2014年11月9日「種まきのたとえ」

2014119日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書41320

「種まきのたとえ」

 

種まきのたとえ

本日の聖書箇所は、よく知られた「種まきのたとえ」についての解説です。イエス・キリストのたとえ話には基本的に解説は付されないので、例外的な箇所であるということができます。

ここでは、種まきにおいて蒔かれる種は神さまの「言葉」であり、それを受け止める土地は私たち自身の在りようであると解説されています。「道端」、「石だらけの所」、「茨の中」……このたとえ話の解説を聞きながら私たちはそれぞれの土地に私たち自身の在りようを重ねあわせたりします。「自分の今までの歩みはまるで石だらけの土地のようだったなあ」とか、「いまの自分は思い煩いに囚われているので、茨の生い茂っている土地のようだなあ」とか。この解説は私たちに反省を促しつつ、「御言葉を聴き、受け入れる」ことの大切さを読む者に勧めます。


 

初代のクリスチャンたちの証言として

 本日の聖書箇所は、主イエスご自身がお語りになった解説というよりは、後に初代のクリスチャンたちが主イエスのたとえ話をこのように受けとめた、という一種の証言であると考えられています。教会が誕生して間もない頃、クリスチャンたちが主イエスが語られた「種まきのたとえ」をどのように受け止め、解釈をしていたかの貴重な記録でもあるのです。


 当時、クリスチャンたちがどのような状況であったかと言うと、非常に困難が伴う状況であったようです。キリスト教は、袂を分かったユダヤ教から「異端」と見なされていました。クリスチャンたちはクリスチャンであるゆえに、さまざまな攻撃や中傷を受けていました。たとえば、17節には、《艱難や迫害》という言葉が出て来ます。1617節《石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、/自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう》。この《艱難や迫害》という言葉の背景には、当時のクリスチャンたちが実際に経験していた艱難や迫害が踏まえられているようです。


新約聖書のパウロの手紙の中には、たとえば当時クリスチャンがどのような困難を受けていたかの一端が記されています。《ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。/鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。/しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、/苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。/このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります》(コリントの信徒への手紙二112428節)

パウロという人物は教会の指導者として矢面に立っていた人であるので、皆がこれほどの苦難を受けたわけではないと思いますが、クリスチャンであるということはこのような危険にさらされる可能性がある、ということでもありました。


このような緊迫した状況の中で、初代のクリスチャンたちは懸命に主イエスのたとえ話に耳を傾け、そこから受け取ったメッセージを記したのが本日の聖書箇所であるのですね。そのような背景を踏まえつつ、本日の聖書箇所を読んでみるとまた印象が変わってくるかもしれません。

 


従来の「良い土地」 ~信仰こそが第一

改めて、14節以下をお読みいたします。《種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。/道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。/石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、/自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。/また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、/この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。/良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである》。


このたとえ話の解説の中で大切にされていることは、神さまの言葉を「聞いて受け入れる」ということです。さまざまな艱難や迫害があろうとも、御言葉を懸命に聴き続け、耐え忍ぶこと。その在り方が、神さまから見て「良い土地」であると言われています。そのような人々には、神さまから「三十倍、六十倍、百倍」もの報いがあるのだと希望をもって締めくくられています。

困難な状況の中にあっても信仰を放棄せず、懸命に耐え忍んでいた先人たちの姿がこれらの言葉から垣間見えてくるようです。これら先人たちの信仰があったからこそ、現在の私たちの教会があるということができます。

初代のクリスチャンたちにとって、守るべき最も大切なものとは「信仰」でした。イエス・キリストへの信仰は何よりも――自分たちの命よりも大切なものであると捉えていました。「殉教」という言葉があります。信仰のために命を失うことです。初代のクリスチャンたちの中には、迫害の中で自ら殉教を選び取ってゆく人々もいました。


クリスチャンへの迫害が特に激しくなったのは、紀元3世紀半ば以降です。この時期、クリスチャンたちは絶対的な権力をもったローマ帝国から組織的な迫害を受けていました。ローマ帝国から大規模な迫害を受ける中、多くのクリスチャンたちは自らの死をもって、「信教の自由」を守っていったのです。

古代教会の指導者の一人であったテルトゥリアヌスAD160頃~220頃)という人の言葉に、「殉教者の血は教会の種」という言葉があります。殉教者たちの流した血が、教会の種となり、それがいつか豊かな実を結ぶであろう、という言葉です。このような意識で、古代教会の指導者たちはこの度の「種まきのたとえ」も受け止めていたことでしょう。どんな艱難や迫害があろうとも信仰を守り通した「良い土地」には、「三十倍、六十倍、百倍」の天からの報いがあるのだ、と信じていたことでしょう。

日本においても、豊臣秀吉の時代から明治の初期にかけて、多くの殉教者が出ました。東北にも幾つものキリシタンの殉教地があります。キリシタンの人々もみな、天上での報いを希望として、殉教してゆきました。


 

真に問題とされなければならないこと

 先人たちの信仰を深い感謝の念をもって受け止めつつ、では、私たちはいまどのような在り方が求められているでしょうか。私たちもまた、先人たちの偉大な信仰に倣ってゆくべきでしょうか。私は、もはやそのような在り方は私たちには求められていない、と受け止めています。


