては重要なことです。

 

 

目の前にある危機に対して

 自らへの自戒を込めて言うのですが、本日の聖書箇所は、「信仰」という名でもって目の前にある現実を見ないようにするために利用されてしまいがちな箇所であると思います。本当はいま受け止めるべき現実があるのに、「神さまが共にいてくださるのだから何が起ころうとも安心だ」と言ってそれを受け止めないならば、大変な状況を招いてしまうことになりかねないでしょう。私たちは知らずしらず、そのような状態に陥ってしまうことがあります。つまり、主イエスに全幅の信頼を置くことと、目の前の現実に危機感を覚えることは矛盾しないことなのです。

 

 旧約聖書のエレミヤ書では、国家が危機的な状況にあるのにその危機の現実を見ようとせず、「平和、平和」と唱える偽りの預言者たちの姿が記されています。《彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う》(エレミヤ書614節)。目の前に危機的な状況を認めることなく、ただ「神さまからの平安」だけを強調している者は「偽預言者」であるという、厳しい言葉が記されています。

 私はこれら警告の言葉を、自分自身に向けられたものとして受け止めています。自分は神さまからの平安を強調するあまり、いま見るべき現実にフタをしようとはしていないだろうか。油断をして、まどろんでしまってはいないだろうか。立ち向かってゆくべき現実から目を背けてはいないだろうか。

 

 

徹底的に絶望すること

 そのようなことを思いながら、改めて本日の弟子の姿を見ますと、そこにむしろいまを生きる私たちへのヒントを見出すことができるように思います。

 弟子たちはいま目の前にある危機的な状況をはっきり危機として受け止めました。その危機感の中で、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と主イエスに助けを求めます。「おぼれる」と訳されている語は「滅ぶ」という意味もある言葉です。弟子たちは、「自分たちは滅んでしまうのではないか」という深刻な危機意識の中で、主イエスを呼び求めたのだということが分かります。

 

 会津放射能情報センター代表の片岡輝美さんがおっしゃった言葉で、心に強く残っている言葉があります。2014311日に開かれた、日本基督教団 東日本大震災国際会議の講演の中の言葉です。『信徒の友』20146月号にも講演の要旨が掲載されています。片岡輝美さんは、「希望とはまず、徹底的に絶望するところからしか見えてこないのではないか」ということをおっしゃっていました。

たとえばこの度の福島の原発事故による放射能の汚染の現実がそうでしょう。汚染の数値を知ることは、私たちにとって辛いことであり、できれば目を背けていたい現実です。でも片岡さんは私たちが実際にその数値を計り、現実を知ることの重要性を訴えています。《事件直後から、政府は「直ちに健康に影響はない」と繰り返して安全キャンペーンをはり、国民に真実を知らせませんでした。たとえば、各地に設置されたモニタリングポストの数値は、他の機器で測る数値よりもかなり低いのが現実です。安全であるかどうかを決める権利は私たち自身にあるはずです。その判断をするためにも自分たちで放射能の正確な数値を知る必要がありました。

幸い、201111月に私たちは南西ドイツ福音宣教会(EMS)の支援によってスウェーデン製の放射能測定器を購入しました。これによって米、野菜、果物、水、魚、肉、土壌などこれまで2000件近く検査してきました。尿の定期検査もしています。残念ながら、微量ですが子どもたちの尿からセシウムが検出されています。数値を知る目的は真実を知ることです。それはとても恐いことですが、真実を知ることによってしか、子どもの命を守ることはできないのです》。

現実をしっかりと把握することが、子どもたちの命を守ることにつながるのだと片岡さんは語ります。そうして、片岡さんは講演を次のように締めくくっています。《確かに私たちには復活の主が希望です。しかし私たちはかなり絶望的な時代に生きているのです。希望とはまず、徹底的に絶望するところからしか見えてこないのではないかと思います。絶望の時代に光となるために私たちが今何をすべきなのか問われています》(『信徒の友』20146月号、日本キリスト教団出版局、2526頁より)

 

 弟子たちが迫りくる嵐の中で自分たちの危機をはっきりと認めたように、私たちはいま自分たちが生きる社会の現実を把握することが、まず第一になすべきことであるでしょう。それは深刻な、危機的な現実であるかもしれませんが、勇気をもってそれをなすこと。そうして失望すべきことには、はっきりと失望すべきこと。しかしそれでもなお失われない希望があることを私たちは知らされています。

宗教改革者のルターの言葉に「大胆に罪を犯せ。されどもさらに大胆に信ぜよ」というものがありますが、その言い方を真似るなら、「大胆に絶望せよ。されどもなお残る希望を信ぜよ」という姿勢が重要なのではないでしょうか。

 

 

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」

 私たちが暗闇であると思ってもなお、消え去らない光がある。そこにおられるのが、イエス・キリストその方です。たとえ私たち自身が絶望しても、主は決して絶望なさりません。私たちが真っ暗だと思っても、なおそこにともる、かすかな光があります。その方が、主イエス・キリストその方です。主はあらゆる荒ぶる力から私たちを守ってくださり、それを鎮めてくださるでしょう。いつの日か、私たちのもとに和解と平和をもたらしてくださるでしょう。だから私たちはこの方を希望の光として、共に歩んでゆくことができます。

 

《闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた》(イザヤ書91節)

 

本日から教会の暦で、アドベント(待降節)に入ります。アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。まことの光であるイエス・キリストの到来を待ち望み、その希望を新たにする時です。

どうぞアドベントのこの時、私たちがいま目の前にある現実から目を背けることがありませんように。そして同時に、それでもなお消えることのないまことの光への信頼を、私たちが失うことがありませんように。ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。