2014年12月14日「キリストに触れる」

20141214日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書52143

「キリストに触れる」

 

私らしく生きる

 最近、花巻教会のゴスペルソング会では、「主につくられたわたし」1996年)という讃美歌を歌っています。平良愛香先生という牧師さんがつくった讃美歌です。平良先生は日本キリスト教団三・一教会の牧師であり、神奈川教区の議長もされている先生です。

 一番はこのような歌詞です。《わたしらしく生きよう 自由に生かされて おとならしくでもなく こどもらしくでもなく/ただ わたしを造られた神に応える ただ わたしらしく生きることで》。

 大人らしくでもなく、子どもらしくでもなく、という表現が面白いですね。神さまにつくられた、ただ一人の私、その私らしく生きることの大切さをこの歌は謳っています。

 二番は次のような歌詞です。《わたしらしく生きよう 自分を確かめて 男らしくでもなく 女らしくでもなく/ただ わたしを造られた神に応える ただ わたしらしく生きることで》。

「男らしく」でもなく「女らしく」でもなく生きること、これも非常に大切なことですね。と同時に、なかなかそのように自由に生きてゆくのは難しいことでもあります。私たちの生きる社会は依然として、「男らしく」「女らしく」という考え方が強い社会であるからです。また私たち自身、それら観念によって自分を縛っている部分もあります。


自分らしさとは異なった「男らしさ」「女らしさ」というものが押し付けられるとき、私たちは辛さを感じます。それを辛さは感じずに当たり前のものと受け止めている人もいれば、それを重荷として受け止めている人もいるでしょう。

「主につくられたわたし」という讃美歌が造られたのは20年近く前ですが、この20年間私たちの社会の状況は本質的にはあまり変化はしていないということができるのではないでしょうか。たとえ法律は変わっても、なかなか私たちの内実は変わりづらいものです。


 

「男らしさ」? 「女らしさ」?

 聖書の舞台となっているイスラエルの社会も、「女性らしさ」「男性らしさ」が強く要求される社会であったようです。もともとは女性の立場が強い社会であったけれども、だんだんと男性中心の社会になっていった、という点においてイスラエルと日本は共通しています。

 イエス・キリストがお生まれになった時代は、イスラエルはすっかり男性中心の社会になってしまっていたようです。女性は男性の「保護」のもとで生きるのが当たり前の社会になっていました。女性を力強く「守る」のが男性の「男らしさ」であり、その保護のもとで「従順である」のが女性の「女性らしさ」とされていたのです。


 当時のイスラエル社会において、多くの女性は男性の保護のもとで自分らしさを抑え込んで生きていました。中には辛さを感じながら生きていた女性もいたことと思います。

一方で、男性もまた、常に頼もしい存在であらねばならないと言う意味で制約を受けています。父親は娘に対して、夫は妻に対して、力強い存在でいなければならなかった。自分の弱さを見せることが出来ないという意味で、これら「男らしさ」も、多くの男性にとって重荷となっていたのではないかと思います。


 

律法による浄・不浄の規定

 イスラエル社会の場合、これら「女らしさ」「男らしさ」の考え方の背後には旧約聖書の律法の存在がありました。律法に記されている内容が、いつしかこれら固定観念を造り出していった、という側面があります。


たとえば旧約聖書のレビ記には、古代イスラエルにおける独自の「清いもの」「汚れたもの」についての規定が記されていますが、15章では人の身体に関しての浄・不浄の掟が記されています。その中で、女性が生理の期間にあるときは、家の中にとどまっていなければならない、というものがあります。その症状にあるとき、女性は「汚れた」状態にあるものとされました。そしてその「ケガレ」が移ってしまわないように、この時期女性は他者と接触したり、外出してはいけないとされていました。現代の私たちの視点からすると「何とひどい掟だ」と思ってしまう掟かもしませんが、当時はこれが常識とされていました。


「ケガレ」についての記述は男性に関しても述べられています。しかし男性の場合、女性のように症状が長期間続くということはありません。「ケガレ」の状態にあるとされる期間は女性の方が圧倒的に長くなり、日常生活を制限される時間が長くなります。これらイスラエル独自の浄・不浄についての考え方が、女性をさらに家にとどめることへとつながっていったということができるでしょう。


