2014年12月28日「あるがままのあなたを」

20141228日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書61-6

「あるがままのあなたを」


 主イエスの幼少期


クリスマスを迎え、降誕節の中を歩み始めました。先週の21日にはクリスマス礼拝をささげ、24日にはイブ礼拝をささげることができましたこと、こころより感謝いたします。


クリスマスは、「神が人間になってくださった」出来事です。神の子が人間としてお生まれになってくださったことを私たちは喜び、祝います。


主イエスはマリアの子としてお生まれになり、その後、私たちとまったく同じように成長してゆかれました。福音書は主イエスの成長の様子は記してはいませんが、おそらく、皆と同じように幼少期を過ごし、大人となってゆかれたのだと思います。ある程度成長すると、父ヨセフの大工の仕事を手伝うようになられたことでしょう。ちなみに、主イエスの職業は「大工」と訳すより、「木工職人」と訳す方が正確であるという指摘があります(参照:山口雅弘『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』)。木工職人は当時は社会的には地位が低い職業とされていたようです。主イエスは幼少期に決して裕福ではない家でお育ちになりました。そうして、経済的に貧しい人々の困難と苦しみを身をもって経験されたことでしょう。


 


「暗い」時代に


イエス・キリストが生きておられた当時のイスラエルは、ローマ帝国の圧政の下にある状況にありました。ローマ帝国の支配の中で多くの人々が困難な生活を強いられていました。


たとえば、当時人々には、三重の税負担が課されていたようです(参照:山口雅弘氏、同書)。ローマ皇帝への税金、ヘロデ王への税金、神殿への税金です。重い税負担で苦しむ人々を、しかし、指導者である祭司たちは見過ごしにしていました。また、社会全体が硬直化し、一部の職業や病気などに対する差別が激しくなっている状況にもあったようです。そのように人々の心が荒れ、旧約聖書の言葉がゆがんで受け取られ、人間の尊厳が日常的にないがしろにされている状態が続いていたのが当時のイスラエルの状況でありました。尊厳がないがしろにされるという、本来はあってはならない事柄が、当たり前なものとなってしまっていたのです。そのような、人間が大切にされない「暗い」時代に、主イエスはマリアの子として生まれ、ナザレの村で成長をしてゆかれました。主イエスは人々の苦しみや悲しみをつぶさに見つめ、それを心に刻みつけつつ、お育ちになってゆかれたのではないでしょうか。


 


神の国の宣言


30歳になった頃、主イエスはナザレの町を出て、洗礼者ヨハネのもとに赴き、洗礼を受けられます。そして、神の国の福音を伝える旅を始められます。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》115節)――。


主イエスが宣言したこの神の国とはどのようなものであったでしょうか。私は、この神の国を、「一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」と表現しています。主イエスは、私たち一人ひとりが神さまから見て、いかにかけがえのない存在であるかを伝えようとしてくださいました。生まれながらに、かけがえなく尊い存在であることを伝えようと願ってくださいました。


主イエスのその願いの背景には、先ほどの述べた、ナザレの村での幼少期の経験も影響していることでしょう。幼い頃から間近に接し続けてきた人々の苦しみや悲しみが絶えず主イエスの心に暗い影を落としており、だからこそ、人々に神さまからの尊厳の光を伝えたいと願われたのではないでしょうか。


 


故郷ナザレにて


本日の聖書箇所は、主イエスが弟子たちと共に、再び故郷のナザレにお帰りになった時に場面です。神の国を知らせる活動を始めた主イエスのうわさは、すでに故郷の人々の耳に届いていたようです。主イエスのうわさは、きっと人々に驚きをもって聞かれたことでしょう。故郷の人々にしてみれば、主イエスは少し前までは村で木工職人として働いていた一人の男性に過ぎないからです。そのナザレのイエスが突然、神の国を宣べ伝える預言者のような活動を始め、大勢の人々の病いを癒し、悪霊を追い出して回っている。中には、そのうわさを聞いて、主イエスが「気がおかしくなったのだ」とうわさしていた人々もいたようです321節)


マルコによる福音書61-6節《イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。/安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われる奇跡はいったい何か。/この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。/イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。/そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。/そして、人々の不信仰に驚かれた》。


主イエスは弟子たちと共にナザレの村に戻り、安息日に会堂で教え始められました。会堂とは地域の人々の集まる集会所であり、安息日には聖書が読まれたり礼拝がささげられたりした場所のことを指します。主イエスが会堂で語られたその内容は特に、神の国についての教えであったでしょう。主イエスの教えを聞いた人々はその知恵に満ちた言葉に驚いた、と福音書は記しています。そうしてとまどいつつ、お互いにささやきあいます。3節《この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた》。


 この3節の言葉には、故郷の人々が主イエスをどのように見ていたかが端的に表れています。故郷の人々から見れば主イエスは一木工職人であり、マリアの息子、ヤコブたちの兄妹でした。主イエスは村の人々から一目置かれていたり、特別な人間と思われていたわけではないことが示されています。いやむしろ、これら言葉には、故郷の一部の人々が主イエスをどこか見下していたであろうニュアンスが感じられます。その理由は定かではありませんが、たとえば木工職人という職業の故か、もしくは主イエスの出自が問題にされていたのかもしれません。いずれにせよ、故郷の一部の人々は主イエスを「軽んじていた」のであり、だからこそ、主イエスの神の国の言葉を受け入れることはできなかったようです。