以前、妻と共に一関市にある大籠キリシタン殉教公園を訪れたことがあります。江戸時代の始めに、大籠の地では300人ものクリスチャンが殉教したそうですが、その歴史を記録するために整備された公園です。たとえばこの殉教地を訪れながら私が思ったことは、「このような悲劇はもう二度と繰り返してはならない」ということでした。


キリスト教会においては、殉教者の「強い信仰」を讃える方へと考えが向かってしまう傾向があります。殉教地を訪れた方の中には、先人たちの信仰に心打たれ、自分もその信仰に倣おうという想いに駆られる方もいらっしゃることでしょう。その想い自体が悪いというわけではもちろんありません。ただ、私たちがこれから重点を置いてゆくべきなのは、「このような悲劇を二度と繰り返さないように」という考え方であると思うのです。


「殉教」という出来事を考える時、従来は殉教者の信仰にスポットが当てられることが多かったですが、殉教者が出るということは、殉教を強いた存在があるということを、私たちは見過ごしてはならないでしょう。古代教会で言うと、ローマ帝国の存在。日本で言うとたとえば江戸幕府の存在。真に問題とされなければならないのは、クリスチャンたちを殉教させるまで追い詰めた国家の責任であり、それを許容していた社会の責任です。


聖書学者の荒井 献氏は、古代教会においてクリスチャンたちが殉教という行為をもって「信教の自由」を守ったことをもちろん評価すべきこととしつつ、一方で、その殉教の要因であるローマ帝国を批判する視点がクリスチャンたち自身において欠落していたということを指摘しています(「使徒教父文書の世界」より。『使徒教父文書』所収、講談社文芸文庫)。荒井氏の指摘のとおり、私たちはその事実を率直に認める必要があるでしょう。殉教を推奨すると同時にローマ皇帝には従順であるという不可思議な姿勢が、事実として古代のクリスチャンたちにはあったのです。そしてその姿勢というのは、現在のキリスト教会にも引き継がれているということができるでしょう。


 

これからの「良い土地」 ~命こそが第一

 先人たちの信仰を敬意と感謝をもって受け止めつつ、しかしいま私たちは新しく主イエスの言葉から何を聴き取るべきか。それは、「命を最も大切なものとする」在り方であると考えます。

今までのキリスト教は、「信仰」こそが最も大切なものであると捉えてきました。信仰のためには命を犠牲にしてもよいと教えてきました。けれどももはや、私たちはそのような在り方を変えてゆくべき時にいるのだと考えます。私たちはいま、「命」こそを何よりも大切にする在り方へと変わってゆくことが求められています。現在の私たちにとって、「良い土地」とは生命と尊厳を第一とする在り方です。この在り方を私たちの生きる土壌としてゆくべきです。誤解を恐れずに言いますと、私たちキリスト教はこれからは、信仰よりも命を優先する在り方を再構築してゆくべきです。そのような土壌を創ってこそ、生命と尊厳をないがしろにしようとする暴力に対して、私たちははっきりと抵抗してゆくことができるでしょう。国家と私たちの社会の在り方の是非を問うてゆくことができるでしょう。


沖縄の琉歌に出て来る言葉で、《(ぬち)どぅ宝》という言葉があります。「命こそ宝」という意味です。国のために自らを犠牲にしてはならない。殉教してはならない。命こそが、何よりも貴い宝である。そうはっきりと宣言するこの沖縄からの言葉は、いま私たちが何よりも心に刻むべき言葉なのではないでしょうか(参照:阿波根昌鴻『命こそ宝 沖縄反戦の心』岩波新書)


 

福音を聴き、受け入れる

 私たちがいま生きる社会には、かつてのローマ帝国や江戸幕府が行ったような迫害はありません。では平和な社会かというと、まったくそうではないでしょう。私たちもまた、《艱難や迫害》にさらされています。それは私たち一人ひとりの生命と尊厳の危機に他なりません。

 たとえばこの度の原発の再稼働の問題はどうでしょうか。安全の基準も避難計画も定まらないままに原発を再稼働するということは、私たちの生命と尊厳そのものを危険にさらしてゆくということです。また、集団的自衛権を認めるということも同様でしょう。いま、真綿でゆっくりと首を絞めるようなかたちで、私たちの生命に対する「迫害」が行われようとしています。私たちがこれら不正に「否」を言うためには、私たち自身、自分たちが拠って立つ土台を確立してゆかねばなりません。「一人ひとりの生命と尊厳を第一にする」という生の土台を築いてゆかねばなりません。


 種まきのたとえにおける「種」とは神さまからの言葉であり、言い換えるとそれは「福音」ということができます。主イエスが伝えて下さった神の国の福音こそは、神さまが与えて下さった生命と尊厳の大切さを徹底して伝えているものです。私たちはこの福音の言葉にいま改めて耳を傾けたいと思います。そしてこの福音をしっかりと受け入れるための「良い土地」を、私たちの間に共に育んでゆきたいと願います。