ただし、これは必ずしも女性を差別する意図があるものではなく、女性を保護する役割があった、という指摘があります。身体的に弱い状態にある女性を守るために、これら掟は機能していたのだという捉え方です。

そのような肯定的な側面があったことは確かでありましょう。けれども、少なくとも、これら規定が男性の視点に立って書かれているものであるということが分かります。男性が女性を「守る」という視点に立って書かれた規定です。

そして相手を「保護する」ということは、相手の権利を「制限する」ことと表裏一体です。男性が女性を自分たちの都合に合わせて制限するために、これら規定が利用されてしまったということもあったと思います。


 

当たり前の生活の制限

本日のマルコによる福音書の箇所には、12年間出血の止まらない一人の女性が登場します。この女性が抱えていた症状とは、女性特有の出血が、定期的にではなく継続的に続いている症状を指しています。12年もの間、女性は苦しみ続けていました。身体的な苦しみはもちろんのこと、当時のイスラエル社会の場合、必然的にそこにもう一つの苦しみが加わることとなります。それは先ほどの律法にあったとおり、日常生活が著しく制限され、そして共同体から疎外されてしまう、という苦しみです。

症状が続く限り、女性は「ケガレ」をもつ存在としてずっと家の中にとどまっていなくてはなりません。人と接触することも、外出することもできなくなります。人としての当たり前の生活が取り上げられることの苦しみを女性は12年間も味わい続けていました。


26節には、女性は《多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった》と記されています。多くの医者にかかって懸命に治ることを願ったけれど、ひどく苦しめられるだけだった。財産をすべて使い果たしてもますます悪くなるだけだったと記されています。女性が懸命に治ろうとしていたのは、ただ身体の症状が直されることを願ってだけのことではなかったでしょう。この症状が続く限り自分は周囲から「汚れた」存在とされ続け、共同体から疎外され続けることになる。社会全体が自分に強いるこの差別を耐えがたく思って、女性は懸命に治療を続けていたのだと思います。

この女性の姿から、レビ記の律法がもっている限界について考えざるを得ません。自分たちの枠組みから逸脱する人々を「汚れた者」として疎外してしまうこれら律法の規定には、やはり根本的な問題が内在していると言わざるを得ないでしょう。


 

会堂長ヤイロ

本日の聖書箇所では、この女性の物語と、ヤイロという男性の物語とが同時進行に進んでゆきます。2124節《イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群集がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。/会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、/しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」/そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。/大勢の群集も、イエスに従い、押し迫って来た》。


ヤイロという人物は会堂長という、責任ある役職についていた人でした。そのヤイロの娘が重い病にかかり、死に直面していました。ヤイロは人伝に主イエスのうわさを聞きつけたのでしょう、懸命な想いでイエス・キリストのもとに来て、娘を助けてほしいと願いました。

会堂長であるヤイロは共同体の中でも特に責任ある立場であり、常に威厳を保っていなければならない存在です。しかし重い病いを前に、自分の無力さを認めずにはおられなかったのでしょう。ヤイロは威厳もプライドも打ち捨てて、主イエスの前にひれ伏します。力強い父親の姿は、ここにはもはやありません。弱さをもった一人の人間として、ヤイロはここで主イエスの前にうなだれています。この度の緊急の事態において、もはやイスラエルの伝統的な男性像・父親像というものが意味をなさなくなっていることが分かります。

主イエスはヤイロの願いを受け入れ、弟子たちや大勢の人々と共に、ヤイロの家へと向かわれます。その道の途中で出会ったのが、12年間出血のとまらない女性です。


 

12年間出血の止まらない女性

2528節《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。/多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。/イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。/「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである》。

この女性もまた、主イエスのことを人伝に聞いたのでしょう。「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思い、懸命な想いで外に出かけ、群衆の中に紛れ込みました。そして、後ろから主イエスのそっと服に触れました。


女性はここで、律法の掟に二重に違反したことになります。家の中から外に出たという違反、そして男性に触れるという違反。他者に触れるとその「ケガレ」が移るとされていたからです。