 


人を軽んじる態度


主イエスは弟子たちに言われます。4節《預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである》。この主イエスの言葉は、私たちにとっても実感できることでありましょう。旧知の間柄だからこそ、相手を敬意をもって受け入れることが難しいということは、私たちも経験することです。ただし、本日の聖書箇所の場合、村の人々が職業や出自によって主イエスを「軽んじていた」というところに問題があったということができます。職業や出自によって人を判断するという当時の価値観に多くの人々が囚われており、そのような人を軽んじる態度が、神の国の福音を拒絶することにつながってしまったのです。


 自分が人から軽んじられた時、自分も誰かを軽んじることで心の安定を得ようとする衝動が私たちの心には生じることがあります。ナザレの人々もローマ帝国や権力者たちから差別を受けて苦しんだ末、自分よりさらに弱い立場にある人々を差別してしまうという悲しむべき構造が生じてしまっていたのかもしれません。


 


人間の尊厳への願い


主イエスは故郷のナザレでは《ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった》5節)と福音書は記します。《そして、人々の不信仰に驚かれた》6節)


ここで《不信仰》と呼ばれているのはどのような事柄なのでしょうか。故郷の人々の《不信仰》と対照的なものとして描かれているのは、直前の5章に登場する12年間出血の止まらない女性の姿です。周囲から「ケガレ」をもっているとされ差別され続けてきたこの女性は、自らの意思をもって、懸命な想いで主イエスのもとにやってきました。主イエスはこの女性の内に、《信仰》を見出されました。この《信仰》とは、神の国の力への「信頼」と言うことができるでしょう。また言い換えますと、人間の尊厳への切実なる想いということができるのではないでしょうか。周囲から人格をもった一人の人間として認められ、尊重されること。自分の意思をもって、自分の人生を選び取ってゆけること。主イエスに出会い、これら人間として当たり前の願いが女性のうちに取り戻されました。


先ほど、主イエスが生きられた時代は、人間の尊厳が日常的にないがしろにされている状態にあった、ということを述べました。多くの人々の心の中で、「人間の大切さ」ということが見失われていたのです。しかし主イエスのもとに自ら集った人々の心には、人間の尊厳への願いが生まれ出ようとしていました。主イエスの神の国についての新しい教えに出会うことによって、心の奥底に埋もれていたその願いが浮上していったのです。主イエスはその人間の尊厳への切なる願いを何よりも高く評価されました。この願いが、神さまの御心に適うものであるからです。


一方で、故郷の人々の心には、この《信仰》がありませんでした。人間の尊厳への願いが失われていたのです。その感覚が麻痺してしまっていた。その感覚の麻痺は、神さまを悲しませるものです。主イエスは故郷の人々のこの《不信仰》と出会い、衝撃を受けられました。故郷の人々は主イエスを受け入れることはありませんでした。主イエスにとって大切な存在である故郷の人々には、神の国の言葉が届きませんでした。


 


暗闇と光


 ナザレの村を覆っていたこの《不信仰》は、ナザレにとどまらず、イスラエル全土を覆っていたものであると思います。この《不信仰》による「暗さ」とは、「人間の大切さ」が見失われていることによる「暗さ」ということができるでしょう。主イエスはこの「暗さ」に向かって、懸命に神の国の福音の光を伝えようとなさいましたが、この暗闇は主イエスの光を理解しようとしませんでした(ヨハネによる福音書15節)。そうして主イエスはだんだんと激しい拒絶に出会うようになり、最後には、十字架にはりつけにされてしまいます。故郷で拒絶されたように、最後には大勢の人々から拒絶されてゆきました。


しかし、主イエスはそのような人々を“あるがまま”に受け入れて下さり、ゆるしてくださいました。そして、十字架において、決して消えることのない光を示してくださいました。徹底的に軽んじられ、ないがしろにされた末に、それでも消えない神さまからの尊厳の光をともしてくださいました。ご自身の存在そのものを神の国の「言葉」として、私たち一人ひとりの内に光をともしてくださいました。


主イエスの神の国の教えを聞き入れなかった故郷の人々一人ひとりの内に。主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ一人ひとりのうちに――。そしていま、私たち一人ひとりの内に、この神さまからの尊厳の光はともされています。


 

決して消えることのない尊厳の光


 主イエスが生きておられた当時、社会を覆っていたその「暗さ」は、いまも、わたしたちの生きる社会を覆っているように思います。私たちは現在も、「人間の大切さ」が見失われている暗さの中を歩んでいます。その暗さはますます深くなって行っているようでもあります。この1年、悲しいニュースが国内外でたくさんありました。また、私たちの国はいま、「人間を大切にしない」社会へと大きく舵をきろうとしています。


 そのような暗さの中を歩む私たちですが、私たちはクリスマスの出来事を通して、十字架の出来事を通して、決して消えることのない神さまからの尊厳の光があることを知らされています。どれほど暗闇が深まろうと、主イエスを通して輝き出でたこの《大いなる光》(イザヤ書91節)は消え去ってしまうことはありません。降誕節のいま、御子のご降誕と十字架に立ち帰り、神の御子が伝えて下さった「人間の大切さ」を私たちもまた叫んでゆきたいと願います。