女性はそれら律法を破ってでも、懸命な想いで主イエスの服に触れました。それはまた、「あらゆることに従順でいなければならない」という女性像をこの女性は自ら打ち破ったということでもあります。この緊急の事態においてもやはり、イスラエルの伝統的な女性像が崩されていることが分かります。

主イエスに触れた瞬間、女性は自分の病いがいやされたことを体で感じ取ります。

 


神さまからの尊厳の取り戻し

2934節《すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。/イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。/そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」/しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。/女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。/イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」》。


主イエスはご自身に誰かが触れたことをお気づきになり、「わたしの服に触れたのはだれか」とおっしゃいました。弟子たちは大勢の人々でごった返す中でこのようなことを言う主イエスを怪訝に思います。しかし主イエスは足を止め、自分に触れた者を見つけようとなさいます。女性は震えながら主イエスの前に進み出て、ひれ伏します。律法に違反したことに対し、どんな罰が下されるのかと思うと恐ろしかったことでしょう。

しかし主イエスはこの女性に何ら罰を与えることはなさいませんでした。主イエスはおっしゃいます、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。主イエスは女性に親しく語りかけ、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」と告げられます。女性は体が癒されたのみならず、主イエスを通して、自らを苦しめていた罪意識から救い出されました。


主イエスはここで、律法に書かれている「ケガレ」という観念そのものを否定しているのだということができるでしょう。女性に触れられても、主イエスご自身は何ら汚れることにはなりませんでした。むしろそのことによって、主イエスと女性との間に大切な出会いが引き起こされました。主イエスは女性の、そのありのままを受け入れて下さいました。

身体の症状によって浄・不浄を決める律法の枠組みを、主イエスはここではっきりと乗り越えられています。すべての人に、生まれながらに例外なく与えられているもの、それは神さまからの尊厳です。

この主イエスを通して、女性は再び共同体の内に入れられる者となりました。主イエスはこの女性の内に尊厳を取り戻してくださいました。


 

かけがえのない「私」として歩み出す

その後、主イエスはヤイロの家にたどり着きます。人々の目から見ると少女はもう死んでしまったものと思われましたが、主イエスは少女に語りかけ、起き上がらせます。奇しくもこの少女の年齢は12歳でした。出血の止まらない女性が苦しんでいた年月と同じ12年でした。

これまで12年間、父親のヤイロは娘のことを懸命に守ろうとしてきたことでしょう。しかしこの度の出来事によって、もはや頼もしい父親ではいられない自分を見出しました。そして、まことに頼るべき方を見出しました。この方によって自分の娘は新しい命を与えられました。そしていま、少女はヤイロの手を離れて、自分の足で歩み出そうとしています。

主イエスとの出会いを通して、ヤイロもまた新しくされたのだということができます。男らしくでもなく、父親らしくでもない。主イエスの前で、一人の人間としての自分自身に立ち帰り、そこから新しく歩み出そうとしています。


本日の聖書箇所は、登場するそれぞれが、主イエスとの出会いを通して「男らしさ」や「女らしさ」から自由になり、かけがえのない「私」として歩み出してゆく物語であるということもできるでしょう。

私たちはキリストと出会うことによって、周囲が自分に要求する「大人らしさ」、「子どもらしさ」、「男らしさ」、「女らしさ」などから自由にされてゆきます。すぐにそうなれるわけではもちろんありませんが、少しずつ、かけがえのない「私」になってゆきます。私たち一人ひとりが自分らしく、自分の命を生きて抜いてゆくこと。ここに神さまの願いがあるということができるでしょう。

いまの私たちが生きる社会はさまざまな局面で、私たちに「~らしさ」を強要する社会となっていっているように思います。特に、政治権力者たちが「~らしさ」と言うとき、自分たちが利益を得るために私たちに犠牲を強要しようとしている言葉である場合があります。私たちはこれら不正に対して、敏感である必要があるでしょう。


アドベントのこの時、神さまから私たち一人ひとりに与えられている尊厳の光に立ち帰り、そこからまことの力を得て、共に歩み出したいと思います。